010「お前はどこにいる?」
次の日から純太は『から紅』を手伝うことになった。お世話になるばかりは気が引ける――と純太からお願いした。「リチギだなァ」と夜鴉に言われた。
紅蓮は早朝に出て行ってしまうので、大抵の店番は夜鴉と赤い目の男ヴィレントラスだった。ヴィレントラスはドイツ人らしく、彼に甘えていた藍明という少女は中国人だという。ふたりとも来日する以前からの仲なのだと、夜鴉が説明した。
「あと藍明はあれで成人してっから。ヴィーは別にヘンタイじゃねェぞ」
「……あ……」
自分の邪推を見透かされて、純太は少し恥ずかしくなった。
藍明は昼間のほとんどを二階の自室にこもっている。ヴィーが危ないからと、自室にいるよう言いつけているのだという。藍明も過度な人見知りだから、ちょうどいいらしい。
純太からすれば少々過保護な気もしたが、部外者でありお世話になっている身分の自分がなんのかんのと言うのは無礼だと、その考えは飲み込んだ。
純太は任されたのは、業者が納品してくる段ボールの山から、お菓子を出して陳列するだけの単純作業だった。業者が皆一様に面妖な紙の面をして一言もしゃべらなかった。ただ純太を物珍しそうに見ているのだけは、感じていた。
夜鴉は会計、ヴィレントラスはもっぱらやってくる小学生や近所の年寄りの相手をしていた。
見た目だけで言えば夜鴉も充分珍しいだろうが、注目の的はいつもヴィレントラスだった。面倒見がいいので、人に好かれやすいらしい。
「デカイけど愛想はいいからな」
そう言って今日も、夜鴉は店先の駄菓子を食らっていた。躊躇いがないのとヴィレントラスが一切見とがめていないのを見るに、常習的な行動なのだろう。
しかしやはりなんだか悪いことのように思えたので、純太は勧められても食べなかった。申し訳なさそうにすると夜鴉は口の端を吊り上げて、「だろうよ」と言った。
「あの……」
「ん?」
「……紅蓮さんはいつもどこに?」
余計な詮索かなと頭の端っこで思う。気分を害したらどうしようという気持ちがこみあげる前に、夜鴉が呆れたように「パチンコ」と、単語だけ吐き出した。
「え」
「あいつパチスロ好きなンだ。えーと、あれ。ギャンブルいぞんしょー的な? まァ、別にアタマおかしくなっているわけじゃねェから心配すンな。もとからアタマおかしい感じだし」
――頭がおかしいわけじゃないが、もとから頭がおかしい。
言い回しが引っかかって、純太が思考を停止しているとその脇を子どもが通った。
赤い印のついた爪楊枝を掲げている子どもは、業者と同じ紙の面をしていた。
「へいへい、ちょっと待ってって。――ほらよ」
夜鴉がきなこをまぶしたお菓子を手渡す。嬉しそうに出ていく子どもは、店先のヴィレントラスに「もらったよ」と無邪気に報告していた。
「……かわいい、ですね」
子どもの無邪気さを目の当たりにすると、意識せずとも口からこぼれた。夜鴉が「そーだなァ」と『うめえ棒』を咀嚼しながら相槌を打つ。
「でも、大体みんなあンなもんだろ」
「……あんな……」
「守ってやンねェと死んじまいそうな感じ? 俺様、別に子ども嫌いとかじゃねェけどよ。あれをずっと育ててンのは無理だなァって思う」
「……」
「でも、ま。子どものこと放っておく親もどーかと思うけど」
それは純太の両親を言っているのだろうか。言及できなかった。
ここはまるで、別世界だ。店内は平和で息苦しくない。純太を見る目に蔑みもないし、憐れみもない。望んだ日常が、ここにはあった。
店先に腰の曲がった老婆が杖をついてやってきた。着物姿の人の良さそうな笑みを浮かべる彼女は純太に気付くと、見上げてじいっと見つめた。なんだか居心地の悪い視線で、純太は戸惑う。すると、夜鴉が粗野な物言いで老婆を注意した。
「ババア、帰れ。テメエにやるもんはここにはねェ」
