011「お会いになった方がいいですよ」
本能的溺水反応というものがある。
子どもが溺れた時、声を上げることなく沈んでいく現象である。何が起こったのか理解できず、助けを求めることができない子どもたちはただ、水底へ沈んでいく。
◇
気が付けば『から紅』にきて一ヶ月が経とうとしていた。さすがにまずいと思い、紅蓮にその悩ましい胸中を話した。店番の夜鴉の背中が見える居間で、純太と紅蓮は卓袱台を挟んで座っていた。
「うん? 家に?」
「はい……さすがにお邪魔しすぎかなって……」
「どこに?」
「へ?」
「どこに、帰ろうというんだ?」
「……」
紅蓮に問われ、純太は口を噤んだ。
どこに? 家族にも見限られて、それが辛くてここにいるのに?
ここから出て、どこに向かおうというのか。水底は静かで暗くて――心地が良いのに。
「……僕は、本当にどこにいるんでしょうか」
ぽろり、とこぼれた。
異世界に来てしまったかのようにここはあたたかい。全員赤の他人のはずなのに、ずっと前から知っているような、懐かしい人のぬくもりがある。
(僕の知っている何もかもが嘘だったみたいだ……)
心の傷はありありと残っているのに、血だって流れて、もうとっくの昔に死んだと思ったのに。
やさしさが点滴されて、辛うじて生き返った自分がいる。
愚かにも、生き返ってまた泳げると期待する魚が。
「……紅蓮さん」
「ああ」
「……一度帰って、話をしてみます」
「……」
「思えばちゃんと話をしていなかったから。……話をしてみれば、信じてもらえるかも……しれません」
「そう、したいのか……お前が」
「……はい」
「そうか。お前が思うなら、俺が止める権利はない。――行っておいで」
「っ……あの、紅蓮さん……」
「――またおいで。いつでも、待っているから」
質問に先回りで答えられた。
純太の視界が不意に滲む。紅蓮はやさしく微笑んでいた。
「ここは誰も拒まない。開いている限り誰でも歓迎だ」
「その店番は俺がしてンすけどぉ?」
半眼で振り返って、夜鴉が言った。
「……ただもう来られんかもしれないが……」
「え?」
聞き返したが紅蓮は答えなかった。代わりに「……純太、お前、『桜雲館』の<紅姫>って知っているか?」と訊ねた。聞き覚えのない言葉だったので純太が首を傾げると、何故か紅蓮は寂しげに目を細めた。
「都市伝説のようなものだ。なんでもひとつ望みを叶えてくれる」
「……望み、を?」
「ああ、そうだ」
紅蓮は時々冗談を言って和ませてくれるが、彼の目は真剣だった。からかっている風ではない。純太は彼の話を真摯に聞いて、そして、
「お前の望みを話せば、楽に……なれるかもしれない」
「楽に……」
「もう、苦しむ必要はないよ」
「……っ」
紅蓮は視線をわずかに足元に向ける。その状態のまま、「いい人だよ」と言った。
「え?」
「<紅姫>のことだ」
「……ああ……」
「決してお前を傷つけることはないだろう」
「……」
「心の錠の鍵はもうお前の手の中にある。開くためのきっかけさえあれば、お前の望みはきっとわかる」
「……紅蓮さん」
「お前も、良い奴だ。――だからこそ、すくわれることもあるんだろうがな……」
「……」
紅蓮が立ち上がった。
そして冷蔵庫を開くと、炭酸飲料と駄菓子を純太に手渡した。
「餞別だ、持って行け」
「……ありがとう、ございます」
純太は手渡されたそれらを、鞄にしまった。夜鴉の隣に革靴を置いたその時、後ろで二階から降りてくる足音が聞こえた。振り返ると可愛らしい中華服に身を包んだ藍明がいた。滅多に顔を合わせることがなかったので、純太は少しだけ緊張した。
花びらを散らした独特の虹彩が、不思議そうに自分を見つめている。
「……あ」
「――帰るの」
透き通った、感情ののらない声で藍明が問う。硝子の声だと、ヴィレントラスが愛おしげに語っていたのを思い出した。
「……うん……帰るよ」
「痛くないの」
「……」
「苦しかったらいいの」
「……?」
「苦しいのも痛いのももう終わっていいの。あなたはがんばったから」
「……っ」
唐突な言葉に、純太は俯いた。鼻の奥がつん、と痛くなる。目頭に力を込めて、精一杯涙をこらえた。
「……ありが、とう……」
鼻をすすって顔を上げると、今度は逆に藍明が俯いてしまった。
「……藍たちはそちらへは行けないの、ごめんね」
「……」
「でも、忘れないで」
「え?」
「――藍たちと出会ったことは、夢じゃないから」
それだけ言って藍明は足早に、二階へと戻っていった。その姿を微笑ましく眺めていた夜鴉が歯を見せる。
「ま、そーゆーこった。がんばれ少年、応援してっぞ」
拳を振り上げる夜鴉と、その後ろにいる紅蓮に純太はもう一度深々と頭を下げた。
店先にいたヴィレントラスと目が合う。彼の目には悲哀が浮かんでいた。でも憐れみはなかった。ただ純粋に別れを惜しんでいるようだった。
「……純太少年」
「すみません、ヴィレントラスさん。……いろいろ、気にかけてくださった……のに」
「……いや。君のことを想うなら閉じ込めておくのは正しくないことはわかっていた」
「……」
「我々のことは気にするな。君の未来は君が拓け。――たとえ遅かったとしても」
「……ありがとう……ございます」
(本当にやさしい人たちだ)
久しぶりに純太は人の心のやさしさに触れることができた。傷だらけでもう機能しないと思っていた心も、血が通っている気がする。水の中にいるような息苦しさは未だ取れないけれどそれでも。
満たされているとは感じていた。
「本当に、ありがとうございました」
純太は再度、深く深く頭を下げた。
そして、来た道を戻ることにした。――水面に上がることができないとしても。
堕ちていくだけの、下り坂を。
◇
(あれ……?)
