5
卓が伊達の家に到着したのは通話を終えてからすぐのことだった。
通話を終え、卓が来るまで気持ちの整理でもつけようかと考えていたがそんな暇はなかったようだ。
卓は脇目も振らず、ただ自転車に跨り闇雲に伊達の家まで目指したのだ。伊達の家に入ってきたときには、汗だくで息を切らしておりまともに会話できそうもなかった。
卓が伊達の家で一息つき、コップを静かに机においた後包み込んでいた静寂を破るかのように卓が口を開いた。
「まず、玲。伝えたいことがあるんだよな……?」
最初に卓が喋り始めたが、何かを懸念するかのように語末に向かうにつれて覇気がなくなっていく。
「うん。私ね、とりあえず高認受けようと思う。そして、できれば東京開成大学に入りたい……」
伊達は落胆した。けれども、安堵した。諦めのため息が出てしまう程に。
「やっぱりお似合いだね……」
伊達が呟いたのは、相手にまるで聞かせる気のないそよ風のような声。緊張で頭がいっぱいの卓と玲には、伊達が喋ったことなど到底知り得なかった。
「……そうか」
消極的肯定。卓は先程の発言からトーンを引きずったまま嘆いた。玲は言い方の時点で卓が何を言いたいかは察する。
「高認は難しくない。普通に勉強すれば受かるさ。ただ、東開大は甘くないぞ」
東開大に受かった人がいう甘くないと言っているのだ。地頭がよくない玲は人一倍努力しなければならない。とはいえ、勉強は後からすればいい。これはある種の決意表明なのだ。
「うん。わかってる」
そこに威勢はないが、重みはある。
第一関門を突破した玲は飲み物を口に含むと、ゆっくりとそのコップを震わせながら置いた。
「あと、もう一つ。卓に聞いてほしいことがある」
玲の顔、握っている拳は真っ赤に染まり、隙間からは汗がにじみ出ている。体の震えは全身に伝わるほどに大きくなっていく。そんな玲を見ていた伊達は、静かに立ち上がると邪魔にならないよう部屋を出た。
「わたしの──ぼくが家出した理由を」
玲が育ったのは、田舎も田舎。地域内には一体化した小学校と中学校がそれぞれ一つずつ。気動車に乗り、少ししたところにある別の自治体に最寄りの高校はある。
高校と言っても、本校舎ではなく分校。少し前までは独立していたが、少子化の煽りを受け近隣の高校の分校になった。一学年一クラス。しかし、近くに私立高校はないため事実上この周辺の同年代はほぼ全入であった。全員が近くの山村出身。授業内容も、大した物ではない。かといって、治安が悪いのかと言えば別にそうでもない。近所に屯できるような施設もなく、一度悪名を轟かせてしまったら家族全員もうそこでは住めなくなるからだ。
だからこそ、玲は緩みきっていた。ある日、授業中に突如意識を失った。その時の玲は思ってもみなかった。自分が悪名を轟かせる側に回ってしまうなんて。
玲は、田舎にある診療所では対処などできず政令指定都市にある大病院に担ぎ込まれた。かろうじて意識が戻ったが、そこで医師はこう告げた。
『急性性転換症候群』
近年発現し始めた病気で、原因は不明。当然治療法も不明であり、一度発症してしまえば元の性別に戻ることなど不可能であった。急激な骨格の変化で複雑骨折をも生じるケースが多く、致死性も高い。
幸い、命に別状はなかったもののその代償として全く異なる容姿になってしまった。
だが、悪夢はこれで終わらなかった。主人公の住んでいた田舎では噂はまたたく間に拡散。人々は原因不明の病気を恐れた。直接的に何かされたわけではないが、陰口を叩いていることを幾度も遭遇してしまったのだ。
学校でも直接的に何かはなかったが、入院し留年したことも相まって友だちもできずそのまま学業不振により自主退学。家業を手伝うも、売上が落ちた。家族はたまたまだの不景気だのを口にして繕っているが、実際にはどうだかわからない。
家族に気を使わせ、周囲はみんな自分自身を怖がっている。玲に落ち着ける場所なんてなかった。
「だからこそ、卓が最後の救いだった。実際、卓は玲に優しくしたよ」