あまりに乱暴ではないだろうか。純太が心配になったが老婆は顔色一つ変えず、
「――なあんだい、つまんねえなあ」
としゃがれた声で返した。老婆はにやにや笑いながら「気をつけなよう」と純太に言い残して帰っていった。
「……えっと」
「あのババアはそこらに転がっている出来損ないを丸ごと食い散らかしてンのさ。<紅姫>さんみてェにうまく扱えねェからああやってババアなンだ」
「……? どういうことですか?」
「あいつは人間じゃねェってコト」
「え?」
唐突にそんなことを言われて純太は混乱した。夜鴉に説明を求めるが、彼女はもうそれ以上話す気がないらしい。新しい菓子の包装紙を破いて中身を口にしている。
「……」
純太は自分の手を見る。当然向こう側が透けてなどいない。
(まさかな……)
純太は夜鴉があの老婆が嫌いだからあんな物言いをしたのだと、思い込んだ。
◇
紅蓮はやはり夜遅くに帰宅した。その手には必ずビニール袋を提げている。
パチンコで勝つとああやって必ず祝杯を上げるのだ、と夜鴉が聞いていた。冷蔵庫にもストックがあるというのに、彼はかなり酒豪である。どんなに遅くなっても必ず寝る前に酒を飲んで寝床に向かうのだという。そのせいで、夜鴉は毎回絡まれていて大変なのだ、と小言を漏らしていた。後半の詳細な話は、純太は敢えて聞かなかった。
「乾杯しよう」と手渡されたコップのふちをビールの缶とぶつける。夜更かしをする習慣のない純太には、この時間がいけないことをしているような――親に隠れて悪戯を企てているような微かな高揚感があった。
「……紅蓮さん、って……かっこいいですよね」
――だからだろうか。そんなことを言ってしまったのは。
ビールを煽るその姿は、同性の純太が見ても惹かれるものがある。整った顔立ちは――言い過ぎかもわからないが――人間離れしている。目が赤と金のオッドアイだからかもしれない。
純太の呟きを拾った紅蓮はにやっと笑って、「見た目だけならいくらでも取り繕える」と突然上着を脱いだ。いきなり晒される裸身に純太は飲みかけの炭酸飲料を噴き出しかけたが、そこに広がった光景に目を見張った。
紅蓮の背中一面に、刺青が入っていたのだ。
炎を纏った八咫烏と太陽を抱く菩薩だった。八咫烏の纏っている炎が右腕に流れ、小指の太陽のマークで終着しているという構図だった。体躯の良い紅蓮の背中にされている見事な絵画に純太は迫力を感じた。
「……す、すごいですね……」
「カタギに見えんだろう」
「……そう、ですね……」
実際隠れていたから純太は紅蓮をいい人だと思っていたが、最初に目にするのが刺青だらけの大男であったら緊張は今以上であったろう。
紅蓮は「だから店番は夜鴉にさせている」と缶ビールを飲み干して、流れるような動作でふたつめの缶ビールを開けた。
「ピアスも随分開けているから、それだけでも恐ろしいと思うやつはいるよ。まあ見た目がどうのこうの、こういう余計なもので大抵意味などなくなるさ。だから、あまりこだわらない方がいい」
「……」
純太が外見を気にしすぎているのを、紅蓮は気付いていたようだった。
茉奈と並ぶのに精一杯お洒落をしても、風宮の前では途端不格好に映る。容姿とはそれほどまでに強烈な印象を残し、そしてあらゆるものを奪っていくツールなのだ。
風宮に茉奈を奪われた時から、一層純太は己が醜く見えて仕方がなかった。
(……正直、夜鴉さんともヴィレントラスさんとも話すの緊張するし……)
美しいものは、純太にとっては毒だった。
紅蓮のことだってきちんと目を見て話せるかと言われれば危ういところだった。彼もまた美しい顔立ちをしている、この世のものではないほどに。
「この世のモノではないからその考えは適切だな」
