エピローグ
もう目覚めることはない。
それでもかまわないと思った。
消費ばかりの自分でも、未来を作り出せた。
それが幸福なものかはわからないけれど。
幸福になりたければ歩いたりなどしない。
幸せと思える地点で、立ち止まればいいのだから。
それでも、幸福すら消費して歩き続けるのは、より善い未来を目指しているからだ。
ならば、今を続けることには意味がある。
そう信じる。
何より、彼女へ胸を張りたかった。
「手足を失っても、あきらめないとはね」
走馬燈か何かだろう。
脳内で、都合のいい像が結ばれる。
「からっぽの瓶は砕かれた。何で埋めようとしても、こぼれ落ちてしまう」
「そうね。器が壊れたらこぼれ落ちてしまう。満たされることは決してない。だからきっと、歩いて行けるのよ」
「貪欲ね」
「奪うことが罪なら、最初から奪わない機能を得ればよかった。けれど、奪う機能を選んだ」
「生き方を間違えたんじゃなくて?」
「その生き方を選んだのよ、きっと」
それが善い未来に繋がると信じて。
「肯定できないわ」
「そう」
「……だけど、そうね。残るものがあると信じて使い続けるほうが、はるかに生産的と思うわ」
そう言われ、胸を張った。
彼女はあきれたように鼻を鳴らした。
「じゃあ、さよならね」
「ええ。天賜への天肢の接続は阻めなかった。どっちも壊しちゃったから」
「もう呪う対象はいない。――妄執だけでさまよう死者なんて、それこそ非生産的だわ」
「じゃあね、言葉祈月」
「さよなら、霧切有栖」
そうして少女は目を覚ます。
耳には潮騒が聞こえ、鼻に潮風のにおいが絡みついた。
目には引いては寄せる波、青々とした海が見えた。
地平線は空色だ。雲はまばらで、透き通った気持ちの良い晴れ模様だった。
冬は過ぎ、春が咲いていた。
桜色の薫りがした。
「夢を、見ていたわ」
「どのような夢を?」
「……忘れてしまったわ。夢はすぐにいなくなってしまうからいやね」
「悲しいですか?」
「いいえ、ちっとも。なぜだかすがすがしいわ」
「そうですか」
胸を張る少女に、男は笑いかけた。
砂浜に車輪が噛みつく。
少女は車いすに乗っていた。男がそれを押している。
轍はふたりの後ろにずっと続いていた。
「それで」
少女が口火を切った。
「結局どうなったのよ?」
「……人類廃棄は、夜霧海子氏の独断でした。支持者は少なくなかったですが、決を押させるにはもう少し時間を要するはずでした」
「つまり」
「ええ。私たちはそれを止めた、ということになっています」
「そう……」
霧切有栖と名無しの、人類史をかけた戦いはなかったことになった。
「悲しい?」
「ええ。ただ残念なことに、多くのものが残りました」
男は少女を見下ろした。
「多くの傷跡が、残りました」
「自分が最良と思って行った結果に落ち込まないでくれるかしら」
「落ち込んでなど。……ただ、結果的に採算はマイナスだった。消費の未来を嘆きながら、結局、何かを使い果たすことしかできなかったことに憤りを覚えます」
「だれだって消費はするでしょう。あなただってご飯を食べるし、瓶を壊した。生きているだけで時間を使う」
「そうですね。そもそもが破綻していた」
「……それと同じように、だれだってきっと思うことよ。失うこと、忘れられること悲しいって」
「矛盾していますね」
「正しく生きたいなら、獣のままでよかったでしょう。文化を育まず、文明を拓かずに。自然の摂理に合わせれば、機能矛盾を起こすことはない」
「……」
男は押し黙った。
少女は波の音に耳を傾けた。
どこかで聞いたことのある音だと思っていた。
心が落ち着き、まどろみに身をゆだねるような。
「なんだか眠いわ」
「……一か月間も眠り続けて、起きたのは二日前でしたからね。体力が落ちているのでしょう」
「そうだったわね。そんなに……」
うとうとする少女。
そのまま眠るものと男は思っていたが、ふいに手を掲げた。制止の合図だ。
車いすを止める。
「ねえ」
「なんでしょうか」
