017「ほっぺたでもつねってみれば?」
「はあ……?」
涼はそれを見上げて、そう言うしかなかった。
営業所に行こうとしていた――なのに、肝心の営業所がなかった。
「……なによこれ」
そこにあるのは巨大な屋敷だ。塀で囲まれていて辛うじて赤い屋根だけが見えていた。窓にすべてカーテンがかけられており、外から中の様子は窺えなかった。
駅から歩いてくるうちに、今日は随分と人が少ないなと思っていた。営業所近くになるとすっかり人の行き来が途絶え、眼前には営業所ではなく屋敷が佇んでいた。
「え、営業所は……? 営業所はどこに行ったのよ?」
「会社は今別の場所に建っておりますよー」
答えたのは門の前に立っていた黒い服の男だった。地面で甘えてくる猫の腹を撫でている。
駅員のようにも、軍服のようにも見える服である。涼は「……だれ?」と小さく問うた。
「ああ、申し遅れました」
男は猫を抱き、立ち上がった。金色の垂れ目をした人当たりの良さそうな男である。
「俺は『桜雲館』の『門番』でございます、皇龍と申します。あ、こっちは猫の織々です」
「にゃあ」
抱きかかえられた猫が、人懐っこそうに鳴いた。
「わ、かわいい……じゃなくて!」
「あれ~? お話お聞きになったんじゃ、ないんですか?」
いやに呑気な物言いで、皇龍が言う。調子を狂うな、と涼は思った。彼は猫を肩に乗せると、笑顔のまま「昨晩、雪紫樹様よりお聞きになったのでございましょう?」と訊ねた。
(雪紫樹くんから聞いたこと……? それって……)
記憶を呼び起こす。忘れられなかったあの単語を。
「……『桜雲館』の<紅姫>?」
「その通り! ここは『狭間の世界』です。あの世でもこの世でもない、どこにでもあってどこにもない世界……時間の流れはひじょーに、遅いので。会社に遅刻することはございませんので、ご安心を~」
涼の心中を察したと言わんばかりに、先んじて皇龍は説明をした。
「……望みを」
「ええ、望みを叶えてくださいます。まあ、ひとによってはそうすぐ、叶えてくれるわけでもないんですが」
「……」
「……面倒くせえな、さっさと入れ」
苛々した調子で言うのは、皇龍と同じ格好をした男だった。彼と大きく違うのは、ひどく不愛想だということだ。彼は赤い目で涼を睨み、乱暴な動きで開門した。足元にいた灰色の狼と見まがう犬が、開門時の音に反応して耳を一度ぴくりと動かした。
彼の態度を、皇龍が諫める。
「こら、影嗣。ですからあなたはお客様にもう少しばかりやさしさをですね」
「っち……うるせえ。お前は喋りすぎなんだよ」
「えぇー? でも<紅御前>はお赦しになってくださってますよう」
「目ェつぶっているだけだ、馬鹿」
「馬鹿とはなんと! ひどいですね。そう思いませんか、涼さん?」
「えっ?」
突然同意を求められ、涼はしどろもどろになる。
(ていうか、なんで私の名前知っているの……?)
皇龍の浮かべる笑みが胡散臭いと感じ始めた瞬間、涼の背中が強く押された。影嗣だった。「なに!?」と振り返るのとほぼ同時で、扉が音を立てて閉められた。
「中には案内役がいますのでその方についていってくださいね~別行動すると迷子になって戻ってこれなくなりますからね~」
「にゃあお」
「ふん……」
「わふ」
皇龍がにこやかに手を振り、猫が呼応するように鳴いた。影嗣は一瞥もしなかった。代わりのように、犬があくびを噛み殺したような吠え声を上げた。
眼前の門が開く気配はない。皇龍も影嗣も真正面を向いてしまい、後ろを気にする様子はない。肩の上の猫と足元の犬の視線が居た堪れなくなって、涼は諦めて目先にある赤い扉へ進んだ。日本家屋の様相をしながら、扉は洋風だった。ドアノブを回し、扉を開く。開いた玄関先にいたのは――
「ウソかホントか、わかったあ?」
「……へ? 雪紫樹くん?」
現れた雪紫樹は、涼の知っている姿をしていなかった。
艶々と光るエナメル質の、露出度の高い服を身に纏っていた。腕も足も腹も惜しげもなく晒されている。所謂ボンテージ衣装である。耳も尖っていて、蝙蝠に似た羽が生えていた。涼は目を丸くして固まる。
「あ、悪いけど。制服んときと違ってー、これコスプレじゃないから。ほらほら~、羽根。生えてるでしょ?」
くるりと背を向けた彼の羽根は、確かに背負っているというよりも生えているといった方が正しかった。どういう細工なのか、羽と皮膚は完全に癒着していた。証拠に雪紫樹が「これでどーよ?」と羽根を動かして見せた。肩甲骨が動くと、合わせて羽がぱたぱたと稼働した。
「俺ってさー『夢魔』なんだよね。インキュバスってやつ~ま、緋色のしかキョーミないんだけど」
「……む、むま? インキュバス?」
「そ」
雪紫樹が簡潔に答える。普段なら「またまたそんなご冗談を」なんて思ってしまうが、営業所のあったはずの場所がこんな建物に変わっている時点でそんなことは言えない。白昼夢にしては、あまりにも現実味のある光景だった。
「ま、紅っちに会えばわかると思うよ。ほらほらー靴脱いでー」
雪紫樹に促され、なにがなんだかよくわからないまま涼は言われた通りにヒールを脱いだ。
「はい、じゃあついてきて~」
くるりと背を向けた雪紫樹は軽やかな足取りで歩きだす。涼は転びそうになりながらその背中を追った。
◇
