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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
伍のこと『幸せなお伽話』
28/134

028「ハッピーエンドなら」

「そう、旦那さんと」

「……ええ」


 カクテルの思い出から佳苗は現在に至ったあらましを話した。


姫眞(ひめなお)さん、さっきあの人のこと旦那って呼んだわよね? そうなの?」

「へぇ?」


 姫眞が首を傾げた。

 女は姫眞、男は豪縋(ごうつい)といった。姫眞の特徴的な口調は生まれ故郷の訛りが入っているからなのだと二杯目の酒を飲みながら彼女は説明した。ついでに豪縋の赤い目もお洒落などではなく自前だということも。

 姫眞は先程彼を指し示すとき『旦那』という名称を用いた。だから佳苗はふたりが夫婦ではないかと思ったのだ。


「あー……うぅーん……どうなるの?」


 助けを求めるように姫眞が豪縋を見た。一仕事終えた豪縋は最初と同じように座ったままだ。


「お前のそれは単なる二人称だろう、『お前』『君』などと同じだ」

「そゆこと」

「へえ?」

「そいつは人の名前を呼びたがらん。だからそれに代わる名称を用いて他人を呼んでいるだけだ。――まあ、でも事実婚と言って差し支えはないだろうがな」

「ひぇ!?」


 姫眞が妙な声を上げて驚いた。佳苗が目を丸くする。


「じ、じじ事実婚って!? ちょっと、旦那ぁ! プロポーズするならお客さんいないとこでしてよ!」

「プロポーズ? ……したか? 今?」

「したでしょ、今! 事実婚って俺初めて聞いたよっ?」

「そうだったか、すまん」

「……うぅ、わかってない……」

「……ふふふ」


 ふたりの夫婦漫才のような掛け合いが面白くて思わず佳苗が口を押さえて笑うと、姫眞が勢いよく振り返った。気分を悪くしたかと慌てて弁明に口を開くと、彼女は逆に笑いかけた。


「あ、笑った」

「え?」

「だって佳苗さん、さっきからずーーっと悲しい顔してたよ。入ってきたときからずーっと」


 気付かなかった。

 佳苗は自分の顔を押さえる。

 弥里には精一杯隠していたこと――自分の心の底に積もっているその感情。


「……後悔をしているんです」

「後悔?」


 心に残る想いの残滓。それが膨らんでいって佳苗もわかるほどに大きくなっていた。

 それは『後悔』だ。夫を裏切ったこと、別れてしまったことへの――『後悔』である。だがひとたび口にしてしまえば、今度は弥里への裏切りになる。罪を自覚をすれば更に罪が増えていく悪循環。これが自らに対する罰なのだと佳苗は自覚しつつあった。


「それは旦那さんを裏切ったこと? それとも弥里君の人生を狂わせてしまったこと?」

「……」

「佳苗さんのやったことは確かに世間から見れば正しくないことかもしれないけれど――結局は全て当事者に還ってくることだよ」

「……」

「まあ法律とかそういうのでさ、不貞行為とか慰謝料請求とかいろいろ面倒な手続きがあるから、明確化されている悪なのかもしれないけど……でも心の問題は法律だって介入できないよ」

「……姫眞さん」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……」


 姫眞はグラスを煽った。

 

 あまりにもあっさりした幕引きだった。人が変わったように怒り狂っていた春良は突然沈静化して佳苗を解放した。どうして心変わりをしたのか、佳苗は納得していなかったし理解していなかった。明確な理由さえ話してもらっていれば今の佳苗の心境も変わっていたかもわからない。


 首輪をつけられていたのに、その首輪を理由もなく奪われて野に放たれた飼い犬のような――心細い気持ちだった。せめて彼の口から一言「君のことを嫌いになった」と告げられていればどんなによかっただろうとさえ思っている。

 だが、そんなことを口が裂けても弥里には相談できなかった。


「洗脳、されているのでしょうか」


 佳苗はぽつり、と呟く。

 軟禁されて行動を制限されて――毎夜毎夜手ひどく抱かれる。愛があったのかと言われれば、佳苗はそれを肯定も否定もできない。愛あってこそあそこまで厳しくされたのだと思う反面、自分の思い通りにならなかったからああした風に叱責したのではないかと思うところもある。


