018「私でいられる場所」
――良いですか、涼
――お前は旗丹家のために
祖母の形相は鬼のそれだった。
必死だったのだろう。幼心に理解した。
――お前は旗丹家を途絶えさせないための
――お前は今から女として
そんな風に言い寄られる息子を、両親は無関心に放っておいた。
誰も涼のことなど、見ていなかった。
◇
「……ちっちゃい頃は『普通』だったんだけどね」
「それは君の決めた『普通』?」
「……そうね、たぶん私が決めた『普通』」
「そっか」
「……そう」
傍らにいる少女は女という成熟した芳香を放っているのに、その口調は無邪気な少年だった。<紅姫>は手近なぬいぐるみを抱き締めながら涼と隣り合わせに座っている。男たちは二人っきりになるのを恐れたが、<紅姫>が強く「待ってて」と言うので大人しく遠目に見守っていた。
「両親はもう……家のこととかね、どうでもよかったみたい。でも、祖父母が許さなくって……旧家の歴史を絶やすなーって」
「そう。どこも家っていう枠組みは窮屈だね」
「そうね、ほんとにそう」
涼は何かの手違いだとすら言われた。
産まれた子どもに対して第一声がそれか、と後々聞いてから思ったが、強烈な祖父母に母も父もほとほと疲弊しきっていてもはやそれに対し反論する気もなかったそうだ。旧家のプライドをどんなに老いても忘れぬ祖父母によって涼は生まれながらにずっと『名家の令嬢』としての教育を施されていた。
狭苦しい田舎のくだらない権力者――旗丹家と稲架家。結びつきは江戸時代にさかのぼるだのなんだの言われたけれど結局、祖父母は高い位置から引きずり降ろされることを恐れただけだ。旗丹家よりも稲架家の方が裕福だったから。――だから、涼と啓吾をなんとしてでも婚姻関係にしたかったらしい。
「今にして思えばだいぶ無理矢理だった。でも、祖父母の……鬼みたいな顔が怖くって。うん、としか言えなかった」
それから涼は女性らしい所作や言動を覚えるように教育された。体つきが男っぽくならないよう――もう思い出したくもないようなことを強要された。
「私も、そうして過ごしているうちに段々自分のことを女だって思うようになっていたんだけど……やっぱりお風呂とかトイレとか。行くとね、自覚をするの。……ああ、私、女じゃないって」
与えられた役目を全うするためだけの器。隠し通せればなんでもよい――啓吾はもしかしたらそんな不遇な涼に同性として同情を抱いたのかもしれなかった。生来気のやさしい彼だ、拒絶することで涼を傷つけることを避けたかったのだろう。しかし、結局彼は受け止めきれずに浮気という道に走った。どうにもこうにも涼が勝てぬ土俵の上で。
「男じゃ子ども産めないって言ったのに、そんなの養子をもらえばいいって。ほんと、おじいちゃんもおばあちゃんも家のことばっかり……疲れたから逃げるように上京した。でも、その時にはもう、私もわかんなかった」
自分は一体――どちらなのか。
男だろうか女だろうか。体は男なのに心はすっかり女だった。そのちぐはぐさに困惑した。どうやって生きればいいのか悩んだ結果、涼は心に従うことにした。絶対にバレないように日ごろから努力していた。だからこそ啓吾の前では素のままでいられて心地よかった。
「……たぶん……私もそういうところに行けばこの状態に名前つけてもらえると思う」
「ジェンダーが云々とかそういうのかな? 未知の状態が怖いからみんな適当に名前を付けているんだと思うけれどね。別に俺はどんな性別であろうと大切なのは中身の方だと思うよ」
「中身……」
「俺は性別というものを粘着性の高いレッテルだと思っているんだよね。産まれた時からひっついている識別コードみたいなもの……どうにかして剥がすことだってできるでしょう?だったらそんなに大切なものではきっとないんだよ」
「……」
「決して変えることができないわけではない、今は医学が進歩しているからね。とってつけたり、作ってつけたりできるようになった」
「……」
「だったら性別云々よりも自分らしく生きられるかどうか――そのあたりが大切なんだと思うんだよね」
「……あんた、すごいね」
<紅姫>が「なにが?」と首を傾げる。愛らしい仕草だった。
「だってそんな風にあんまり、考えないじゃん」
「考える余裕がないからじゃない? みんな生きるのに必死だから」
「……そうかもね」
