112「俺たちにはすべきことがある」
「――何を呑気に寝ているのですか」
気分の悪いモーニングコールだった。
凛龍はゆっくりと目を開く。呆れた顔で自分を見下ろしているのは紅凱である。後ろには姫綺もいた。
寝顔を見ているうちに自分も寝てしまったようだ。凛龍は「……るせ」と小さく文句を言いながら上体を起こす。
「床で就寝されますとお体に障りますよ、凛龍さん」
「……平気っす、丈夫なんで」
姫綺の言葉に、複雑な気持ちで凛龍は返した。頭を掻き毟る。
風呂に入っていなかった。人間とは衛生状態が違うので、一日風呂に入らなかったからといって即刻不潔になるわけではないけれど、なんとなく人間態だから気にしておきたかった。
あとで入るか、と考えている矢先、紅凱が、
「膠君!?」
と叫んだ。何事だ、と凛龍もそちらを見ると、眠っていたはずの<紅姫>が目を覚ましていた。
眼前を見据えて固まっている。
「膠さ……っ、いや、<紅姫>?」
凛龍の問いに、「そうだよ」と寝起きにも関わらず、明瞭な声で<紅姫>が肯定した。
彼女は目を擦った。あたりを見回し、姫綺を見つけると人懐こい笑みを浮かべた。
妖艶さもなにもない、ただの少女の笑顔だった。
「やあ。少しばかり世話をかけたね、可愛い魔女」
「……いいえ」
<紅姫>は自分の手を数秒見つめてから、凛龍の方へ視線をずらした。
夜空のような瞳からは、星が消えていた。真っ黒なうろのような目だった。
「あの子が戻ってきたんだね」
<紅姫>の言葉に、そこにいた全員が頷いた。
その時、廊下の方から足音が聞こえてきた。誰かが全速力で駆け抜ける音である。
足音は寝所の前で止まり、勢いよく襖が開く。そこにいたのは紅錯だった。
彼は膠を横抱きしていた。いつもの無感情な姿とは打って変わって、見るからに焦っている顔だった。
「おい、膠が――……え?」
起きている<紅姫>を見て、紅錯が驚く。意外に表情豊かな男である――と凛龍は思った。
「俺たちは起きている間に会うことができないの。ねえ、その子をこっちに連れてきてくれる?」
<紅姫>に言われて、紅錯は膠を抱えたまま寝台へと近づいた。
すぐそばまで来ると「隣に寝かせて」と彼女が言うので、その通りにした。膠は電池が切れたように寝入っている。
「やあ、膠……俺の還る場所。もう二度と出会うことなんてないって君が言ったのにね」
愛おしそうに<紅姫>が膠の頬を撫でた。
膠は身じろぎひとつしない。
「……<紅姫>、あなたと膠は一体」
紅錯の問いに、<紅姫>は切ない笑みを浮かべた。
「俺はこの子の望みそのもの。この子の欲望の形。……この子は、空っぽになることを望んだから」
心が壊れてしまわないように。
<紅姫>は語り出した。自分がどうやって生まれたかを。
◇
膠の生まれは緋乃神一族。呪い呪われる一族。そして、死空一族子飼いの『呪術師』だった。
俺はずっと膠の心の中にいた。俺が生まれたのは膠の、女の子の大切なものを乱暴に奪われた日のことだよ。紅姫という名前はこの子がつけてくれたの。緋乃神の緋の字と、あとはお姫様って意味でね。ふふ、そう、可愛いでしょう。膠って意外と可愛いものが好きなんだよ。絶対自分からは言わないのだけれどね。
閑話休題。
死空は残酷な一族だった。
死をもたらす者と屈辱をもたらす者が二人一組で行動する。死と屈辱を同時に与えるんだ。そのために、特別な薬を打つ。屈辱をもたらす方が、ね。
薬が抜けるまで時間がかかってしまって、同じ一族の者にとっては都合が悪い。だから抜けるまで相手をするのが、膠をはじめとする緋乃神一族の女の子たちだった。呪いの効果で死ぬほど痛い思いもするっていうのに、ついでみたいに。ひどい話、というのかな。それとも『亜人妖種』じゃ当然だから仕方のないこと、なのかな。
俺にはちょっとわからないや。
まあ、そんな風に、ひとのように扱われることはあんまりなかったから、緋乃神一族はみんな産まれてすぐ命を諦めるんだ。そうやって教えられる。だから膠も諦めていたよ。
死ぬことこそが彼らの救いだったんだ。だからどんな責め苦にあっても、彼らは死ねないことを苦しんだ。行為そのものではなくってね。
でも、……膠はちょっと違って。心のある、とてもやさしい子だったから。自分がこのままだと壊れてしまうって思った。その時に俺が生まれた。
――ごめんね
――どうして謝るの?
