4:四月十一日その④
「そん……な……」
「…………」
俺が見せた、俺が見た全ての母親の記憶。
それは母親の壮絶な過去。
普通の人だったらどうなっているんだろう。
俺には全く想像がつかないほどに、壮絶で凄絶で、そして過酷な過去。
それらを超えて、築かれたのは凍り付いた家族という絆ではない何か。
名をつけるとすれば、それは絆ではなく束縛するための鎖とでも言うのだろうか。
「よくわかった? あなたは私にもあの人にも、望まれてなんかいなかった」
「だったら何で、生んだんだよ」
「それが正しいと思ったからよ。たとえ間に合うとしても、おろせば殺人と変わらない」
「…………」
彼女は……露木の母親は十六歳の時に露木の父に当たる人物と知り合った。
知り合った、というのにはいささか物騒な出会い方をして、彼女は十七で露木を……娘を生んだ。
見た目からして若そうだと感じたが、早くに生んでいるのだから当然の話だった。
しかし物騒と言ったが……母親は、露木の父親に当たる人物から強姦されたのだ。
雨の降る日のことだった、というのは母親の記憶から知ったことだが人通りの少ない場所を通った母と、そこに潜んでいた父親とが出会ってしまうには格好のシチュエーションだったのだろう。
濡れた薄手の学生服が、父親の劣情を生み衝動的に父は母を手籠めにした。
母親はボロボロになりながらも帰宅し、全てを両親に打ち明けた。
「殺人って……あなた方が望まなかったのであれば、それによって生まれてくる子どもの幸せはどうなるんですか?」
「そんなものは自分で掴むものでしょ。実際、あなたは優木くんと知り合うことで少しでも幸せを感じたんじゃないの?」
「…………」
自分が掴むことが叶わなかった幸せ。
手籠めにされてショックで引きこもった母が妊娠を知ったのはその翌々月のこと。
そして厳格な両親は犯人でもある父親を探し出し、家族の居場所までも突き止めることが出来た。
『それなりに名のある家同士、ここは穏便に済ませませんか?』
どちらかの親が言い出したことだ。
この言葉の通り、母と父親に当たる男は、その罪をもみ消された上で婚姻関係を結ぶことになった。
しかし、馴れ初めが強姦という斬新かつ誰にも理解できない事情で出来てしまった娘を生むということは両家の親も反対だった様で、しきりに母へ堕胎を勧めてきた。
『両親の勝手で子を、人を殺すなんて真似は出来ません。それこそ世間に顔向けできなくなります』
そう言ったのは母親。
家のことを引き合いに出し、子を守ったのだと思われそうな内容に聞こえるが、俺にはそうは思えなかった。
自分が殺人者になり、その十字架を背負う覚悟がなかった。
ただそれだけだったのだ。
「実際にあの人は立派な会社に入って、それなりの生活が出来る様になった。望だって生活に不自由はしなかったでしょう? そして私も自分のお金がほしいから働きに出ている」
そこは確かに本当だ。
もちろん俺の前で嘘なんか無意味だし、この母親と口裏を合わせたりした覚えもない。
しかし、そこには自分の口から語らない部分がいくつかある。
「なら何で……愛してもいないお父さんと一緒に暮らしているんですか? 若い男の愛人までいるなら、その人と生活したらいいじゃないですか」
「そんなの、家が許さないわ。あの人だって愛人がいて、お互いに黙認して、それで角が立つこともなく生活はしていられる。あなたができてから今日まで一度もなかった夫婦の営みも、お互いに愛人とこなしていることで発散出来ているのだから」
「…………」
こんなの……実の娘に聞かせる様な話なのか?