こうやってゆっくり誰かと自分自身のことを話したのは久しぶりだ。両親は無関心で、祖父母は家のことばかり。啓吾も結局――去っていった。会社にも涼の性別のことを知る者はいない。隠すことが当たり前になってくると、涼も自分が女になったのでは、と思うこともある。そして、トイレに入って痛感する。
自分には余分なものがある――と。
「でも俺がさっき言ったように粘着性が高いから――無理矢理剥がそうとしたり知識のない誰かが剥がそうとすると傷ついてしまう。だから慎重にはなるべきだとは思うよ」
「……ねえ<紅姫>」
「なあに?」
「私が望めば、私を――女にできるの?」
「できるよ」
さらりと<紅姫>が言った。彼女の腕の中で大きな三毛猫のぬいぐるみが潰れている。
「……そう、なんだ」
涼が顔を伏せると、「でも君の望みはそうではないよね」と付け加えた。
「どういうこと?」
「望めばってことは、たとえ話でしょう? 君が今心の底から望んでいることではない」
「……揚げ足とるのやめてよ」
「でも真実でしょ?」
――真実だった。
女になった途端に啓吾が戻って来てくれても涼は嬉しくない。それは結局涼と別れた理由が同性だったというだけの話になるし、戻ってきた理由だって同じになる。涼自身のことを好きではないと暗に伝えられているようで苦しくなる。だから涼は体は素のままにしていた。
「女になりたいのかこのままでいいのか……正直もうわかんないの。私、ずっとこれで生きてきたから」
「ふうん――それって、わからなくちゃいけないこと?」
「え?」
「自分が何者かなんて結構長く生きてても曖昧なものだよ」
「……へえ、あんたも?」
「そうだね、神様じゃないってことだけは確かにわかるかな」
「そりゃそうでしょ」
「どうだろうね」
<紅姫>が三毛猫を掲げる。
「自分が信じれば何にでもなれる――ものだよ。思い込みってすごいから。体を見ない限り君が女だって信じていられるくらいにね」
「……嫌味に聞こえるんだけど」
「そう? ごめんね」
口にした謝罪の気持ちはほとんどない。でも涼の方もそこまで嫌な気持ちではなかった。
「……私は、私でいられる場所がほしい」
ぽつり、と涼がこぼす。
その言葉を<紅姫>が拾った。
「それは望み?」
「……え」
「望みなら叶えてあげるよ――君の『魂』で」
「……たま……しい」
ぼんやりとして、ふわふわした理解だった。でもそれが自分にとって大切なモノだということはなんとなくわかった。
「君がいろんな人に好かれているみたいだから、消えないと思う」
「へ?」
「望みを叶える代わりに『魂』を貰って、『魂』を失った人たちは『想われ続ける限り』生き続ける。誰の記憶からも見捨てられたら消える。――『管理局』の連中とそういう約束になっている」
「……想われ続ける限り……」
「良い意味でも悪い意味でもね。憎まれ続けてこの世に留まるやつもいる」
「……」
涼は手元を見る。
膨らまない胸元はブラジャーにパッドを仕込んで、反応しなくたって膨らんでしまう足の間は無理矢理に押さえつけて。いろんなところを加工して涼は生きていた。それらを捨て去ることが出来る場所が手に入れられるなら――
「でも君の場合はすぐに奪わなくてもいいかも」
<紅姫>がぬいぐるみをぽい、と捨てて控えていた男のひとりに声を掛けた。
「紅凱、榧に連絡とって」
「おや、いかがなさるおつもりで?」
「熟成させる」
「……ああ、なるほど。かしこまりました」
紅凱と呼ばれたその男は、すぐに合点がいったようで、眼鏡の位置を直してそそくさと部屋を出て行く。何が起っているのかわからない涼は目を瞬かせて<紅姫>を見ていた。
「執行猶予――ってやつかな」
「執行猶予? なんの?」
「俺に『魂』を食らわれるまでの」
「はぁ……」
すぐに先程の男が帰ってきて、「了承いただきましたよ<紅姫>」と報告した。
「君に居場所を提供する。そこで君が役に立てば君の『魂』を奪っても君は消えない」
「……ていきょう?」
「君が君らしくいられる場所さ」
言って<紅姫>が手を伸ばすと、紅凱がその体を抱き上げた。
「ちょっと乱暴でなんでもありなところだけれど、ちゃんとしていれば生きていける」
「え? え? なに? 何が起こってんの、まじで?」
「十五分ほどでいらっしゃるそうです」
「りょーかい……さ、涼、用意して。ああ、大丈夫、会社の連絡とか諸々は」
「ちょ、なに、ねえ!」
涼を置いてけぼりにして、何かが決断されていた。
それが何なのか――わからないままに。
 




