027「『あの日の思い出』を」
春良はひどく落ち着いた表情で離婚届を持ってきた。昨晩までの般若のような顔がまるで能面のようになっている。恐ろしくなって「あなた、離婚しないって」と言うと彼は虚ろな目で言った。
「いいんだ。もう別れよう」
それだけ言って既に記入されている書類を佳苗に差し出した。
「名前を書いて判を押してくれ。そうすれば全部終わる」
「……は、春良さん?」
「さようなら、佳苗。――お幸せに」
ぞっとするほど無感情で、真っ暗な声で春良が言った。佳苗は恐怖に震える指先で、名前を書いて判を押した。
「――それじゃあな」
暗い声がいつまでも、耳に張り付いて離れなかった。
◇
驚くことに春良は「住んでみてお互いの価値観が一致しないことがわかったから、ふたりの幸せのために離婚する」と両実家に説明していたらしい。両親からは「なにかあったら言いなさいね」なんて頗るやさしい気遣いを受けてしまった。
狐につままれたような心地になったが、円満離婚で弥里と共になれるのだからもっと喜ぶべきだった。それでも、春良の真っ黒な声が消えてくれなかった。
「佳苗さん!」
弾んだ声が佳苗を呼び留めた。童顔の弥里が走り寄ってくると小型犬が主人を見つけて駆け寄る姿に見えて愛らしかった。弥里は嬉しそうだった。
「旦那さんと離婚できたんだね」
「……え? あ、うん」
「よかった、それじゃあこれから俺とずっと一緒にいられるね」
弥里のはしゃぎっぷりに佳苗は混乱していた。
どうしてこんなに心がもやもやするのか、望んだ結末だったはずなのに。
「佳苗さん、俺お腹すいちゃった。なにか食べよーよ!」
弥里の笑顔は変わらない。
疲れ切った毎日の癒しだったというのに――その後ろに春良の暗く沈んだ顔が重なって佳苗は下を向いた。
◇
弥里との同居生活は新鮮だった。
彼も彼でカフェのアルバイトでお金を貯め、二人で住むためのアパートを借りてきた。こぢんまりとしたけれど、穏やかな日々だった。
けれどやはり、佳苗の脳裏には春良の顔が思い浮かぶ。幸せなはずなのに、なにか引っ掛かっている。
「佳苗さん」
――佳苗
弥里の声がするたびに、重なって春良の声が聞こえる。気のせいだ、離婚して間もないから疲れているのだと佳苗は思った。
――全て終わったのだから、気にする必要などない。
気付けば佳苗は毎日、自分にそう言い聞かせていた。
ある日、弥里から「今日は夜ごはんいらないかも……帰れない……」という絶望のメッセージを受け取った。佳苗を養うためにアルバイトから社員になった弥里はたびたび残業で帰宅が遅くなることがあった。仕方のないこと――慣れっこだった佳苗は「わかったからがんばんなさい」と返した。
見慣れた帰り道――居酒屋の明かりがたくさん並ぶその中に、佳苗はある店を見つけた。
バー『人魚の壺』と書かれた青い看板だった。
居酒屋ばかりの中にそんなものがあっただろうか、とふと気になった佳苗はその店に近づいた。
小さな店だ――ドアノブの窓は貝殻の形をしていた。
「……」
弥里も遅いし、最近酒もご無沙汰だった。気分転換に、と佳苗はドアノブを押した。
からんからんと小気味いい鈴が鳴る。音に反応して振り返ったのはカウンターに座っていた女だった。
青いランプに照らされる店内でもわかるその瞳の色。紫色と緑色をしていた。髪の毛は金色、涙を流す瞳のチャームがついた簪で団子状にまとめていた。フォーマルなスーツに少しだけ遊び心を足したような、タイトなワンピースに身を包んだ彼女は、入ってきた佳苗を見るとお酒の入ったグラスを揺らしながら笑った。
「ありゃ、いらっしゃーい」
からからと女がクラスを揺らすと、氷が音を立てた。袖の広がった着物のような服を身に纏った男がカウンターの隅で座って目を瞑っていた。佳苗に気付くと目を開き、立つこともしないまま出迎えた。
「……どうぞ」
「お隣よければどーぞ」
見た目は随分大人っぽい女であるが、口調はどこか茶目っ気がある。佳苗は誘われるまま、吸い寄せられるように彼女の隣に座った。
「お買い物帰り?」
「え」
「お葱が出とるよ」
指摘されて、スーパーで買い物をした帰りだったことを思い出す。慌てて隠そうとする佳苗に女は歯を見せて笑った。
「いいよいいよ、生活感あって素敵だねお姉さん」
「お、お姉さんなんて……」
「おばさんて呼ばれるよりはいいでしょ?」
「……まあ」
三十半ばを過ぎている身だが弥里のこともあって若々しさを保つよう心掛けてはいた。だから『お姉さん』と呼ばれるのは嫌な気はしなかったが少し照れくささはあった。
「何飲む? ここノンアルもあるから好きなの頼みなよ」
「え?」
「あ、俺? 俺一応ここの店員なんだ、ホステスって感じ」
「ホステス……」
「まあ深く考えないで。俺はお話聞く係、旦那がお酒とかいろいろしてくれる係ってことだよ」
女がカウンターの向こうにいる男に目を向けた。やや吊り上がった目は赤色で、薄い唇に通った鼻筋――芸能人のような相貌の良さに思わず佳苗は目を瞠った。
「きれーな顔してるでしょ~? まあでも男なんだけれどね」
「……見ればわかるだろうが」
不満げに男がそう返した。男は手持無沙汰といった風だったので、佳苗はドリンクメニューを眺めた。女が書いたのだろうか、可愛らしいタッチで青色のカクテルが描かれていた。名前は『あの日の思い出』。
――これ美味いんだよ
昔連れて行ってもらったバーで、春良に奢ってもらったカクテルの色も鮮やかな青をしていた。ふとそのことを回想して、佳苗はその絵に釘づけになった。
「どったの? なにか気になるのあった?」
「……あ、これ」
「うん? あーそれね。美味しいよ、青いけど」
女の付け加えた一言に、男は再び口を出す。
「青いけどってなんだ」
「だって食欲減退色じゃん、青って」
「カクテルなんだからどんな色をしていたって構わんだろう」
「えぇ~そういう問題?」
親し気に言葉を交わすふたりの声は佳苗の耳には入ってこなかった。ただこのバーとの出会いが偶然ではないように思えた。
佳苗は青い酒を指差す。
「――『あの日の思い出』を」
男が数秒佳苗を見つめてから立ち上がり、それからカウンター後ろの酒の棚を開いた。
その作り方は初めてバーに来たあの頃、わくわくしながら見ていたものと同じだった。全く同じではなかったのかもしれないけれど――当時のあの場所にいる錯覚を引き起こすほど、似通っていた。
ほどなくして思い出の形そのままにカクテルが現れた。佳苗は震える手でそれを受け取る。
「……これ……」
「どったの? だいじょーぶ?」
「……いいえ、なんでもありません」
佳苗はカクテルに口を付けた。
ひどく懐かしい味がした。




