021「おんなじなんだよ」
少女の心は現にはなかった。彼女にとって彼の与えるモノだけが本当だった。
しかし、今それはない。
「……」
ならば、ここは。
どこなのだろう。
「どこでもないよ」
声がする。
「あんたはもう、手に入れられないよ」
絶望が鳴いた。
◇
篤はそれからほぼ毎日『レイニー・ファニー』に訪れるようになっていた。無論目当ては壱多である。
篤は壱多に対し、熱心に自分のことを語って聞かせた。自分の魅力を、自分がいかに天才であるか、を必死にアピールした。壱多は話を聞いてくれはしたが、芳しい反応は見せなかった。店員だから客の話を聞いている、という態度だった。
篤は焦り出していた。今までの女は篤の整った見目とその有能さに眩暈を起こして、進展を期待する。しかし、壱多は全く気配を見せない。予兆すらなかった。
もしかして想像以上に鈍いのか、それはそれで可愛いな――などと考えながら篤は注文の時、食事の最中は水などのお代わりをお願いする時、会計の時、様々な瞬間で壱多のことを聞いた。けれど、いずれも返答は素っ気なかった。
唯一聞き出せたのは、調理を担当しているのは零雨という名の兄であることぐらいだった。兄と親しくなれば、とも考えたがこの兄は一向にキッチンから出てくる様子がないので、諦めた。
ある日、篤は連絡先を訊ねた。どんな些細なきっかけからでもオトせる自信が篤にはあったからだ。だが、その足掛かりですら壱多は与えなかった。
「ごめんなさい、壱はそういうの持っていないんです」
「うそでしょ~?」と大仰に言ってみても、壱多の答えは変わらなかった。「端末を持っていない」の一点張りで、それ以上の答えは出てこなかった。
はぐらかされているのはわかったが、ここで強引に聞き出して嫌われては元も子もなかったので篤は虎視眈々とその機会を狙っていた。
(頑固なところも可愛いなあ)
篤は、すっかり壱多に熱を上げていた。今までにない感覚だった。いつもすぐ手に入ってしまうので、焦らされるような状況は初めてだった。たまにはこういうのも悪くない――篤は意気消沈するどころか、いつになく高揚していた。
明日来た時もうひと押ししてみよう、と自信に満ち溢れた希望的観測を抱いて篤はその日も店を後にした。
店を出ると、すっかり雨が上がっていた。
「最近雨ばっかだったけど……まあいっか、壱多ちゃんに会えるし」
篤は振り返って、目を疑った。
そこにあったはずの喫茶店がなくなっていて、全く知らない別の店に変わっていたからだ。しかもその店は数年前に閉店しており『テナント募集』の張り紙がされていた。
「……え?」
篤は周囲を見渡した。喫茶店らしきものはひとつもない。慌ててスマートフォンを開き、『レイニー・ファニー』と打ち込むも、地図アプリにヒットはなかった。
「……は? え? なに?」
篤は検索エンジンに喫茶店名をかけた。いくつかヒットがあったので安心したが――
――雨の日だけ現れる喫茶店
――そこで働いているのは人ではない
――危ないものを祓ってくれる
クリックして開いたサイトにはそんなことが書かれていた。馬鹿馬鹿しいと篤が苛々して画面を消した途端に、メッセージが飛んでくる。茉奈からだった。
『ねえ篤』
『サプリないの?』
いつもならハートを多用してくる茉奈の簡素な文面。その文面からも茉奈の依存性が十二分に伝わってくる。
『ごめん』
『ちょっと待っててくんない?』
篤はそれだけ返し、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。
茉奈の言っている『サプリメント』とは行為に及ぶ前に、必ず篤が与えていたものである。しかし入手経路だった本條は現在囚われの身なので、あれを入手するのはイチ学生である篤には難しかった。
(ドラッグなんて早々手に入んねえってんだよクソ)
『サプリメント』は名ばかりで、その実態は『違法ドラッグ』だった。
海外で流通しているという危険な薬物で、生活に支障をきたすことはないが、依存性が高く、最終的に廃人になるのが関の山という代物である。
本條はバックにいた『蒼氷会』――そっちの道ではかなり有名な組織――の威を借りて独自入手していたという。
本條と知り合ったのは偶然だった。少しだけ危険な雰囲気の漂うクラブで向こうから話しかけてきたのがきっかけだった。彼も無類の女好きだった。若い頃からずっと篤と同じようにロクでもないことをしていたらしい。思想が似通っていたので、意気投合するのに時間はかからなかった。
本條は篤よりも悪事の隠匿が秀でていた。「大人だからな」と得意げに話す本條のことを、篤は好きでも嫌いでもなかった。大人のツテがあるといろいろと便利だったから、付き合っていただけだった。
本條も一見世話好きでやさしそうに見えるので、少しばかり甘い言葉を囁けば女はいくらでもついてきた。しかしその実、女がよがる姿を隠し撮りしては加工して裏サイトに流す悪行をはたらいていた。
最近になって、出会い系サイトを通じて知り合った何人もの女と同時並行で付き合っていたと自慢していた。「そんなの単なるセフレだろ」と篤が言うと本條が鼻を膨らまして「いいや違うね――」と更にとんでもなく悪し様に言ってのけた。そういうやつだった。
だから、あんな風になるなんて篤は思いもよらなかった。
ニュースやネットで流されている内容だと、本條は突然警察署に飛び込んで「僕はしてはいけないことをしました!」と泣きながら、自らの罪を告白したそうだ。警察署の人間が泣き喚く彼を落ち着かせてから、詳しく事情を聴くと「もう耐えられなくなりました」と言ったという。
今までしてきた悪事に対する責任の重さで心が壊れそうになったというのだ。
――自分のしたことを寧ろ、自慢していたようなあいつが改心?
篤はまるでゲームかアニメを見ているような心地だった。しかし関わりがあったと知られては捜査の手が自分に及ぶかもしれないと考え、保身に走った篤は自分と彼の間にあったあらゆる痕跡を消した。データも念入りに削除した。結果、篤は今何事もなく学生生活を送っていた。
「……っち」
つい余計な事まで思い出して篤は炉端の石を蹴った。
(おんなじなんだよ)
(どいつもこいつもあれとおんなじだ)
(ザコが、偉そうに主張してくるんじゃねえ)
篤は胸中で悪態をついて、家路を急いだ。
その後ろに迫る影に気付きもせずに。
◇
シャワーの音が響く。
篤に甘い親は遅い帰宅を咎めることはない。図書館で勉強をしていたと言えば「そうなの、熱心ね」とすんなり信じた。
頭からぬるめのお湯をかぶるのは心地がいい。排水溝に流れていく水をぼんやりと眺めていると、
「!?」
一瞬水が赤く染まったような気がした。しかし瞬きの間に何事もなくなっている。見間違えか、疲れているのかもしれないと篤はシャワーを止めるのに、蛇口をひねろうと顔を上げた。
「……!?」
鏡が映る背後のすりガラス越しに、誰かがいた。明らかに親のシルエットをしていない。映っている体格には見覚えがある。
――中学生の時、篤が死に追いやった男の先輩だ。顔もわからないのに影が睨んでいるように思えた。篤は早鐘を打つ心臓と竦む足を叱咤して、勢いよく振り返る。
「……え?」
そこには、なにもなかった。
先程あった影など嘘のようにいなくなっている。
「……な、なんなんだよ……?」
驟雨のように降り注ぐシャワーの音。沈黙の降りた浴室にそれだけが響く。
篤は明日雨が降ればいいのに、と願った。