もちろん見せたのは俺だし、俺に責任がないわけではないが……追い詰めていいって理由にはならないだろう。
「あなたが出来たからなのか、それとも私があんなところを通らなければ良かったのか……いずれにしても私に人並みの幸せは望めなかったの。だからね」
言葉を切って、母親は踵を返す。
そして悠然と台所へ。
まさかとは思うが……。
「あなたとこれからも家族でいるのであれば、あなたには覚悟を示してもらわないといけないの」
そう言って歪んだ笑顔と共に手にしていたのは、包丁だった。
「あ……ああ……」
「お、おい露木、しっかりしろ!」
「この子の心はどうなったのかしらね。壊れた? 痛いだけ? 苦しい? でもね、私もあなたがお腹にいた頃から辛かったの。わかる?」
「っくそ!! 露木!! 走れ!!」
このままじゃ露木が壊されてしまう。
何となくそんな気がしたし、おそらく露木の返答次第で母はあの包丁を如何様にも使っていたことだろう。
下手をすれば俺も刻まれたっておかしくない。
そう考えて、俺は露木の手を取って玄関から走り去った。
足をもつれさせ、目の焦点をやや狂わせながら露木は懸命についてくる。
母も追ってくる気はないのか、百メートルも離れるとあのおどろおどろしい雰囲気は感じなくなった。
「…………」
「おい、大丈夫か?」
あの玄関でどれだけの時間を過ごしたのか。
俺たちが外に出てきたとき、空はすっかりと夜の闇に包まれていた。
「おいって。……だから言っただろうが。見ない方がいいって」
「…………」
半ば無理やりに歩かせて、少しでもいいから休める場所がないかと探すも露木の反応は薄い。
ショックが大きいのだろうということは想像に容易いが、芯の強い女の子だと勝手に思っていただけにこの反応はいささか予想外だったと言えなくもない。
「……とりあえず、このままじゃ話にならないからな。少し痛いかもしれないけど我慢してくれよ」
「…………」
こう声をかけても反応がなかったので、俺は独断である決断をする。
「……!!」
「悪いな。さすがにこれからどうするにしても、お前が助かったって結果を生まないといけない。だから呆けててもらっちゃ困るんだ」
力加減は十分にして、彼女の頬に平手打ちを食わせると漸く彼女の目の焦点が定まってきた。
「あっ……」
「お目覚めか、お姫様」
「あの……」
「とりあえずいいから、これで顔冷やせ」
そう言って、俺は近くにあった自販機で紅茶を買って彼女に渡す。
仕方ない事情があるにせよ、女を殴るのは気が引けるし……責任取れとか言われても俺にはどうしようもないからな。
「す、すみませんでした」
「いいよ、あれがショックでない人間の方が俺からしたらおっかない。そう言う意味では、お前の反応は当たり前なんだよ」
「…………」
「人の、とは言っても親のこと、悪く言うの嫌だけどさ。ありゃさすがにまともじゃない。確かに青春全部丸ごと台無しになった、ってのは同情の余地があるかもしれないけど。それでも子どもは親を選べない。親は子どもを選べないけど、作る時期生む時期を調整することはできるんだ。そういう意味じゃ、迂闊だったお前の母ちゃんも、衝動に走った父ちゃんも……親戚も全部悪いがお前は何一つ悪くない」
「……!」
俺の言葉に、露木は目を丸くする。
おそらくは自分が生まれてこなければ、出来なかったら、母親はもっと真っ当な人生を歩んでいたのではないか、みたいなことを考えていたのだろう。
しかし先ほど言った通り、露木が責任を感じなければならない様なことなんか、何一つない。
どういう事情であれ、自分で生むと決めたのだったらその責任を全うしなければならないのは母親の方であって、子どもではないはずだ。
「胸を張れよ。お前が生まれてきたのは、あの両親に対して責任を取る為じゃねぇんだぞ。お前にはお前の人生がある。そしてお前だって人並みに幸せを求めて、手にする権利があっても、いいじゃねぇか」
どういうわけか、普段こんなことを考えたりもしないのに、口からすらすらと出てきてしまって、自分でも驚いてしまう。
更に驚くことがあるとすれば……。
「っぐ……っふ……」
「何で泣いてんだよ。俺が泣かしたみたいだから、やめてくれよな」
目の前で女子が大粒の涙を流し、それが悲しみからくるものではないことが理解できてしまった、ということだろうか。
ありがとう、と言いながらひとしきり泣いた露木は、その後信じられないことを言い出す。
「それで……ついでと言っては何なんですがもう一つだけ、頼まれてくれませんか」
「……ああ、まぁここまで来たら乗りかかった船だからな。何でも言えよ」
「優木くん、寮でしたよね? その……一晩でいいので、泊めてもらえませんか?」
今日一番の驚きは、あの母親のことだけで終わると思ったその日。
最後の最後にとんでもない爆弾が待っていた。