02「やあ、はじめまして」
玄関に鍵はかかっていなかった。
見た目よりもずっと軽い手ごたえで、扉は内側に開いた。幾何学模様のタイルが七葉を出迎えた。
(それもそうか、『門番』がいるのだから……)
七葉は妙な納得をしながら、室内に足を踏み入れた。
中には案内役がいると皇龍は言っていたが、誰もいなかった。勝手に上がってもいいのか、真面目な性格の七葉が悩んでいるところで、彼女の耳が足音をとらえた。それは廊下の奥から近づいてきていた。
「っ!」
息を呑んだ。
曲がり角から現れたのが金髪で紫色と緑色のオッドアイの目を瞠るほどの美女、だったからではない。現れた美女の頭に狐の耳と尻には尻尾がついていたからだ。創作の世界でしか見たことのない『ケモミミ』というものだろう、文美がサブカル好きだったから、七葉はその名称を知っていた。
着物のような格好をした女性は、裾で口元を隠して笑った。
「ようこそ『桜雲館』へ。今回のご案内させていただきます姫綺と申します」
アトラクションのキャストのように、狐耳の女姫綺が言う。非現実的なことばかりで、七葉は段々夢でも見ているのかという気分になってきた。
会いたい気持ちが強すぎて白昼夢でも見ているのではないか、と。
――しかし、姫綺が七葉の心を見透かしたように、否定した。
「残念ながら夢ではございません。試しに頬でも抓ってみてはいかがでしょうか?」
うふふ、と妖艶に笑う彼女に七葉ははっとなる。
――夢ではない、これは現実なのだ。
「夢心地になるとは当然でございますね。いつもの道にいつもない建物があって、獣の耳を生やした女がいるなんて……己が目を疑っても仕様ない状態でございます」
七葉の思っていることはすべて姫綺には筒抜けだった。胸中を言い当てられて、恐怖がよぎったもののある種確信に近づくようでもあった。
もしかしたら本当に、自分の望みを叶えてくれるかもしれない、と。
「どうぞ、こちらです」
くるりと踵を返して歩いていこうとする姫綺の背を、慌てて七葉は追った。
「あ」
姫綺が立ち止まる。なんだろう、と七葉が次の言葉を待っていると――
「――履物はどうぞ、お脱ぎくださいましね」
とローファーを履いたまま上がろうとする七葉を注意した。
◇
途方もなく長い廊下を歩いていたかと思うと、姫綺が突然体の向きを変えた。それから恭しく正座をして、襖をこんこんと叩く。
「――はあい」
少年のような、少女のような声が応答する。
「<紅姫>様、お客様です」
「――ああ、いいよ。ちょっとだけ待ってね」
くぐもった声がそう言ってから衣擦れの音が微かに続いて、
「はい、どうぞ」
と了解が降りた。姫綺は正座のまま少しずれて、襖を開く。姫綺が視線で「どうぞ」と促すので、七葉は軽く頭を下げて敷居をまたいだ。
眼前の光景に、目を奪われた。
「やあ、はじめまして」
部屋には棚と長椅子だけがあった。生活をするにはあまりにも簡素な室内だった。床を毛足の長い絨毯が覆っている。
真っ白で長い髪は、床にまで伝っていてベールのようだった。着物を直接肌にひっかけていて、下半身は下着一枚だけである。片足には赤い紐がぐるぐると巻かれ、足首あたりでリボン結びにされていた。首元も同様な装飾がなされており、矮躯にやや不釣り合いな谷間には、赤い文字で何かが書かれていた。まじまじ見るのは気が引けて、七葉は視線を外す。
彼女はアンティーク調の長椅子に、身を横たえていた。周囲を美しい顔立ちの男たちが取り囲んでいる。絵画のように整った構図に、今しがた振り払ったはずの夢見心地に陥る。
〝叶えてくれるかもしれない〟という願望が、〝きっと叶えてくれる〟という確信に変わった。
それくらい、眼前の光景はこの世のモノとは思えなかった。
「俺が、<紅姫>だよ」
小首を傾げて彼女は言った。前髪で左目が隠されているが、露わにされている右目には夜空が浮かんでいた。藍色に銀の光がちりばめられていて、見つめられていると吸い込まれそうになる。七葉が呆然と立ち尽くしていると、姫綺が肩に触れて言う。
「御前に。大丈夫、礼儀作法は特にいりませんから」
そう言って、七葉を部屋に入れるとぴしゃりと襖を閉めてしまった。
<紅姫>と男三人、そして七葉。緊張せざるを得ない状態に、七葉は拳を握る。
「――今、姫綺が言っていたでしょ」
<紅姫>が後ろにいる男にもたれるように背を倒す。そのタイミングで、その膝の上に彼女を乗せていた銀髪の男が<紅姫>の頭を抱き寄せて口づけた。あまりにも自然なことだったので、七葉は赤面する暇さえなかった。
「礼儀作法もマナーもないよ。君がここに来たっていうなら君には叶えたい望みがある。望みがあるから君はこの境界を越えてきた」
「……境界?」
ぺろりと<紅姫>が自分の指を舐めた。ぞくりと、背中に何かが走る。
「そう、境界。この世とこの世でないところ」
「……ここは、あの世ってこと?」
「まさか。とんでもない! この世ではないというだけで、あの世ではないよ」
<紅姫>が足を伸ばすと足元に座っていた男が爪先に唇を寄せた。白い縁の眼鏡をかけた男だ、不思議な柄の入ったベストを着ている。年の頃はわからなかったが、銀髪の男よりも年上そうだった。
「君は死ぬことはないさ、ただ君の望みを叶えるためには差し出しもらわなくちゃいけないモノがある」
「……なにを、差し出せばいいの?」
「――『魂』だよ」
『魂』。
人の体に宿るという生命の根源――人は死ぬと21g体重が軽くなると言われている。これは『魂の重さ』だという。
七葉はこれもまた、サブカル好きの文美から聞いたことがあった。当時は「ふうん」なんて聞き流してしまったけれど。
――馬鹿馬鹿しいなんて、言えない。
こんなところまで来てしまって、確信を得ている現状で、七葉は『魂』の存在を〝非現実的だ〟なんて否定できなかった。『魂』を否定するのなら、ここにある自分すらも否定しなくてはいけない。
ここにある自分が現実なら、『魂』の存在もまた同じく現実なのだ。
「……『魂』、を」
七葉が言うと、<紅姫>は薄く微笑んだ。どきり、と心臓が跳ねる。
「そう……でも、差し出すにはその心の錠の鍵を見つけないといけないね」
「……鍵?」
「そう、鍵。扉に隠されているからね、望みというのは」
「扉、って……」
「秘密の扉。鍵を開けるには、もう少し待たなくては……かな?」
「……」
七葉は胸元に手をやった。鼓動を感じる掌がじんわりと熱を持った気がした。
まるで、ここにあると教えてくれているようだった。
――誰も言えない秘密の扉。開けるための鍵は、一体どこにあるのだろうか。




