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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
終のこと『桜雲館の紅姫』
126/134

126「おかえりなさい」

 狂輔(きょうすけ)から「『錠前』のみんなには伝えておいたから。後は適当に」とずいぶんと雑なことを言われて、(こう)は戸惑った。

 膠は声に出して「もう!?」と、時期尚早であると伝えたものの彼女は素知らぬ顔であった。いや、あれははっきりと笑いを堪えていた。


(あの野郎……完全に意趣返しじゃねえか……)


 膠は思いながら『錠前』が集まっているであろう、部屋の襖の前で立ち止まっていた。

 心の整理がついたかといえば、正直微妙なところではある。しかしながらこれ以上時間をかけても何の意味もない。『錠前』とて暇ではないのだ、任せられている仕事がある。

 それに――


(『門番』の子にも悪いし)


桜雲館(おううんかん)』の開閉を司る『門番』は、<紅姫(べにひめ)>の意向を重んじる。つまるところ、<紅姫>の号令がないと『門番』の仕事も満足にできないのである。何をするにもやはり――膠が肝心となるのだ。

 当然だ、この『緋紅楼(ひべにろう)』の『楼主(あるじ)』は<紅姫>膠なのだから。

 己の意志がすべてを決定するということを、忘れているわけではなかった。だが、やはり荷が重いと感じる。


(俺の望み……。まだ、叶えられてねえな)


<紅姫>とひとつになった今でも、膠は膠自身を無条件には愛せなかった。まだ相応しくないのでは、と考えている。それでは駄目だと強く叱咤する己もいて、どうしようもない自家撞着を繰り返していた。


 『慈母』は言った。自分を救うことは罪ではない、と。そして、夢から覚めるべきだとも言った。

 膠は問いかけに答えなかった。

 無言になった膠を見て、彼女はやさしく笑いかけただけだった。それ以上の言葉は重ねなかった。

 膠はその意味をわかっていた。だから、そのまま『御殿』を辞した。


(()()()()()()()()()())


 時間は無限にある。何故なら膠たちは不老不死であるから。望みを捨てない限り、膠の体は動き続けるし、心はそこにあり続ける。

 変わらないことを望んだはずなのに、変わらなければならない局面にいた。


(皮肉なものだよな)


 仰ぐ襖には大輪の花。何の花か、膠は知らない。おそらく『外』にはない花なのだろう。これは膠の目に咲いていた花である。左目の視界を覆う赤。今はその花の内側に、蝶のはばたきを時折聞いた。

 頼りにしていた<紅姫>は本当にどこにもいない、自分なのだ、と思い知らされる。

 深く息を吸い、そして吐き出す。

 膠は襖に手をかけた。


(『桜雲館』に訪れていた客たちもこんな気持ちだったのか……)


 立場が逆転したな――なんて自嘲気味に思いながら、襖に手をかけた瞬間だった。


『どうぞ』


 様々な声の交わったひとつの音が、膠を誘った。

 膠は息を呑む。まるでわかっているかのようなタイミングだった。

 開いた襖の向こうの世界を、膠は想像できなかった。


 ◇


 左右一列に並んだ『錠前』たちの目が、入室した膠へ向く。心臓が馬鹿みたいに早鐘を打つような心地だった。

 上着の衣擦れの音も掻き消えるくらいの心音に、膠の足が一瞬竦む。顔を上げるのがつらくて、俯いたまま歩を進めた。視線を痛いほど感じたが、下唇を強く噛んで耐えた。

 いつもの場所にはいつも通りの三人がいた。紅錯(こうさく)が右側に無表情に座し、左側に紅凱(こうがい)が微笑みを浮かべて、すぐ後ろにいる凛龍(りんりゅう)は片膝を立てて穏やかな顔をしていた。

 中央に座して振り返るだけだった。けれど、振り返るのが怖かった。どくどくと波打つ鼓動をどうにかして鎮められないか思案していると、不意に「早くしろ」と急かす声が耳に入る。ぶっきらぼうなその物言いは、聞き覚えがあった。

 ゆるりと視線をそちらへ向けると、予想通りの人物が欄干に座っていた。

 影経(かげつね)である。黒い帽子に黒い外套という黒づくめの彼は片手に黒い紳士用の傘を持っていた。その傘は息子からの贈り物である。そのことは贈った本人がなんともないように言っていたから、膠は周知していた。


「……なんで、ここに」


 こぼれた問いに、赤い光が細められた。睨んだわけではないことは、長い付き合いで知っている。

 影経は『錠前』ではなく、『死神』――『回収課』は<紅姫>の管轄外である。確かに狂輔は<紅姫>の我儘を受け入れることは多々あったものの、影経に対する決定権においては<紅姫>に譲渡はしていない。彼を動かすのはあくまで魂の管理をする『管理局』、その『局長』だ。だから、いないものだと思っていた。

 膠の問いに「うるせえ」と影経は返した。問いかけに答えないという意思表示である。しかし、代わりに首に巻かれた黒のマフラーの中から現れた黒い蛇が、「僕らは心配だから来たんだよ」と心中を暴露した。「嶺羽(みねは)ッ」影経が叫ぶが、嶺羽は聞かなかった。


「駄目だよう、影経。意地悪言っちゃ。膠はみんなの大切だからね、それに紅錯の大切だもん。だからお話を聞きたいんだ、だめ?」


 蛇の体で器用に首を傾げて訊ねる。嶺羽の人懐こい顔が思い浮かんで、膠は数秒の沈黙の後、「……別にいいよ」と言った。

 拒む理由はなかった。それに拒んだところで素直に従ってくれるとは思わなかった。

 すう、はあ。部屋の前でした深呼吸を、もう一度する。三人の目にはただやさしい光だけが宿っていた。胸が苦しい。切なくて泣きそうだった。でも、もう戻ることも逃げることもできない。

