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「それじゃ、行ってくる」
「いってらー」
玲が卓の元にやってきてから一か月。すっかり玲は都会での生活に適応していた。とはいっても、ほとんど外に出ずたまに近所のコンビニに行く程度で都会を謳歌しているかと言われればそうでもないだろう。
しかし、玲にとってはすべてが気兼ねなく、人間関係に惑わされることもない。実家を出て正解だったと、確信できる。実家を出て、正解だったと言えよう。
そんな玲は、三角巾を身に着け掃除をしようとしていた。掃除をするのはいつものことだが、今日は気分がよいので徹底的に掃除しようというのだ。いつもでは掃除しないような僅かな空間の埃も絡め取る。そして、とある棚を開けた。恐らく、何らかの書類だろうが保管してあるということは大事な書類である。間違って捨てぬようにとハンディモップで整然と整理されたクリアファイルで綴じられた書類たち。その凹凸を拭うが、どうにも掃除しにくい。
クリアファイルでを高さ順に並び変えようかとも思ったが、クリアファイル同士の僅かな凹凸を見てすぐにその考えを撤回する。こんな棚の中に入っているのだ、貴重な資料などが入っているのだろう。万が一並び替えて何かあったら大変である。
諦めて再びハンディモップを手に取りもどかしいながらもクリアファイルの凹凸を拭う。しかし、埃が紙と紙の隙間に入ってしまった。仕方ないとばかりにクリアファイルを取り出し、思わずハンディモップを落としてしまった。
それはなぜか、クリアファイルに綴じられていた一枚の合格証。それは日本の最高峰。東京開成大学の合格証明書であった。
玲は、卓が東京の大学に通っているということは知っていたが、まさかこんなレベルの大学の高い大学に通っているとは微塵も思ってなく急に自分自身の立ち位置が不安になった。
こんなすごい人の家に居候してるという事実。急に自分が更に情けなく見える。そして、否定的に傾いてしまった玲の思考は更に考えを広げる。
伊達も同じく東京開成大学なのではと考えてしまった。
あの見た目では……と思うが、見た目で判断するのはよくない。だが、伊達は同棲したことを本人から聞いていた。バイトもしていないと豪語している以上、同じく東京開成大学である可能性が非常に高い。
「はは……はは……」
もう笑うしかなかった。別に東京開成大学は悪くないのだが、無駄に高いブランド力を持ちすぎてしまった。
東京開成大学に通っている人とそうでない人には目に見えぬ心理的な壁を感じたのだ。親友であり、自分のことを受け入れてくれた卓が手の届かない場所にいるような気になって。
そう考えてしまうと、掃除などに手を付けられずハンディモップを回収し掃除を止める。気分転換にと、好きにやっていいと言われたテレビゲームをプレイするも面白いとは思えずすぐに止めてしまう。結局、その日は何もかも手つかずになり卓が帰ってきた。
「おかえり……」
扉を開けると、卓が入ってくる。
「ああ、只今」
二人ともおしゃべりな性格ではないため、口数が少ないのはいつものことだが今日はいつにもまして口数が少なかった。
未だに他人が怖くてコンビニまでしか行けない玲のために、買い物は卓の役割だ。そのため、卓はひどく膨れ上がったビニール袋を玲へと手渡す。
「今日、焼き肉にしない?」
なんでこんな気分が落ち込んでいる日に焼き肉などしなくてはならないのか。とはいえ、居候の分際で拒否権などない。それに、卓は大学で何かいいことでもあったのだろう。気分が高揚していた。せっかくの高揚感を妨げるわけにもいかなかった。
「う、うん」
玲は浅く頷いた。
そして、ホットプレートを用意すると卓は次々に肉を乗せる。
「急に焼き肉なんてどうぢたの?」
「ああ、研究中に新発見があったんだ」
会話をしても、一分も持たない。この間の静寂も、いつもなら何も感じないのだが玲はいつも以上に重く苦しく感じられていた。玲は、とりあえず焼いていた肉を裏返す。
「そ、そういえば。卓って東京開成大学に通ってるんだよね。すごいね、勉強したの?」
「まあね」
玲なりにも頑張って会話を続けようとするも、口から出るのは当たり障りのない会話ばかり。卓も、過去に同様の質問をされたことがあるのか間髪を入れずに即答する。
他に質問をしようと考えてみる。そんな中、卓は玲の違和感に気がついたらしい。長年会ってなかったとは言え、一月も同棲すれば相手が何を考えているのかくらいある程度は想像できた。
「本当に大丈夫?」
卓は憂色を漂わせる。
「そ、そんなこと……」
──そんなことない
途中まで言いかけたが、最後の最後で声が止まった。言葉を捻り出すのは簡単だ。けれども、今の玲にはその言葉を述べることなんてできない。拳を握りしめ自身の行動を反省する。
目の前で焼いている肉が焦げ始めても何ら気にすることもできないほどに玲は悩んでいた。玲の脳裏に浮かぶのは以前も同様に取り繕って、そして失敗してしまった過去。
焦げた肉に目を向け、タレも付けずにそのまま先程から時が止まっている口に放り入れる。
ああ、苦い。
大学生の親友の部屋に転がり込み、働きもせず、毎日ただ惰性に暮らす生活。”つらい”なんて呟いたらどれだけ多くの苦しんでいる人を敵に回すのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えてみたりすれども、やっぱりこの生活がつらかった。