100「なんで?」
俺はその瞬間、顔の見えない隣人になった。
彼女にとっての、彼らにとっての。
そして、この世界にとっての、隣人になった。
紅姫、俺は。ひとりで死ぬよ。
たったひとりで死んでいくから。
だから、君はみんなに囲まれて生きてね。
幸せになってほしいんだ。
さあ、ゲームスタートだ。
俺が絶対、ハッピーエンドにするからね。
◇
『いじめていただなんて……失礼してしまいますね、あれは一族の風習です。致し方のないことですよ、膠』
「ふうん。君はそうやって正当化するんだね」
<紅姫>はひどくつまらなそうに言った。真実、彼女はもう興味を失っている。
面白いことがないもない状況を<紅姫>はひどく嫌うのだ。
「まあいいや。それで? 碧衣はどうして俺に会いたかったんだっけ」
<紅姫>は足を伸ばしてぱたぱたと動かしながら訊ねた。碧衣は「う、うん」とやはり緊張の面持ちで答えた。
「死んでほしいんだ」
「え?」
「俺はこんな風に『魂』を食べないと生きていけない化け物だから……生きているのがつらいんだ。みんなの顔も見えないし……だから」
「だから、俺と死んでほしいってどういう意味?」
確かに意味が通っているようで通っていなかった。
<紅姫>が碧衣の言葉を待っている。彼が必死に言葉を探しているのがわかった。
凛龍は様子を見ながら、姫綺から言われた言葉を咀嚼していた。
――膠さんを、目覚めさせてあげましょう
それは本当に正しいことなのだろうか。
彼女が目覚めたくないと考えているのに、そこから引きずりだすのは傲慢ではないだろうか。
しかしそう思いながら、凛龍は全くほかのことも考えていた。
そうやって膠自身の意思を無視することもまた、正しいことなのか。
或いは自分自身が嫌われたくないからそうやって正しさについて考えてしまうのではないか、と。
いずれにせよ姫綺は本気だった。凛龍も聞いた以上腹を括るしかない。
(膠さん……)
凛龍は正座して膝の上に置いた拳に力を入れた。
沈黙は暫く続いた。そして碧衣がやっと話し出した。
「……だってずっと、さびしかったんだよ」
ひどく弱々しい声だった。頽れそうな自分をようやっと立たせたような、か細いものだった。
碧衣は語り出した。己の辿った物語の断片を。
◇
どこにあるかなんてもう忘れたくらいの山奥に、碧衣の産まれた村があった。
村は時代錯誤で、古びた風習に固執していたそうだ。だからこそ、碧衣の目が、神がかった扱いを受けるわけなのだが。
碧衣の両親は村の中で一番立場が低かったらしい。なぜか、と<紅姫>が問うたところ、碧衣は、
「知らない」
と答えた。付け加えて「そういう仕組みだったから」と言った。つまりそこに理にかなった説明はない。なんとなくでできた仕組みが次第に常態化したのであろう。
村の均衡を保つための差別の対象に碧衣の両親が選ばれ、それにより平穏が保たれていた。
そんな両親の元に青い目を持った、ひととは全く違う姿の息子が生まれる。
両親は一目見て思った。
――これは使える、と
両親は息子を『神の子』だと言って村中に触れ回った。碧衣の、その真っ青な目を見て誰もがその言を信じた。何せ古い因習を纏う村だ、たったそれだけのことであっという間に状況が変わる。
碧衣の両親は神の子を産んだものとして村長を押しのけて極めて高い地位についた。両親はそれで万々歳だった。今までの差別に対する意趣返しのように村人をこき使った。
青い目というだけで。碧衣はただそれだけで、村中から崇め奉られていたのである。
「……生まれてずっとひとりぼっちだった」
同い年の友人などできようはずもなく。
碧衣はただひたすら自分を崇拝し、首を垂れて救いを求めてくる村人たちの言葉を黙って聞いているだけだった。その時既に碧衣の『特殊転生者』たる能力は発現していたそうだけど、幼少期にはわからない。薄ぼんやりとした認識できぬ村人の顔を見て、見えない顔色を伺いながら、両親に促されるまま適宜ふさわしい助言をした。村人は涙を流して言葉を聞いている。その涙すら碧衣には見えなかったという。
「……ひとの形をした影が見える。その中に、ぼやぼやした光の塊があって、それが……いろんな色になるんだよ。俺には『魂』ってものがそういう風に見える」
碧衣が自分の胸のあたりをぎゅうと握った。
瑠々緋は傍らで懺悔する息子を労わるように肩を抱いていた。
凛龍も狂輔も黙して彼の言葉を聞き、<紅姫>は「ふうん」とか「それで?」とか相槌を打っていた。
態度はつまらなそうだったが、退屈したからと話をやめさせようとする気はないようだった。
「俺が女神さまと出会ったのは随分後だよ。村を出るほんのすこしまえ……赤い石を見つけたんだ、きれいな真っ赤な石。紅玉みたいだったな」
「……<日照神御石>」
そう言ったのは狂輔だった。
砕いてばらまいたのは彼女である。かつての栄光の証――今はもう何の役にも立たぬ石だ。
<紅姫>の薬指に証として輝いているのと同じものだが、意味合いが違う。
