017「ほっぺたでもつねってみれば?」
「はあ……?」
涼はそれを見上げて、そう言うしかなかった。
営業所に行こうとしていた――なのに、肝心の営業所がなかった。
「……なによこれ」
そこにあるのは巨大な屋敷だ。塀で囲まれていて辛うじて赤い屋根だけが見えていた。窓は全てカーテンが敷かれていて、外から中を覗くことは不可能になっていた。
駅から歩いてくるうちに人が少ないなと思っていたが、営業所近くになるとすっかり人の行き来が途絶え、代わりに屋敷がそこに建っていた。
「え、営業所は……? 営業所はどこに行ったのよ?」
「会社は今別の場所に建っておりますよー」
答えたのは門の前に立っていた黒い服の男だった。地面で甘えてくる猫の腹を撫でている。
「……え? ど、どういうこと? やだ、私道間違えて」
「間違えておりませんよ、あなたは来るべき場所に来ております」
「え?」
「ああ、申し遅れました。俺は『桜雲館』の『門番』でございます、皇龍と申します。あ、こっちは猫の織々」
「にゃあ」
抱きかかえられた猫が人懐っこそうに鳴いた。
「わ、かわいい……じゃなくて!」
「あれえ、お話お聞きになったんじゃないんですか?」
いやに呑気な物言いで皇龍が言う。調子を狂わせてくる男だった。猫を肩に乗っけると笑ったまま彼は続けた。
「『桜雲館』の<紅姫>――昨晩雪紫樹様よりお聞きになったのでございましょう?」
「……あ」
「ですからここにおります。ここは『狭間の世界』――あの世でもこの世でもない、どこにでもあってどこにもない世界……時間の流れは非常に遅いので会社には遅れませんよ」
「……望みを」
「ええ、望みを叶えてくださいます。まあ、そうすぐに叶えてくれるわけでもないんですが」
「……」
「――面倒くせえな、さっさと入れ」
苛々した調子で言うのは、もうひとりの男だった。赤い目で涼を睨み、乱暴な動きで門を開いた。
「影嗣。ですからあなたはお客様にもう少しばかりやさしさをですね――」
「うるせえ、お前は喋りすぎなんだよ」
「えぇー? でも<紅御前>はお赦しになってくださってますよう」
「<紅御前>はやさしいから目ェつぶってるだけだ馬鹿」
「馬鹿とはなんと! ひどいですね」
なんだかんだと言いながら、皇龍が「どうぞどうぞ」と涼の手を引っ張って、それから少し背中を押して敷地に入れると素早く門を閉じた。
「中には案内役がいますのでその方についていってくださいね~別行動すると迷子になって戻ってこれなくなりますからね~」
「にゃあお」
皇龍と猫の声が背後からする。どうにも外へは出られないようだと理解した涼は目に留まった赤い扉へ進んだ。日本家屋の様相をしながら、扉は洋風だった。ドアノブを回し、扉を開く。開いた玄関先にいたのは――
皇龍と猫の声が背後からする。どうにも外へは出られないようだと理解した涼は目に留まった赤い扉へ進んだ。日本家屋の様相をしながら、扉は洋風だった。ドアノブを回し、扉を開く。開いた玄関先にいたのは――
「ウソかホントか、わかったあ?」
雪紫樹だった。けれど、彼は涼の知っている姿をしていなかった。
耳はとがっていて、背中に羽根を背負っている。上半身は裸だが、下半身は艶々と光るエナメル質のぴったりとしたズボンだった。
「……ゆ、雪紫樹くん? その恰好……?」
「あ、悪いけどコスプレじゃないよ? 羽根生えてるでしょ?」
くるりと背を向けた彼の羽根は、確かに背負っているというよりも生えているといった方が正しかった。どういう細工なのか、羽と皮膚は完全に癒着していた。証拠に雪紫樹が「これでどーよ?」と羽根を動かして見せた。肩甲骨がひくつくのに合わせて羽がぱたぱたと稼働した。
「俺ってさー『夢魔』なんだよね。インキュバスってやつ? まあ緋色のしかキョーミないんだけど」
「……む、むま? インキュバス?」
「そ」
雪紫樹が簡潔に答える。冗談を言っているようには見えなかった。それに営業所のあったはずの場所がこんな建物に変わっている時点で普通ではない。涼は白昼夢を見ている気分だった。
「ま、紅っちに会えばわかると思うよ。ほらほらー靴脱いでー」
雪紫樹に促され、なにがなんだかよくわからないまま涼は言われた通りにヒールを脱いだ。
「はい、じゃあついてきて~」
くるりと背を向けた雪紫樹は軽やかな足取りで歩きだす。涼は転びそうになりながらその背中を追った。
◇