紅蓮が純太の心を読んだように、口に出して指摘した。思わず伏せていた顔を上げ、彼の目を見る。紅蓮は歯を見せて笑った。嫌味のないからりとした笑顔だった。
「やっと俺の目を見たな」
「あ……す、すみません……」
「別にいいさ、気にしちゃいない。――それで、純太。お前、俺の問いの答えは見つかったか?」
「?」
「今のお前はどこにいる? と聞いただろう」
「……えっと、『から紅』に、います」
「そうか」
紅蓮は気さくだが時折不可思議な事を言ってくる男だった。なんでも以前物書きをしていたので、回りくどい言い回しを多用するのだという。いずれも夜鴉が苦々し気に語ってくれた。
(ふたりは本当に仲が良いんだな……)
紅蓮と夜鴉は恋仲であることは間違いない。だが夜鴉は紅蓮のことを語る時、愛おしそうではなくいつも嫌なやつだ、という風なニュアンスを加える。嫌々言っているようにも見えるので「彼のことを話すのは嫌いか」と聞いたら、夜鴉は「大っ嫌いだね。クズの話なんかしてたら俺までクズになっちまう」とはっきりと言われて、純太の方が面を食らったくらいだ。
「えっと……変な事、聞いてもいいですか」
「なんだ?」
「紅蓮さん、と夜鴉さんは……その……恋人同士、なんですよね」
「広義的に言えばそうなるな」
「広義的に……?」
「いろいろ複雑でな」
「なるほど……」
「――夜鴉は極めて冷静なんだ。それがあいつのどうしようもなく可愛いところでもあるんだが」
突然惚気られて純太は再び噴き出しそうになる。慌てて無理に嚥下したせいで気管に入りかけ、咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
「ごほ……っ、だ、……だいじょう、ぶです」
背中をニ、三度さすってから紅蓮が続ける。
「俺のことを好きなのは間違いないが、だからといって良い風に言ったり誇張したりしない。俺のことを見るのに妙な色眼鏡はかけないんだよ。俺がクズでどうしようもない男だとわかっていて、丸ごとそれを愛してくれている。――得難い逸材だ、俺は彼女に感謝している」
「……」
深い愛情のこもった言葉だった。純太の心がにわかにあたたかくなる。そして同時に冷たくもなかった。自分もこんな風に愛されたことがあっただろうか。ここ最近の出来事が大きすぎて、今までの自分がわからなくなってしまう。茉奈と付き合って間もない頃はずっと楽しかったし、友人がいた頃だって、家族がやさしかった頃だってあるはずなのに、何故か思い出せなかった。
欠落している、というより――もともとなかったように記憶に空白があった。
「……あれ?」
「どうした」
「……えっと、……」
「うん? どうした、何か思い出せないことでもあったか」
「……い、いえ別に……」
違和感。異物感。
自分が本当にここにいていいのかという疑問。
しかし何故、そんなことを思うのか。
「純太」
「……え、あ、はい」
「お前が今どこにいるのか思い出せない限り、水面は遠いぞ」
「……え」
ごぼり。
肺に水が入ってくる。話す言葉はすべて泡になる。
光景がぐにゃりと変質する。
「純太?」
「――あ、」
再度名を呼ばれて、純太は我に返る。
妙な幻覚を見ていたようだ――このたかだが数秒の間に。
「……な、なんでもないです」
「そうか? 疲れているなら早く休むといい」
「そうします……」
純太は大人しく部屋へと向かった。
◇
純太の背を見送った紅蓮は、二杯目の缶ビールを飲み干した。
安っぽい苦みが喉を通過し、なくなりかけた炭酸が余韻のようにぱちぱち弾けた。
「……日が差さんほうが、静かで安らかに眠れるか……」
水の底は暗くて冷たい。しかして、眠るにはちょうどいい。
彼にとって、美しさも日向も、もはや毒にしかならないのであろう。
そう思うと、なんとなく遣る瀬無く思った。