そう涙ぐみながら過去形で卓との思い出を綴る。
「じゃあなんで」
続きを言おうとした玲は、卓の言葉に驚き、遮られた。そして言葉の意味がよく理解できずに首を傾げ唸る。
「なんで黙って出ていったんだ。近くを探してもいなかったし、心配して何か事件に巻き込まれたんじゃないかって本気で──」
座っている椅子を勢いよく押しのけるほどに荒立てて卓は席を立つ。すぐに動揺していたことに気づき、言葉を止めたままゆっくりと椅子に座った。そして、卓は顔を真っ赤に染める。
「本気で心配したんだ。勝手にいなくならないでほしい」
恥ずかしさのあまり顔をそらしつつも、視線はちらちらと玲へと向く。
「というか、もっと一緒にいてほしい」
何気ない一言だったが、どういう意味なのかを理解すると玲も顔を真っ赤に染める。両者ともに顔を紅潮させ、両者ともに何かを喋ろうと口は開くも喉まで出かかった言葉が止まってしまう。
「大学で講義受けて、バイトして、後は寝るだけだった。でも、玲が来てから毎日が楽しいと思えたんだ。だから、玲がいなくなったときいてもたってもいられなかったんだ」
卓は再び立ち上がり、照れくさそうにしながらも体を玲の方へ乗り出して熱弁を振るう。
「正直、この気持ちはよくわからない」
卓は自分自身の左胸に爪を立てる。まるで激動する心臓をえぐり出そうとしているかのようだが、服越しでは傷一つ付けられずもどかしい。ただ、服にしわができるのみである。
「多分、玲のこと好きなんだと思う」
「え? あ、うん……ありがと」
直接的な愛情表現に動揺し、返す言葉を探す玲。咄嗟に考えて出たものは、感謝の言葉だった。
「わ、私も。そ、その、卓のこと好きかもしれない……」
一緒に居たいと思っているのは本心だ。しかし、卓のことが好きかどうかについては内心よくわかっていない。言われたから言い返しただけなのか、或いは一緒に居たい口実のためにでまかせを並べたのか。
もしこれが本心でなかったのだとすると、卓には大変なことを言ってしまったと悟り変なことを言わないように口を閉ざす。卓も、玲からの告白を受け嬉しくはあれども必死に口を閉ざしてもじもじしている玲を見てどうすればいいのか黙る他なかった。
「あのさぁ?」
静寂を打ち破ったのはずっと外にいた伊達だった。扉が開き、苛立った伊達が頭を抱えながら入ってくる。
「ふたりとも黙りすぎ。聞いててイライラするんだけど。それにさ、玲ちゃん。あなた実家に連絡したの? ここという居心地のいい場所を見つけたんだから、わざわざ黙っている必要性ないでしょ? さっさと連絡して気兼ねなくこっちに暮らしたら?」
それだけ言い残すと、伊達は呆れたように部屋を出ていった。
伊達の言葉には説得力があり、それらは玲の心を容赦なく刺激する。そして、卓が口を開くのより前に玲は決意した。
「ねぇ、卓。一緒に来てほしい」
玲は卓に手のひらを差し出す。卓は玲の変わりように驚いた。しかし、それもつかの間。「ああ」と頷くと、卓は差し出された手のひらを握った。
「よし、今から行こうか」
卓はスマホを取り出し、何かを確認し始める。直前の発言がまさか本当だとは、玲も思っても見なかった。
「え? 今日?」
玲はさすがに無茶ではと言いたげだ。
「早ければ早いほどいいからな。ところで、玲の家の最寄り駅ってどこだっけ?」
マップアプリを開いた卓は目的地の入力欄で止まっていた。
「町役場の前の駅だよ」
駅の大まかな場所を教えると、「ああ」と唸りながら入力していく。
「たしかあそこって確か単線盛土でよく運休になるんだよな」
二人共思い出すのは頻繁に運休する辛苦の日々。けれども、今となってはいい思い出だ。
「大丈夫だよ、町がお金出して線路沿いの土砂撤去してたよ。もう終わったんじゃないかな?」
「なら安心だな。じゃ、玲。行くぞ」
卓はスマホをしまい込むと、手を玲に伸ばした。
「うん」
玲は大きな声で同調すると改めて卓の手を掴んだ。