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夢の島のありす  作者: 綾埼空
無名
8/9

01

 名無しの宣言に、有栖は困惑した。


「人類史を凍結するって……けど、それは……」

「人類の廃棄と何が違うのか、と問いたいのですね」


 有栖はうなずいた。

 言葉祈月の手を天賜への対抗策として残そうと発案したのは、名無しだった。

 それはすなわち、名無しにとって海子の提示した計画がそぐわないものだったからのはずだ。


「初めは答えを探し当てるまでの時間が欲しかったのです。一刻も早く人類を廃棄しようとする海子氏の思想は、自分にとって不都合だった」

「そうよね。なのになんで今さら」

「言葉祈月に廃棄技術を再起させている犯人など自明だと突き付けられ、ならばなせ泳がされていたのかと考えました。それでわかったのです。そもそも、自分が生まれた時点で海子氏は人類の廃棄を決めていたのだと」

「あなた今いくつよ」

「十の年月を生きてきました」

「それって」


 彼が自分より歳下なことに驚くよりも先に、十年前にあったことを思い出す。正確には、十年前にあったと語られたことだが。


「言葉祈月を名乗ることになる彼女が死んだ日……」

「ええ。言葉祈月であることを誓った日です。つまりその時点で彼女がそうなるだけの何かが動き出していた。どこにも届かない祈りの言葉を聞き届けるだけの、何かが」

「天賜の起動? 私が天肢に接続したのは七年前だけど……」

「わざわざ海子氏は天賜から天肢を腑分けした。なにより、自分に多くのことを見聞きさせてくれました。一般的な営みを見せてくれたり、とあるお屋敷で働かせてもらったこともあります。――あの時の鳥はもう、生きてはいないのでしょうね」

「え?」

「昔のことです。籠のなかの鳥を憐れんで夜な夜な泣いていた少女がいました。けれど彼女には、その鳥を自由にする機能がなかった。自分にはあった。だから、籠を開いたのです」

「あなた、もしかして」

「有栖さま、やはり自分は飛び続けるしかない鳥を悲しく思います」

「なぜ?」

「使い果たした可能性から生まれるものはあります。それでも、失われるものは失われたまま。海子氏の言う通り、消費と生産は決して循環しない」

「そうね。いつかは鳥も墜ちるもの」


 翼の折れた鳥は糧を得るすべを失い、やがてほかの生物の糧となる。

 もう一度飛ぶことは、ない

 それが悲しいと名無しは言うのだ。


「いつだって並行なそれらの積み重ねが今の文明です。真綿で首を絞めるような、自殺の道が人類の求めた幸福だった。だから継続は不可能です。可能性を使い果たして何も残らない。そんな無益な結末。――けれど、無意味ではない。ここまで発展した文化、ここまで続いた文明が無意味だとは、自分には思えません」


「少しは自分を肯定できたのかしら」

「自分は肯定できません。消費を選択したのがそもそもの間違いだったのか、少しのかけ違いで異なった未来があったのか。それを判断できるのは、後の世にいるものだけです」

「じゃあ、このまま継続していくの?」

「いいえ。遺すのです。今ある人類史を凍結して、いずれ生まれるであろう次の知性体が参照可能な記録媒体として。何も残さないと決まった未来を継続するのは、無益です」

「……そう、肉体を奪ってここから人類を消すのが人類廃棄なら、人類凍結はこの瞬間の人格や技術や文化をひとつのかたちに固めるってことね」

「そうです。ちょうど化石のようなものですね。都合のいい時にエネルギーを抽出できる」

「それを天賜で行うと?」

「ええ。救済の楽土――インプットされた人格が永久に漂う世界は、仮想された理想郷です。ならば同じ要領で、今この世界そのものをインプットさせれば、何も消費せずに今後起きるであろう事柄をシミュレートするモニュメントとして意味を為すでしょう」