――俺が耐えられないから
――いいよ、俺は君だもの。助けてあげる
――ありがとう
そうやって膠は快楽も苦痛も全部を俺に託した。
そうするとこの子は空っぽになって、なんにも感じなくなる。だから長生きしたんだ。そう、紅錯、紅凱、凛龍。君たちに出会うまでずっと生き続けられた。
俺はずっとこの子を助けてあげてきたけれど、その間に成り代わるなんて考えたことはなかったよ。
一度も。これは神様に……ふふ、狂輔になんか誓ったら怒られてしまうかな? それくらい俺はこの子を好きだったし、膠も俺のことを信じてくれていた。
二度目の転生でもこの子はずっと俺に全部を託した。そんなことしなくていいんだよ、って言ったのに俺じゃあ相手できないから、って。相手って……そう、君の愛に答える相手、ね。
その時はまだ、膠は膠を覚えていた。膠が俺に全部あげるって言ったのは三度目に目を覚ます時だった。
怖かったってこの子は言った。紅凱にも愛されているって感じた時、凛龍にも好きって思われているって気づいた時、この子はひどく動揺していた。どうしよう、なにも返せないって。
だから目覚める時に言われたの。
――紅姫、俺になって
――どういうこと?
――俺じゃダメなんだ、君なら大丈夫だから
――膠?
――もう俺は膠じゃない
――え?
――どうにかするから、君が俺になって
愛されても返せないって。それに、もしかしたら膠のことじゃなくて、求められているのは紅姫かもしれないって。そんなわけがないのにね、この状況を見ればわかるでしょう? でも、この子は信じない。信じられない。
騙していた負い目があるから、さ。
ねえ、こんなことを聞いて君たちはこの子のことを嫌いになった?
……なるはずないでしょう?
そんな顔しないで凛龍。君のせいじゃないんだ。この子の夢を壊さないように生きていた俺のせいでもあるんだよ。
◇
誰もが黙っていた。どんな言葉もどんな慰めも意味がないと感じていたからだ。
<紅姫>は愛おしそうに膠の頬を撫でた。膠は身じろぎひとつもしない。死んだように眠っている。
「膠は消えてしまいたいと願ったから、俺はこの子の望みを叶えてあげようと思った。……俺の存在価値はそれだけだから」
「……彼女がそれを望んだと」
紅凱が訊ねると<紅姫>は首肯した。
彼はいつになく厳しい表情をしている。
「そうだよ。俺は望みを叶える化け物だもの、……叶えてあげなきゃ」
「結果的にあなたが成り代わることになっても?」
「……」
紅凱の追及に、<紅姫>は悲しげに微笑んだだけだった。
「……成り代わったところで、俺たちには気づけなかった」
「!」
紅凱が目を見開いて紅錯を見た。
彼は寝台の横で立ったままである。その顔に表情はないように思えたが、どこか寂しそうで辛そうだった。形容しがたい感情があるのだろうと、紅凱は察した。
「俺たちがこうして対面しているのは姫綺のおかげだ。俺たちは……<三結界>である俺たちは<紅姫>の意思を責めることはできない」
感情が削がれているからこそ、言葉が重りになって心に沈んでいく。
紅錯が語っているのは事実である。姫綺の気づきがなければ、成り代わったことさえ気づくことはできなかった。
「……俺たちにはすべきことがある」
紅凱と凛龍が頷く。<紅姫>は彼らの決意に、安堵した。
姫綺もやさしく笑っている。
「そのままのあなたで構わないんだ、ということを伝えなければいけない」
紅錯の言葉に、沈黙が降りる。
全会一致の静寂であった。