坂を下ればすぐ分かれ道に戻ってくると思った。しかし、どうにもおかしい。
(なんで……?)
分かれ道が一本になっていた。真っ直ぐに進むことしかできなくなっている。
(僕の家が……)
なくなっているとでもいうのだろうか? まさか。
親までどこかへ消えてしまったのか。一抹の不安を覚え、純太は周囲を見渡す。だが光景はちっとも変わらず、暮れかかった道の先は薄暗闇に閉ざされつつあった。
(……こっち、でいいのかな)
間違っている道だとは理解していたが、進む道が前にしかないのだからそうするしかない。『から紅』へ戻ろうとも考えたものの、坂の上は異様に真っ暗で純太は、あの闇の中に飛び込む気にはなれなかった。
いつもの住宅地のはずなのに、妙に閑散としていた。人の気配がしていない。
(……なんだ?)
急に目の前に広がるすべてが恐ろしくなった。振り返っても、飲みこまれてしまいそうな闇がそこにあるだけ。じわじわと広がってくるような錯覚に、純太は途方もなく長く感じる一本道をひたすらに歩いた。自分の靴音しか聞こえない道をただひたすらに。
段々と果てがない気がしてきて、背中に冷や汗が流れた。
(ど、どうしよう)
この年齢で迷子とは。泣き出しそうになるのをぐっと堪えて純太は小走りに道を進んだ。光景が怖い程に変わらない。
「……な、なんだよ……なんだよこれ……!」
純太は黙っているのも怖くなったので、声を出して突き進んだ。すると、ふと人の気配を感じた。
「……え?」
純太の視線の先には、屋敷がそびえていた。
門の前にはしゃがみこんで吹き戻しで遊ぶ成人男性がいた。
「ん?……おやあ、これはこれは!」
吹き戻しの男が純太に気付いて声を上げる。鉄道員のように見える格好をした銀髪の男だった。金色の垂れ目が純太を見遣る。
「え? あれ、こんな屋敷……」
「お帰りなさい、純太さん。どうでした?」
「な、なんで僕の名前を……?」
彼は吹き戻しから口から外すと、にっこりと笑った。
「知っていますよう、ええもちろん」
「……え?」
「あなたが今どこにいらっしゃるのか――とかもね」
「……」
男が再び吹き戻しを口にして「ひょろろろー」と鳴らした。その音に傍らにいたもうひとりの男がぴくりとこめかみを痙攣させた。彼の目はヴィレントラスと同様に真っ赤だった。
「……皇龍、鬱陶しいぞそれ」
「えぇ? 影嗣、これの良さもわからないんですか? ……可哀想に」
「あぁ!?」
皇龍の挑発に影嗣が目くじらを立てると、更に煽るように彼は再び気の抜けた音を立てた。
影嗣は「てめえ……」と言ったが、言っただけだった。口喧嘩をするつもりはないとでもいう態度でしゃがみこみ、傍らにいた大きな犬の体を撫でた。犬はくあ、と大きなあくびをして撫でられているのを黙って享受していた。
「こちらにいらしたということは、紅蓮様からお聞きになったのですね」
どこか嬉しそうに皇龍が言う。にこにこと愛想がいい男だが、純太は有無を言わさぬ圧をなんとなく
感じていた。
「……紅蓮様……」
「はい、<紅御前>のことを何かおっしゃっていませんでしたか?」
「べ……べにごぜん?」
「ああ、<紅姫>様のことです。失礼、俺たちはあまり呼び慣れておりませんで。姫、と呼ばれるのがあまりお好きではないらしいんですよ」
「……はあ……?」
「そういうわけで、敬意を込めまして我々は<紅御前>とお呼びしているのです。ああでも絶対に嫌な訳ではないそうですからお気になさらず」
「……えっと?」
「まあ、とりあえず――中に入りましょう、寒いですしね」
純太に相槌を打つ隙すら与えず好きなようにしゃべった皇龍は、「ささ、どうぞ」と純太の背中を押した。
皇龍と半ば強引に門の中へ入れるとがしゃん、と大きな音を立てて門を閉める。
「え……え!?」
「お会いになった方がいいですよ~」
「ぴょろ~」という間抜けな音を立てて皇龍が言った。
拒否権はなさそうだ。諦めて、純太は目に見えた赤い扉へ向かって歩くことにした。
「……もう体温なんざねえだろ」
影嗣の呟きは、純太には聞こえていなかった。
 




