023「清々しいほど救いようのねえ」
次の日、ずっと願っていた雨が降った。
篤はしかし喫茶店に行くになれなかった。
(嘘だろ……)
失恋などと無縁だと思っていた。今の今までさせてきた側だからだ。
まさに現在――篤は失恋していた。
「……いや、でもまだ」
望みはある。
篤には天性の優れた技巧がある――一度寝れば大概の女は鞍替えする。本当であれば二人の時間をじっくり過ごしてからにしようと思っていたが手段を選んでいる場合ではなさそうだった。
今すぐにでも壱多を手に入れよう、あんなモブ顔の野郎となんて――あってはならない。
(その方が壱多だってきっとイイだろうし)
絶対的自信は揺るがない。彼に失うものなどなにもない。奪われる側ではなく奪う側、それが篤の今までの立ち位置だ。そしてこれからも変わらない。
篤はそう自らを鼓舞して傘を差し、帰路を辿った。
「……あれ?」
喫茶店があった場所には全く別の建物があった。
門番を携えた巨大な屋敷――赤い屋根が塀に囲まれていても辛うじて見えた。
「な、なんで……?ここは『レイニー・ファニー』があるはずじゃあ」
「雨の日にいつでもある訳じゃないんですよねえ、残念ながら」
答えたのは門の前に立つ黒い傘をさした鉄道員のような恰好をした男だった。モブ風情が、と思いかけたが篤は彼の顔を見て下唇を噛んだ。
男は憎たらしいほどに――端正な顔立ちをしていた。金色の目は柔和に垂れていて、髪の毛は銀色。陶器のように美しい肌をしたその男は嘲るような、馬鹿にするような顔で篤を見ていた。彼の肩には尾がふたつに分かれた猫が乗っていて篤を見るなりそっぽを向いた。
「あ?」
「おやあ、いきなり威嚇なさらないでくださいよう。やだなあ……それにしたってどうにも、あなたって業の深い方なんですねえ」
初対面だというのに何か心の底を見透かされた様な気持ちになって、篤は言葉を荒げた。
「あ? 何言ってんだよてめえ、馴れ馴れしく口きいてんじゃ――」
「口の利き方に気を付けるのはてめえだ、クソガキ」
その声はもうひとりの同じ恰好をした男だった。こちらは赤い目をしていて髪の毛は真っ黒である。彼の足元には身を寄せる白い大きな犬がいた。
「んだと!?」
「親にも叱られたことのねえクソガキが。――とっとと入れ<紅御前>が待ってる」
「は? べに、……なんだって?」
「いいから入れってんだよ」
赤い目の男は篤の首根っこを掴むと屋敷の中に放り込んだ。よろけて篤は濡れた地面に倒れ込む。制服が泥だけだ――文句を言おうと振り返ったが門は音を立てて閉められた後だった。
「中の案内に従ってくださいね~ひとりで勝手に歩き回ると出られなくなりますよ~」
呑気な声は垂れ目の方だろう。篤は苛々しながら、前方を見た。緻密な彫刻のされた赤い扉だ――腹いせに傷でもつけてやろうかとカッターを取り出そうとしたが、鞄のチャックが噛んでいるのか、開かなかった。
「くそっ!」
篤は地面を蹴った。石は転がらなかった。
◇
扉を開けた先にいたのは龍善だった。だがスーパーで出会った姿をしていない。額の皮膚が小さく隆起していて、出来損ないの角のようだった。耳は尖っていておおよそ人のそれではない。極めつけは目――色ではなく、数だった。彼の顔には目がふたつと余計に三つついていた。定位置にふたつ、頬の部分にふたつ、額にひとつ――計五つの目が篤を見ている。
着流しを纏っていて、表情は気だるげだった。休日出勤を余儀なくされたサラリーマンのような顔だった。
「ひ!? ――な、なんだよそのコスプレ……!気持ち悪ぃな!?」
思わず叫んだ篤に、あからさまに不快感を示す。
「……誰がコスプレだ」
龍善は文句は言ったが――しかし、それ以上言うこともないようで、くるりと背中を向けた。
「……ついてこい」
聞き逃しかけるほどの低音、しかも小さく彼が言う。篤はもうちょっとはっきり喋れよと言いかけたがさっさと行ってしまったので、慌てて靴を脱いで上がった。
◇
薄暗い廊下には壁際一列に灯籠が並べられていた。廊下の木目は流れる川のように見えた。先頭を行く龍善を見失わないように篤は足を進める。唐突に龍善が足を止めた。何事かと彼の肩越しに覗くと、桜吹雪の描かれた襖があった。
「――<紅姫>さん、連れてきました」
「はあい」
少女と少年の相半ばのような声が返答する。返答に龍善が篤を一瞥して忠告した。
「――お前、変な事すんなよ」
「あ?」
変な事ってなんだ――と問う前に、龍善は襖を開いた。一気に明るくなる。
篤の前には、少女がいた。
素肌に蝶の舞う柄の着物を羽織って、白いスクール水着を着ている。薄く肌の色を透かしていて艶めかしい。サイズが合っていないのか、胸元あたりがかなりきつそうだった。まじまじ見ると際どい部分が全て見えてしまいそうな格好だった。
ベールのように下ろした長く白い髪を床に広げて座る彼女に、篤はごくりと喉を鳴らした。
(……な、なんだよこれ……?)