廊下は薄暗く、天井から下がっている可愛らしいウサギやクマの照明だけが頼りだった。ぶつからないように避けながら、雪紫樹の後ろに必死になって食らいついた。程なくして雪紫樹が立ち止まる。不意に照明の数が激減し、目の前に襖が現れる。桜吹雪の舞う襖の前で、雪紫樹が叫んだ。
「紅っち~? つれてきたよん♡」
「――はあい」
返事があってすぐ、雪紫樹が襖を開いた。
「やあ、はじめまして」
目を奪われるとはこのことだ、と涼は思った。
色とりどりの低反発クッションを敷き詰めたふかふかとした感触の床に、ぬいぐるみにあふれた部屋。襖からは想像も出来ない、ファンシーな室内だった。
そこに、少女と、彼女を囲むように男が三人座っていた。
少女は白く長い髪を、三つ編みに束ねてレースのリボンで結んでいた。ピンクの布地にフリルをあしらった水着を纏っている。布面積が異様に狭いその上から、レースのカーディガンを羽織っていた。あちこち露になった格好で大中小と大きさの異なるぬいぐるみが転がっている中、両足を左右に広げてちょこんと座っていた。
この世にあるありったけの『可愛い』を凝縮したような光景に、若干眩暈を覚えた。
真っ白な肌に、宝石のような瞳をした少女は笑った。微笑みは、愛らしいが艶やかだった。
「俺が、<紅姫>だよ」
外見とは裏腹にいやに男勝りな一人称で、彼女は挨拶した。
◇
「……えっと、……なに、これ? ここどこ?」
「あれ、さっき皇龍が言っていなかった? 『桜雲館』だよ」
「……いや、だって……え?」
「この館は毎回構造が変わるんだよ。だから案内が必須なんだ」
「構造が変わる?」
なんだそれは。頭の理解が追い付かない。
やはりこれは、夢?
「俺の格好とかによっても変わるね。ピンクでフリルだからそれにあわせて部屋が変わったんだ」
長い袖を振りながら<紅姫>が説明するも、涼は半分も理解できていなかった。
背後にいた銀髪の男のひとりが不意に動き、<紅姫>に体を支える。彼女もそれをわかっているようにもたれた。まるで、椅子のように。彼は、白地に金糸で刺繍が縫い取られた王子様のような恰好をしていた。水着の彼女とはいささか不釣り合いではあったが、そんなことはどうでもよい。眼前の風景を処理するのにいっぱいいっぱいだったので、きれいな顔しているなあ、『門番』と同じで金色の目をしているんだあ、くらいの感想しか出てこなかった。
「……なに? え? なにこれ? ドッキリ?」
「誰が誰に何のためにドッキリを仕掛けるのさ。現実だよ?」
「え、だって、……は?」
「えっとこの子が凛龍ね」
「……え?」
「で、あっちの眼鏡の男が紅凱。こっちの眼鏡かけていないそっくりな男が紅錯で――」
「ちょ、ちょちょっと待って!」
涼は手を以て、<紅姫>の言葉を制した。止められた彼女は首を傾げて、「ごめん、わかりづらかった?」と問う。
「ち、違うの、そうじゃなくって……! ここは、ここはどこなの?」
まず、本題だ。涼はそのつもりだったが、<紅姫>の反応はそうではなかった。
〝そんなことはわかっていると思っていた〟といった風に、「雪紫樹たちから聞いたんじゃないの?」と再び問いを重ねた。
「……え?」
同じことを、『門番』に問われたはずだ。そう遠くもない記憶を、手繰った。
――『桜雲館の紅姫』。
望みを叶えてくれる存在。
「……うそ、でしょ?」
「じゃあ、ほっぺたでもつねってみれば?」
こうやってさ。
柔らかそうな頬を<紅姫>が自分でぎゅう、と引っ張った。
「……」
望みが叶う場所。望み?
何を、自分は望んでいるのだろうか。
「そういえば友人にこういう恰好が好きな男の子がいるんだ。彼はもともと可愛いものが好きで、好きだからこそ身に纏っていたのだけれど……。昔は随分周りから、変な目で見られていたみたい」
<紅姫>が突然世間話を始めた。彼女は話しながら、手招くように袖を振る。左側にいた白い縁の眼鏡をかけた男――彼女が紅凱と紹介した男だ――が彼女のすぐ傍まで来て、その頬にごく自然な動きで口づけた。
「でもおかしな話だよね? どうして生まれた性別が男なら可愛いものを纏うのがいけないの?」
「……!」
「同性を好きになるのはいけないこと?」
「……そ、れは……」
「誰もいけないなんて言っていないのに、誰もが『普通』を求めて生きている。『普通』から逸脱するのは怖いから」
「私……っ」
「――でもね、『普通』なんて基準はどこにもないよ。それは、君が決めていいことだ」
<紅姫>が視線を右側に移す。「紅錯」と彼女が名を呼ぶ。呼びかけに応じ、彼は無表情に近寄って、彼女の首に唇を寄せた。
「だから俺も、大切なものはたくさんあってもいいっていう『普通』を決めている」
「……」
愛おしそうにそれぞれ近づいてきた彼らに口づけを送る<紅姫>。その様子はさながら聖母のごとく、神々しく涼の目に映った。
「君の生き方だって『普通』だよ、誰かとなんら変わらない……なのに、どうしてだろうね? 隠していなきゃいけないんだ、大衆の『普通』はそれを認めないから。ねえ、旗丹涼」
「……!!」
隠さなくてはいけなかったこと。
――あ、同性同士びっくりしちゃう感じ?
あの時の複雑な心境。内側に潜んでいた、羨望。
「君の『普通』って、なあに?」
虜にされるとはこのことだ。
涼の心の錠前は、音を立てて外れた。