 己に課した責務は、全うしなければならない。

 膠は意を決して、後ろを振り返った。それから、口を開く。


「……やあ、みんな」


 我ながら弱々しい声だと思った。皆は何か言葉を待っているように、無言であった。

 なんだろう、と考えてはっとする。ああ、そうか。彼らは、きっと。

 思いついたその単語を一度頭で発声し、それから音にのせた。


「――ただいま」


 待っていたかと言わんばかりに、全員が笑った。

 歯を見せて快活に笑う者、微笑むだけの者、微かに笑みを見せているだけの無表情に近い顔の者――各々それぞれであったが、咲き方の違う花を見ているようだった。

 誰ひとりとして、負の感情を抱いていない。そのことは、はっきりと感じられた。


『おかえりなさい』


 膠は目に力を入れた。

 そうでなければ、涙がこぼれてしまいそうだったから。

 やさしさが、胸を貫くようであった。


 ◇


「泣くんじゃねえぞ、話が進まねえからな」


 無言になった膠に向かって、不器用なやさしさが投げて寄越される。影経だった。

 膠は「泣いてないよ」と着物の裾で目元を拭い、その場に正座した。


「……少しばかり、待たせてしまったね」


 弱々しい声だと自分で思う。だが何をどう話せばよいのか、わからなかった。

 ひとまず謝るしかない、と膠が口を開くと、それより先に襖ががらりと開いた。


「ああ! これはこれは。もう皆様おそろいで」

皇龍(おうりゅう)、てめえ。道覚えているんじゃなかったのかよ」


『門番』たちだった。文句を言う影嗣(かげつぐ)に皇龍が「仕方がないだろう、この屋敷は常に変わっているんだから」と口を尖らせる。言い合いをするふたりの横をすり抜けて膠へと向かってきたのは、アッシュグレイの毛並みの狼と紫色の猫だった。彩羽(さいは)織々(おりおり)である。


「わ! ……彩羽」

「……」


 狼は何も言わず、膠の体にすりすりと頭を擦り寄せた。猫も我が物顔で膠の膝の上を陣取る。

 戸惑う膠に声をかけたのは、皇龍だった。


「撫でてやってください。アニマルセラピーというやつですね」


 皇龍に促され、膠は遠慮がちに彩羽と織々の頭を順々に撫でた。二匹とも満足そうに目を細め、すっかりその場に落ち着いてしまった。主人のもとに戻る気配がないので、膠は諦めてそのふわふわとした感触を堪能する。アニマルセラピー、言い得て妙である。確かに先ほどまでの暗い気持ちが吹き飛ぶようだった。


「あれ、もしやこれは皆様あのお言葉を既に『紅御前(べにごぜん)』に?」

「おかえりなさい、ならもう言ったよ皇龍」


 周囲を見渡す皇龍に答えたのは、『夢魔』の雪紫樹(ゆきしき)である。脱色した髪を虹色で染めた青年は、エナメル素材のボンテージに似た際どい衣装で、あぐらをかいていた。隣で恋人の緋色(ひいろ)が赤面して戸惑っている。


「おやまあ! 出遅れました、これは失敬」

「ったく……」


 ふたりの変わらぬやりとりを見ていた夜鴉(よるからす)が「あいっかわらず仲いいな~」と感想を述べた。彼女は腰に生えた白い羽を畳んで器用に座っている。皇龍が軽くウインクして応じる。


「俺たち、親友ですから。――な? 影嗣」

「……うぜえ」

「なんだよ、つれないな~」

「つうか、今『紅御前』が話すところだろうが。クソおしゃべりが、黙れ」

「うわ。うわうわうわ~……聞きました~? 皆様、このひと。相変わらず口がお悪い」

「あぁ!?」


 漫才のような掛け合いに、膠が思わずふ、と噴き出す。すると、皇龍と影嗣の目が同時にそちらへ向いた。


「我々の事はお気になさらず。好きでやっていることですゆえ、いくらでもお待ちしておりますよ?」

「……あ」

「別に無理して好きにならなくたっていいんじゃないっすか。俺もまだ……、俺の事好きじゃねえし」

「……」


 影嗣の複雑な心境を察して、膠は真剣な眼差しを返した。

『まるでもうひとり自分がいるような』自己嫌悪――かつて彼の口から語られた己の性質である。

 比較的穏やかになりつつあるようだが、影嗣の口ぶりから察するに完全に払拭できたわけではないのだろう。


「……まあ最近はそれも、俺の一部ってことでいいかって思ったりもしますけどね」


 やや自嘲気味に影嗣が付け足した。それから皇龍にからかわれて、目くじらを立てていた。

 己の一部、という言葉を聞いて膠ははっとする。


(そうか、俺の――一部)

 ――じゃあ言い方を変えようか、君も<紅姫>、それも<紅姫>


 不意に蘇ったそれは自身を取り戻すのを渋っていた時に、狂輔に言われた言葉だった。

 己を厭う心もまた、自分の心。

 膠はそっと己の、もう鼓動を聞くことのできぬ心臓部分に手を当てた。


 果たして、自分は許されるために今ここにあるのか。

 果たして、何を望みここに立つのか。


 膠は自問自答する。

 そして――


「きっと、聞かされていると思うけれど――」


 そう前置きして、語った。

 己と<紅姫>のその出会いと別れについて。

 ほかならぬ膠自身の口で、語った。

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