壱多とは違う種類の衝撃だった。
彼女は清楚だが、眼前の少女は妖艶である。大人の色香を凝縮し無垢な少女の器に閉じ込めたような印象さえあった。
龍善が襖を閉める音にすら気付かない程、呆気にとられる篤に、少女は笑いかけた。
「やあ、はじめまして。――俺が、<紅姫>だよ」
妖しくそして美しく<紅姫>が言った。
◇
「……こ、ここって……?」
「望みあるモノが来る場所……本来はね」
「え?」
「でもあんまりにも大きいからどうしようもなくって呼んじゃった」
「……どういう?」
<紅姫>は篤の問いには答えずに、自分の背後を見る。そこには長椅子を占領する銀髪の青年がいた。青年は視線に気付くと腰を上げ、<紅姫>に近づいて跪く。髪の毛をすくって愛おしそうに口づけた。姫を守る騎士のように、ごく自然な仕草だった。
「君の望みに呼ばれてきたのではないよ、後ろの子たちが収拾つかなさそうだったから呼んだの。凛龍たちの名前はいいかな?覚えてもらっても俺が不愉快だし」
「……<紅姫>さん、それはあんまり」
「結界は多分要らないよ、だから平気。危なくなったら言うから」
「……ったくもう」
呆れたように青年が言った。
それに微笑みを返してから、<紅姫>が篤の背後を指差した。
「は?」
篤は指先を辿ったが当然なにもいなかった。
「は? なに?」
「ああ、そうか。君には見えないね、見ないふりをし続けてきたから」
「何言ってんだよおまえ」
「君の話をしているんだけど……ああ、それとも純太がいると思っている?大丈夫だよ、あの子はそんなことする子じゃないから」
「……じゅん、た?」
聞き覚えがある――茉奈の元カレだ。いや正確には篤が元カレにさせた男の名である。
篤は雷に打たれたように状況を理解した――気でいた。
「はあ? あいつの復讐ってこと? こんな大袈裟なセット用意して!? お前ら頭おかしいんじゃねえの!?」
<紅姫>は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。その顔は益々篤の激情を煽った。
「復讐? セット? ……君、何を言っているの?」
「だからあいつの――早川のやつの復讐のためなんだろ!? だから……あんな……あんな惨めな思いまでさせて……!!」
「惨めな思いを、君がしたの?」
頭の血管が怒りで断裂しそうだった。
好きになった女には愛を誓った男がいる――告白もしないまま失恋の痛手を受けたのは篤にとってはこの上なく屈辱だった。
「だから――壱多ちゃんだよ!」
「ああ……」
<紅姫>が合点がいったように天を仰いだ。それから右側に見る。黒髪で白い縁の眼鏡の男がゆっくりと動いた。彼女が伸ばした指先を、男は食んだ。じゃれて甘噛みするのを愛おし気に見つめたまま、<紅姫>は続けた。
「――彼女はもとから君に好意なんて抱いていないよ。ちゃんと言ってただろう、お前の名前なんか呼んでられるか、って」
「……な」
――壱はあなたのお名前を呼ぶことはしたくないんです
思い出される棘の含まれた壱多の言葉。
かなり柔らかくされていたがあれは篤を拒絶する言葉だった。薄々は篤だって気付いていた、しかしいくらでも後から呼ばせられると忘れることにした。
「壱多はやさしい子だからね、直接的に言わなかっただけだよ。簡潔明瞭、君がはっきり傷つくように言うと」
じろりと<紅姫>が睨むように篤を見た。
「――君のこと嫌いなんだよ」
篤は必死に平静を装った。いつの間にか左側にいた無表情な男も彼女に近づいていて、彼女の立てた膝に口づけていた。
「あそこに『レイニー・ファニー』が現れたのは君のためではなく、君の後ろにいる子たちのため。悪いものを溜め込みすぎると祓うしかなくなってしまうから。『竈』の火力を上げ過ぎると庭の温度も上がるから花が逆に枯れちゃうんだよね、だから」
「……な、なんだよ……なんの話してんだよマジで……!!」
「だから君の話だって言っているだろう?」
「俺の話なんかしちゃいねえだろうが!! さっきから『竈』だの花が枯れるだの……って。後ろにいる子ってなんだよ!! 誰もいねえじゃねえか!!」
「……そうか」
<紅姫>の目が鋭く、そして声が低く――底冷えのするそれに変わった。
瞳に宿る意思は暗い。水底にたたえた闇のような冷え冷えとする暗さだった。
「自覚ができないんじゃなくて、自覚をする気もねえんだな?」
「……あ?」
「お前がどんなことをして、どんな思いをさせたか……お前、これっぽっちもわかっちゃいねえんだな?」
「……な、なんだよ……」
「わかったよ、わかったわかった。――お前が清々しいほど救いようのねえ、性根の腐ったガキだってことがようく、わかった」
「……え?」
「――龍善」
がらり、と篤の後ろの襖が開いた。龍善がその五つの目で睨んだ。
「見せてやれ。そいつの――罪の形を」