約束の証と残ったものはすべて、ただの残骸。認識としてはそれくらいの差がある。だから狂輔にとって赤い石は赤い石というだけで、それ以上の意味は持たなかった。
よもやその石の中に、太古の昔、親愛の契りを交わした妻の意識が宿っていようとは思わなかったのだろう。
誤算である。狂輔がまだ瑠々緋を愛していたという無自覚を己の中に抱えていたのと同じくらいに。
『イルマガンテの想いに呼応し、私はその中に身を潜めておりました。この子の神なる信仰が私をここまで大きく育ててくれたのです』
狂輔はかすかに顔を伏せた。
「<紅姫>の大量生産っていうのは、その信仰っていうのを集まるため? 神様って、信仰があれば存在できるんだっけ」
<紅姫>が自分の髪の毛を弄びながら、訊いた。
ええ、そうですよと答えたのは瑠々緋だった。
『イルマガンテのおかげで<紅姫>の噂はとても広く浸透しておりましたから。愛しいひとの痕跡をたどるように、利用させてもらいました。今の時代はとてもいい、端末ひとつであらゆる者が集うから』
瑠々緋の声はあくまでとてもやさしかった。責めるようであって、嘲笑うようでもあった。
『あのバーも……この子が生活するにはお金も必要ですから』
<紅姫>に会うための足掛かり。バー『赤い爪』。
あれも碧衣が用意したものであるという。詐欺で服役していた男をうまい具合に誑かしたらしい。恐ろしい男だ、こと蠱惑的な面においては<紅姫>にも負けず劣らずなのかもしれない。
そんな風に凛龍は思った。
しかし同情の余地があるにせよ碧衣のやっていることは――実行犯でないにしろ――かなり悪質である。それは<紅姫>にとって、という意味で。
『魂』を大量に横取りされているのだから、彼女は腹を空かせている。いくら熟成している分があるといえど、それで事足りるのなら彼女が癇癪じみたことを狂輔に漏らすことはない。
顔にこそ出ていないけれど、<紅姫>は苛立っている。
「……そう。君のお話はだいたいわかったよ。で、俺と死にたいんだっけ」
乾いた声で<紅姫>が言った。
甘い香りもしない、あまりにも感情のない声だった。
碧衣が希望のこもった目で頷いた。
「端的に言って却下、だね。というかそもそも俺は生きているモノじゃないから死ねないよ」
その返答に碧衣が明らかに絶望していた。
叶わぬ望みとわかって、青褪めている。
「な……そんな……!」
「そんなもこんなもないし、俺のいないところで勝手に盛り上がられても困るんだよねそういうの。事前に確認取ってくれない? まあ取られたところでそこでの回答だって否なのだけれど」
はあ、と大仰に溜息をついて<紅姫>は言った。
「お、俺ももう化け物でいたくないんだ……でもひとりで死ぬのはいやだし……」
碧衣は言いつのった。しかしながら<紅姫>のひどく冷めた表情は変わらない。
「化け物が簡単に死ねると思うなよ」
<紅姫>が言った。
碧衣がもう一度、絶望した。淵にいたのを叩き落された感じだった。
「化け物はね、死に方すら選べないから化け物なんだよ。わかる? ひとではないモノがひとらしく死ねると思うの? 君だってひとに擬態しているけれど所詮はヒトモドキなんだよ。あんなにひと殺して良心の呵責に耐えられないとかもない、挙句女神さまって神さまに縋ってさ。……なあにそれ、おもしろくないのだけれど」
<紅姫>の言葉は鋭かった。誘うような甘美さもなく、惑わすような妖しさもない、棘のように突き刺さる言葉だった。
「お前はもう、ひとりで死ぬしかないんだよ」
突き放した。
碧衣の全身が震え、瑠々緋がひどく狼狽していた。
「ひとりに死にたくないんだったら、俺じゃないひとを巻き込んでくれる?」
ね? とその時だけ<紅姫>は妖艶に笑った。
碧衣にはとどめの一言だった。呆然自失を体現したような状態だった。
そうなった碧衣の肩を抱いて瑠々緋が叫ぶ。
『――膠! お前、なんてことをいうの!』
瑠々緋の叱責にそっぽを向いて、<紅姫>は凛龍を見た。
険しい顔の彼に、彼女はにっこりと微笑む。
「ねえ、凛龍。君も、そう思うよね?」
凛龍は驚いた。言葉に詰まり、返答に窮する。
<紅姫>は唯我独尊だ。自分の意見に対し誰かに同意を求めることはしない。
するはずがないのに。
「……っ」
「凛龍? どうしたの? なんだかいつもと違うけれど……どうして?」
「……<紅姫>さん……」
「どうして、遠くにいるの?」
「……俺は」
「ねえ、こちらへおいでよ」
「……っ」
見えぬ引力だった。凛龍は腰を上げる。
彼女の言葉は絶対だ。従わないことはできない。自分は彼女を守る<結界>のひとつだから。
意思とは正反対に動き出す体に歯噛みしながら、凛龍は立ち上がり一歩歩き出す。
その時だった。
「……あれ?」
突如としてがくん、と<紅姫>の首が落ちた。
操り糸の解けた人形のような動きだった。
数秒の停滞。
そして、
「――なんで?」
その声は、凛龍の記憶にひどく懐かしいものだった。
第二部『顔のない隣人』閉幕