 つまりは、有栖の後ろで佇んでいる銀色の棺桶のなかに現状の複製を作り出すということだ。

 あのなかにインプットされた人格は、一秒前の自分と何ら遜色ないことを疑わないであろう。


「未来を続けるということは、子供が生まれるってことよね。今にいない人たちは、どのような人格になるの?」

「予想でしかありませんが、結果から逆算された配置図が描かれるでしょう。現状から未来を予測し、逆算するので精緻なものかと」

「……言葉祈月は、未来に名前がないことを希望と呼んでいたわね。名無しと名乗ったのは、違った意味だったの?」

「残るものがなければ、名付けられることもないでしょう」

「そう、本当にここで終わらせる気なのね」

「ええ、ここが幕切れにふさわしいかと。この先は、蛇足です」

「夜霧海子といい、勝手な話ね。だれもそんなことは望んでいない。未来のだれかは望むかもしれなくても、今はだれも望んではない。あなた自身も含めて」

「だれかがだれかの代弁者足りえることはありません。ただ、責任は生じる」

「そうね。無自覚であれ、多くの可能性を摘み取った上に私たちは成り立っている。なら、そうしてまで貫いた自分自身を果たさなきゃいけない」

「そこまでご自身に厳しく接しなくてもいいのでは?」

「あなたに言われたくないわよ。……だって死ぬ気でしょ?」

「……見抜かれていましたか」

「隠し事がへたよ、あなた」

「あくまでより善い未来へのシミュレーターとして遺しますからね。行き止まりなら、決まった結末など可能性を一択に絞り込む要因でしかありません」

「気に入らないわ」

「賛同は端から望んでいません」

「私はあなたを否定する」


 名無しは何も言わなかった。

 視線が海子に向く。

 有栖も忌々しく思いながら、内心で彼女へ感謝を述べた。

 十年前に人類を廃棄しなかったのは、この場をあつらえるためだったのだ。

 可能性を信じた、なんて殊勝な心持ちは欠片もない。

 人類史の結末そのものである名無しと、寿命を縮めるとわかって天肢にこだわる人間がどんな答えを出すのか。

 彼女にとっては実験のひとつだったのだろう。

 前言を撤回するべきだ。夜霧海子にふさわしい、命の使い方であった。

 そのおかげで今ここに立てている。

 もし十年前に救済されていれば、手足を得る苦しみと嬉しさを知れなかった。

 未来はないと悲観する男の顔を殴りに行こうとすらできなかった。

 有栖は刀を鞘に納め、腰を落とす。

 そして、


「天賜の自己防衛機能というものは、最終的には自らを完成させようとするものです」


 横目に映り込んだものに鈍い頭痛を覚える。

 反射的に鞘をそちらへ向けた。

 鞘越しの衝撃で吹っ飛ばされる。

 階段を抜かし、壁を貫いて外へ。

 接地とともに手足で地面に噛みついて、転げまわるのを阻止した。

 不意のことで混乱する意識を落ち着けようと息を吸おうとして、うまくいかない。

 何度かせき込んで気道を確保する。


「……っ」


 有栖は辺りを見渡した。

 いつの間にか屋敷の周りには、壊したはずの廃棄技術の山が築かれていた。

「道具というのは、そのかたちが、その回路が保たれていれば動く可能性があるのですよ」


 天賜を引き連れ名無しが屋敷から出てくる。


「どうやってこれだけの数を動かしたのよ」

「天賜を含め、すべてが自分の性能で接続をしています。あの森で水をあげたから芽が出たわけではないでしょう? 可能性を使い果たすまで自分が使役する」

「厄介ね」

「あなたたち消費者が日ごろ行っていることですよ」


 揶揄する口調ではなかった。

 まだ使われることに歓喜するように音を立てて、廃棄技術が名無しのもとに集う。

 その様はたしかに、多くの可能性を使い果たす人類史の結末を想起させた。


「さあ、霧切有栖」


 と、名無しは少女のことを呼び捨てた。


「その手足、いつまで守り抜けるでしょう」

「くっ――」


 宿主を失っているはずの廃棄技術が有栖へ襲い掛かる。

 様々な可能性の残骸――排斥された未来の残骸が、今なお繁栄し続ける世界を淘汰しようと食らいつく。

 有栖は抗う。四方八方ふさがれ、それでも生存の道を克ち採るために。

 けれど、その瞬間はあっけなく訪れた。

 刀が折れる。無茶苦茶な運用を繰り返したツケを今、支払わされた。

 さらにそう――上空から、終天を身に着けた零號が墜ちてくる。

 それを躱す術はなかった。平面に気をとられ、立体的な視野を失っていた有栖には知覚外からの襲撃だった。


「――っっ」