廊下は薄暗く、天井から下がっている可愛らしいウサギやクマの照明だけが頼りだった。ぶつからないように避けながら雪紫樹の後ろに必死になって食らいついた。程なくして雪紫樹が立ち止まる。不意に照明の数が激減し、目の前に襖が現れる。桜吹雪の舞う襖の前で、雪紫樹が叫んだ。
「紅っち~? つれてきたよん♡」
「――はあい」
中性的な声だった。雪紫樹が襖を開いた。
「やあ、はじめまして」
目を奪われるとはこのことだ、と涼は思った。
ぬいぐるみにあふれた部屋に少女とそれを囲むように男が三人座っていた。襖からは想像も出来ぬ部屋だ、足元は色とりどりの低反発クッションを敷き詰めた床である。
少女は白く長い髪を三つ編みに束ねてレースのリボンで結んでいた。ピンクの布地にフリルをあしらえた覆う面積のいやに少ない水着を纏い、その上からレースのカーディガンを羽織っている。スケスケにギリギリな格好で大中小と大きさの異なるぬいぐるみが転がっている中、両足を左右に広げてちょこんと座っていた。
この世にあるありったけの『可愛い』を凝縮したような光景に若干眩暈を覚える。少女が笑った――人形のように肌が白く、宝石のような目を持った彼女が微笑んでいた。
「俺が、<紅姫>だよ」
外見とは裏腹にいやに男勝りな一人称で、彼女は挨拶した。
◇
「……えっと、……なにこれ? ここどこ?」
「あれ、さっき皇龍が言っていなかった? 『桜雲館』だよ」
「……いや、だって……え?」
「この館は毎回構造が変わるんだよ。だから案内が必須なんだ」
「構造が変わる?」
なんだそれは。頭の理解が追い付かない。
やはりこれは夢なのだろうか。
「俺の格好とかによっても変わるね。ピンクでフリルだからそれにあわせて部屋が変わったんだ」
長い袖を振りながら<紅姫>が説明した。
背後にいた銀髪の男のひとりが不意に動き、<紅姫>に体を支える。彼女もそれをわかっているようにもたれた。彼も白地に金糸で刺繍が縫い取られた王子様のような恰好だった。足の間に彼女の体を抱え、じいっと金の目で涼を見つめた。
「……なに? え? なにこれ? ドッキリ?」
「誰が誰に何のためにドッキリを仕掛けるのさ。現実だよ」
「え、だって、……は?」
「えっとこの子が凛龍ね」
「……え?」
「で、あっちの眼鏡の男が紅凱。こっちの眼鏡かけていないそっくりな男が紅錯で――」
「ちょ、ちょちょっと待って!」
慌てて涼が制した。
「ん? ごめん、わかりづらかった?」
「ち、違うのそうじゃなくって……! ここは、ここはどこなの?」
「え? 雪紫樹たちから聞いたんじゃないの?」
「……え?」
雪紫樹から聞いたこと――『桜雲館の紅姫』。
望みを叶えてくれる存在。
「……うそでしょ?」
「じゃあほっぺたでもつねってみれば?」
こうやってさ。
柔らかそうな頬を<紅姫>が自分でぎゅう、と引っ張った。
「……」
望みが叶う場所。望み――何を、自分は望んでいるのだろうか。
「そういえば友人にこういうかっこが好きな男の子がいるんだ。彼はもともと可愛いものが好きで、好きだからこそ身に纏っていたのだけれど――今こそ違うけれど当時はだいぶ周りから変な目で見られていたみたい」
<紅姫>が突然世間話を始めた。彼女は話しながら手招くように袖を振る。左側にいた白い縁の眼鏡をかけた男――紅凱が彼女のすぐ傍まで来て、その頬にごく自然な動きで口づけた。
「でもおかしな話だよね? どうして生まれた性別が男なら可愛いものを纏うのがいけないの?」
「……!」
「同性を好きになるのはいけないこと?」
「……そ、それは」
「誰もいけないなんて言っていないのに、誰もが『普通』を求めて生きている。『普通』から逸脱するのは怖いから」
「私……っ」
「――でもね、『普通』なんて基準はどこにもないよ。それは、君が決めていいことだ」
<紅姫>が視線を右側に移す。そこにいた男――紅錯が無表情に近寄って、彼女の首に唇を寄せた。
「だから俺も大切なものはたくさんあってもいいっていう『普通』を決めている」
「……」
愛おしそうにそれぞれ近づいてきた彼らに口づけを送る<紅姫>。その姿は慈母のように見えた。
「君の生き方だって『普通』だよ、誰かとなんら変わらない――なのに、どうしてだろうね。隠していなきゃいけないんだ、大衆の『普通』はそれを認めないから。ねえ、旗丹涼」
心の錠が音を立てて、外れた。




