026「それじゃあな」
捨て犬は拾われて幸せになるはずでした。
◇
赤い円の中で、『満井』の文字が滲んだ。
彼の顔を直視することができず、佳苗はただ下を向いたままその書類を差し出した。
「――それじゃあな」
その声は今まで聞いたどの声よりも、昏かった。
◇
満井佳苗はその日を以て、浅村佳苗に戻ることになった。音の途絶えた家にはもう夫婦は住んでいない。かつてはおしどり夫婦なんて言われる程仲が良かったのに、いつからか夫婦の間には見えない亀裂が入っていった。最初はほんの些細なこと――しかしそれが決定的に大きな溝となっていた時にはもう、修復などできなかった。
いや、修復をできないようにしていたのは佳苗の方だ。
選んだのは自分なのだから、後悔などしてはいけない。涙を見せてはいけない。そう思って必死に感情を抑えた。自分のしたことは許されないことだ、わかっていても己の過ちを悔いるよりもこの生活を手放したい欲求の方が勝った。けれどやはり心のどこかに引っ掛かりはある。
(それでも……)
夫から受けた心の傷口と不貞行為による家庭崩壊の傷口を見比べたとて答えなど出ない。佳苗は振り切るようにどっしりと重くなった鞄を肩にかけて、愛情の消えた家を後にした。
◇
夫との出会いは社内恋愛だった。いつも会社のエリート街道を突き進む姿にいつの間にか魅了されていた。仕事一筋だったけれど、そんな背中を支えたいと自然と思うようになったのはいつだっただろうか。
もう思い出すこともできなかったが、確かに惹かれていた。だから普段しないようなアプローチを仕掛けて、結婚に至った。
会社からはそれはもう美男美女カップルが夫婦になった、なんて騒がれたし同期からもたくさんのお祝いをもらった。結婚式だって盛大に行われた。
幸せ絶頂――だった。全てはもう過去の出来事で暗闇に沈んでいってしまったけれど。
夫の春良の仕事が軌道に乗るようになってから、夫婦の会話は日に日に減っていった。
もともとは仕事人間の春良は佳苗の寂しさに無頓着で、少しでも佳苗が我儘を言おうものなら声を荒げた。
短気な人物ではない、だが多忙を極めると感情の制御が出来なくなるタイプだった。仕事ではそうはならないのに、仮面で隠している分発散するのが家になるのか、段々と春良は佳苗の言動に逐一文句をつけるようになっていた。
味噌汁が薄い、夕飯の品数が少ない、ワイシャツのアイロン掛けが適当――ちょっとしたこと、春良は普段から佳苗が怠っているような言い様で責めてくるのだ。佳苗もそれらにただ謝るだけで、反論をしなかった。反論をすればするほど――怒りが後に引くからだった。
そうやってギスギスした生活の中、佳苗がカフェで出会ったのが十歳も年が下の床屋弥里だった。名前が珍しかったのでつい声を掛けたら彼ははにかみながらよく言われるんです、と返してくれた。
夫に散々に言われる毎日で疲弊していた佳苗は、その笑顔に救われた。
今となっては掬われたのかもしれない。
それから佳苗は弥里に会うのが日課になっていた。弥里は夢を目指して上京したけど上手くいかず――というドラマにありがちな設定をやはりはにかみながら佳苗に話した。「床屋なんて名前だから勝手に実家が床屋だと思われて大変なんだ」とか「シフト入りすぎててここの社員の話が出ている」とか何気ない話をすることが多くなり始めてから、佳苗の弥里に対する感情が変化していった。
薬指の約束がある佳苗にとっては――決して許されない感情。それでも止めることができないのは、結婚をしたからこそわかっていることだった。
そしてとうとう夫が長期出張で家を空けることになったことが決まって――佳苗は線引きの向こう側へ足を踏み入れた。
弥里にカフェではなくプライベートで話したいと持ちかけると意外にも「いいですよ」と答えてくれた。もしかしたら一夜の夢だけでも見られるかもしれない、捨てられても構わない。ほぼ捨て身の覚悟で、弥里との約束を取り付けた。
(やさしさに飢えていたんだわ)
結婚して専業主婦になってからというもの、人付き合いといえばご近所のもう既に子どもがいるママさんたちくらい。彼女たちの中には明確なヒエラルキーがあって、それが見えてしまうと佳苗にはどうにも心情を素直に話す気にはなれなかった。実家の両親は高齢だし、結婚のことをとても喜んでくれていたので現状を相談するわけにもいかず――佳苗にやさしくしてくれる人は弥里ひとりだけだった。
近場のデートスポットで有名な遊園地へ向かった。道中は弥里が車を出してくれて、様々な事を話した。その日佳苗は指輪を外した。弥里といる時だけは妻である佳苗ではなく、ただひとりの女として向き合いたいと思ったからだ。罪になるとしても――膨らむ欲望を抑え込むだけの理性が壊れていた。
「はー楽しかったね、佳苗さん!」
「……弥里」
「うん?」
「……お願い、聞いてくれないかしら」
「……おねがい?」
「……」
こんなことを頼んだらきっと困惑させてしまうだろう。わかっていても聞きたかった。拒絶されても一晩だけと――それ程までに飢えていた。
「……私を抱いてくれない?」
許されないこと。裏切り。不貞。
頭の中によぎる様々な言葉。ドラマでしか見たことがない展開。
沈黙が降りて数秒、弥里が真剣な眼差しで言った。
「……いいの?」
「……え?」
「俺、佳苗さん、奪って、いいの?」
「……弥里……」
「……ずっと手に入れたかったんだ」
そう言って、弥里は佳苗を抱き締めた。
(ああ、嘘でもいい)
(このあたたかさは本物)
佳苗と弥里は無茶苦茶に求め合った。佳苗は何度も絶頂したし、弥里も何度も避妊具を替えていた。
歯車は音を立てて崩れ、もう元に戻ることはなかった。
それでもいいと佳苗は思った。
この熱を感じられる今だけが、彼女にとって一番の幸福な瞬間だったから。
◇
当初春良は気付かなかったが、悪いことというものは隠してもいつか露見するものだ。
弥里との不倫が判明すると春良は烈火のごとく怒り、髪を引っ張る顔を殴る腹を蹴るの暴行を働いた。翌日佳苗は自室に閉じ込められ、弥里と連絡がとれないよう携帯電話も破壊された。
「君がそんな淫乱な女だとは知らなかった」
「でも安心しろ、そんなことで俺は離婚なんてしてやらない」
「君が反省してきちんとした妻になるまで俺が教育してやる」
春良はそう言って、人が変わったかのように毎日佳苗を犯した。夜の営みなどという生易しいものではない、佳苗は春良に蹂躙されていた。それはほとんど強姦であった。
体中に痣ができ、無理矢理に挿入された下腹部が痛んだ。
(……ごめんなさい)
春良を変えたのは紛れもなく自分である。ストレスの発散方法がわからないタチの人であることは、佳苗だって承知していたはずだ。だからその心の重荷を下ろしてあげたいなんて思っていたのに。
自分が耐えきれなくて――裏切るなんて。
(……ごめんなさい、あなた)
佳苗は毎日泣いた。最愛の夫だった春良を裏切った自身の浅はかさを。弥里の若く希望の溢れた人生に傷をつけてしまったことを。
彼の思う妻になろう――弥里のことはすっぱり諦めてもう一度きちんと彼と向き合うべきだ。
あれは――夢だ。
佳苗はそう決意した。
しかし、決意は無為になる。
ある日突然、春良が佳苗に離婚を要求して来たのだ。