「……洗脳、かあ」

「……」

「うぅーん、知り合いの話なんだけど」

「……はい?」

「俺の知り合いね、男なんだけどさ。ちょっと実家で色々あって、とある大企業に転がり込んだのね」

「……?」


 詳細を濁しながら、姫眞は続ける。


「そこで社長さんにこう……なんていうの?見初められてね?でも本人最初はヤで、何度も抵抗したし退職しようともしたんだけど職権乱用で拒否られちゃって」

「……ひどい人もいたものね」

「まあ、そうだね。ひでえ奴だよ」


 姫眞が僅かに視線を動かした。その先に何があるのか佳苗はわからなかった。


「で、なんでこんなことするんだ、お前のことなんか好きにならないって言ったんだけど」

「うん」

「その人なんてったと思う?」

「……なにかしら」

「――『愛してやるから黙って抱かれろ』、だってさ」

「……あら」


 そんなドラマみたいな台詞を吐く男が現実にいるのか。

 佳苗は驚いた。姫眞は「ドラマみたいだよね」と佳苗の思ったことを簡潔に言った。


「でも結果――その子、呼び出されて何度も抱かれているうちにその気になっちゃって。まあ、……結論はハッピーエンドみたいな」

「……すごい、知り合い、ね?」

「えへへ……でもそれってある意味洗脳じゃん?」

「……」


 辞めたくても辞めさせてもらえず、そして何度も呼び出されては抱かれる。とうとう抱かれていた相手は宣言通り相手を好きになる――考えてみれば肉体を通しての洗脳だ。言葉を介さぬ人体の支配である。


「それでも――その子今すごく幸せなんだって。その人以外を愛せないって思うくらいに」

「……そう」

「だからなんていうのかなあ、()()()()()()()()()()()()()()()()みたいな?」


 良い話あんまりできないんだよねえ、と自嘲して姫眞は残っていた酒を飲み干した。

 洗脳されていても幸せなら問題ない。心の問題を解決するのは心の持ち主だけ。

 佳苗は言われた言葉を胸中で反復した。


「……ありがとう、姫眞さん。……私、少し考えてみることにするわ」

「うんうん、考えるの大事だよ。何事も向き合うっていうのはいいこといいこと」

「……明日も、来て平気かしら?」


 懐かしいカクテルの味を堪能したいと思ったしそれに――ここで話をすると心が軽くなる気がした。こうやって自分の胸の内を話せる場所は稀有だった。


「ぜーんぜん。いつも暇してるし。佳苗さんがオッケーなら俺も旦那もオッケーよん」

「ありがとう、それじゃあまたね」

「はーい、ばいばーい」


 佳苗はエコバッグを拾って出入り口へ向かった。もう一度振り返ってふたりにお辞儀をすると佳苗は大通りに戻る。スマートフォンを確認すると帰宅の遅い佳苗を心配した弥里のメッセージと電話が数件入っていた。


「もしもし弥里? あ、ごめんね……」


 ――佳苗は気付かなかった。

 店を出た途端その場所にもうバーがなかったことに。


 ◇


「……洗脳されていても幸せなら問題ない、か。随分な言い様だな姫眞?」

「そう? ハッピーエンドなら大抵のことは無問題じゃない?」


 佳苗の去った後、姫眞は三杯目の酒を飲んでいた。ウイスキーの色をしたウーロンハイである。


「その人以外愛せないくらいとは、お前も言ってくれるものだ」

「ええ? そう? 本当のことだよ?」


 豪縋が立ち上がった。姫眞のところまで来ると彼女の持っている酒を奪い取って呷る。


「ちょ、……豪縋さん?」

「……飲みすぎだ」

「えぇ~最初の二杯はノンアルなのにぃ~」


 空になったグラスをシンクに入れ、豪縋はカウンターから出てくる。そのまま姫眞の隣――佳苗が座っていた方ではない席――に腰を下ろした。


「不倫の末の離婚、か。自業自得……因果応報……そんな気がするが」

「豪縋さんは冷たいなぁ、男女間のあれやこれがそんな簡単に説明できるわけないでしょ」

「不倫を肯定するのか?」

「場合による」

「ほう」


 豪縋が姫眞を腰を抱き寄せて足の間に収納した。


「うわっ……なーに豪縋さん。俺が不倫しているって?」

「そんなことは言っていないが」

「でも顔怖いよ? 俺を無理矢理抱いたあの時みたい」

「馬鹿言え」

「馬鹿言ってなーい」


 足の間でぐるりと体を反転させて、姫眞は豪縋と向かい合う。体の曲線をなぞるように豪縋の指が移動していき、唇に辿り着いた。


「……言ったじゃん、もう豪縋さん以外愛せないくらいだって」

「プロポーズかと思ったが」

「ばか」


 唇に辿り着いた指を、姫眞が食んだ。


「不倫なんかしないよ、ぜーったい。だって豪縋さんしかいらないもの。……ああ、アヤとかそういうのは、ほら家族だから」

「……わかっている」


 豪縋の空いた手が姫眞のスカートをたくし上げた。臀部までずり上げると丸みを確認するように手で包みこむ。


「……豪縋さん、手の動きえっちい」

「うん?気のせいじゃないか」

「うっそ、もう反応してるじゃん」


 姫眞が()()部分に手を置いた。豪縋の眉がぴくりと動いた。


「……俺もね、シたいって思ってた」


 そう言って姫眞は豪縋の唇に触れる。

 ほどなくして水の音が――静かになった部屋に響いた。

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