「善い日々になればいいって思わない?」
「思いますよ。ただ、それは失われる」
「失われるとしても、だれもが祈る。呪いで生きた人でさえ。それはとっても」
「ええ。愚かしくも、尊い。失うには悲しく、消してしまうには惜しい輝きです」
「今の人類史を凍結しようとは思わない?」
「天賜は壊れてしまいましたからね」
「そうじゃないのは、わかっているでしょう?」
「それは……」
言い淀む男に業を煮やしてか。
少女はため息をつく。
「まったく」
車いすの肘置きに手をかけ、
「よいしょ」
と、立ち上がった。
男はその姿に目を剥いた。
ふらふらと、今にも倒れそうだ。
「おっとっと?」
「ご無理はなさらないでください。以前のようには、行きません」
「みたいね。けどこれだっただいぶん高性能なんでしょう? ぶっつけ本番で倒れないなんて」
「そうですが……そうでなく」
「寿命が少ないんだから、あまり体力は使うなって?」
男は息を止める。
ただでさえ天肢を使う代償に寿命を削っていた。
ただ生活するだけでなく、戦闘も数えきれないほどに行っていた。
とどめは零號だ。
急激な血圧の低下と、血液不足に一時は脳死に近い状態だったのだ。
少女の命は、四季をあと一回見れるかどうかと宣告されていた。
その象徴のように、少女の黒かった髪は色が落ち、今にも消え入りそうな白色に変わっていた。
だか少女は、そんな事情を感じさせない力強さで地面を踏みしめた。
「だからこそよ。ベットの上で季節を数えるなんて、いつでもできるもの。こうして手足があるなら、歩き出さなきゃ」
その姿をまぶしそうに男は眺める。
頭を垂れた。
まるで、断頭台の罪人のように。
「自分を壊していただけないでしょうか」
「どうして?」
「自分は失敗した技術です。せめて、あなたの体が動くうちに、あなたの手で壊されたい」
少女は考えるそぶりを見せた。
答えは決まっているのだと、男は薄々勘づいていた。
「残念だけど、廃棄されるだけの不備があると判断できません」
「……善い未来のために、終わる未来は切り捨てるべきかと?」
「さて? あなたが体現する未来は未だ訪れていません。案外、善いものかもしれないですよ?」
「それは」
肯定も否定もできない。
少女の言う通り、訪れてみなければわからないものだ。
「だから――本当にあなたが廃棄されたときに、壊してあげる」
その約束が叶わないものと知りながら、少女は笑った。
その向こうの空。
温暖な季節になったからか。渡り鳥が飛んでいた。
「わあ」
少女が感嘆の声を上げる。
少しでも近くで見たいのか。
一歩、また一歩と足を進める。
「……ぁ」
その光景に男は泣きそうになった。
悲しくはなかった。
目頭が熱くなる。
――ああ、違うのだ。
男は少女の背中を追う。
善い日々になればいいという祈りが善い未来をかたち作る。
男は考える。自らにとっての善い未来を。
「まったく、簡単な話だ」
人生経験が少ないからか。自分の感情を知るのが随分と遅い。
「自分は彼女と、未来を見たい」
「そうね。私だって未来をあきらめたわけじゃない」
男の声は少女に聞こえていたらしい。
「生きるわよ、私は」
「そうですね。自分も生きていてほしい。だから、がんばります」
結局はそれだけの話だった。
がんばって、報われなかったら。
その時は悲しもう。
ただ、訪れる結果を悲観して足を止めるのはやめようと男は思った。
ふたりは示し合わせるでもなく、とりあえず行けるところまで行こうと考えた。
足跡はしどろもどろだけれど、確かに先へ続く。
そうして、しばらく――少女の体力が底をついてへたり込んだ。
渡り鳥はもうどこかに消えていた。
少女は自らの歩んだ道のりを確かめた。
「本当、歩くのって大変ね」
車いすがすぐそこにあって苦笑する。
「大変ですよ。それでも」
「ええ。それでも歩くって決めたの」
風を感じる。暖かな風が頬を撫でた。
静かな冬の冷たい風は遠く。
ふたりの眼前。
命芽吹く春の色薫る、桜の花弁が横切った。