 地面に縫い留められる。内臓がぐちゃぐちゃになったように感じられた。

 明滅する意識のなかでも、近寄ってくる足音を認識する。

 有栖は血反吐を吐く思いで睨みつけた。


「名無し……」

「これが人類の積み上げてきた成果です」


 名無しの表情は冷めやかだった。


「いくら抗っても、個人にどうにかできるものではありません」


 名無しの手が有栖の手足にふれる。

 呆気なく、天肢は四肢の役割を放棄した。


「……」


 有栖は声も出なかった。

 大切にしていたものが失われた。

 何もなく、何も生み出せない自分がようやく手に入れたものが奪われる。

 眼前で、名無しが天肢を掴み取る。


「それは、私のよ」


 口は動いた。だから抗議した。

 けれども体は進まない。

 遠のいていく名無しの背中を掴むことも、追いかけることもできやしない。


「あなたは手足を失った。もう、どこにも行けませんよ」


 とどめを刺すみたく、振り返って名無しは言った。

 有栖はうぞうぞとうごめく動きをやめる。

 抗うのを、やめた。

 名無しはそれを見届けて、天賜へ天肢を上梓した。

 不動のままの棺桶。名無しにはそれが直視できた。


「海子氏はこれがこの世に存在してはいけないもののようだと言っていましたが」


 接続箇所は、後ろにあった。


「自分にはただの剥製にしか見えませんよ」


 天肢は翼だった。

 対の翼がふたつ。

 接続とともに天賜の機能制限が解ける。

 音はない。

 天賜が羽ばたき、地上を離れる。

 嗚呼――仰ぎ見ろ。

 歓喜とともに。

 悲鳴とともに。

 其が天より賜りし救済の御姿。

 天賜の顕現である。


「――悲しみが消えないのならば、せめて失われたものが今あるものと等価であるように」


 すべての人類史に意味を遺したいと、名無しは祈りを捧げた。

 彼の性能を通して、天賜の可能性が引き出される。

 消費で積み上がったこの二千年を、ひとつのかたちに遺すために。

 天賜の翼が、この世界にふれる。


「……」


 有栖はその光景を茫洋と眺めていた。

 いつもと変わらない空。

 曇天のまま日は差さず。

 ゆえに天賜の姿を直視できた。

 海子が言った通り、天肢を得た姿に拒否を感じることはなかった。

 変わらず、人の輪郭はしていないのに。

 天賜は不動のままだ。

 何かが決定的に終わっている気配はない。

 静かに、人類史は完結しようとしていた。

 そう、完結と有栖は思った。

 人類史は紡がれ続ける。場所を変え、終わるまでひた走る。

 ただ、それは結末の決まった道だ。

 生まれたものが死ぬように、重力のあるなかでは飛び続けられないように、手足のないものが動けないように。

 いずれ覆されるとしても、今その道を閉ざすのだ。

 ああ、と有栖は名無しの言葉を思い出す。

 何も残らなければ名前がつくはずがない、と。

 人類史を肯定しながら、その可能性を閉ざす。

 その理由は。

 その願いは。


「……名前が欲しかったのね、あなた」


 彼の価値とは、きっとそれなのだ。

 消費するということは、忘れていくこと。

 それが悲しかったのだ。


「わかりにくいわね、まったく……」


 それがわかっても、有栖にはどうすることもできない。

 ただ命を使っていくだけの消費者に戻ってしまったから。

 ――それが諦める理由にはなりえなかった。

 彼女は知っている。

 動かずとも、動けずとも生き続けることはできるのだと。

 ベットの上で呼吸をするのが全機能だったあのころから。

 有栖には何もなかった。

 生きるという意志もなく。

 生きたいという願いもなく。

 死にたくないという祈りもない。

 ただ、生きている。

 だから、彼女を突き動かすのは、その命を燃やすに足る確固たる理由があるからだ。


「失われたものに価値がないですって」


 有栖は首を横に振った。


「いいえ、違うわ。すべてのものに価値はない」


 その言葉に名無しは、看過できないとばかりに振り返った。


「失われたものに価値があったと肯定できるのは、今を生きる私たちだけだ」

「……そんなことはない。できるのは、結果を見て過程の正誤を判断することだけ。消費したものをかえりみるなんてことはない」

「失い続けて今に続いてきたなら、今を続けることが過去の肯定に繋がるでしょう」


 消費と生産は並行と海子や名無しは言った。

 たしかにそれは事実だ。

 利便性を求めあらゆるものを貪り、取り返しのつかなくなった時に採算が取れていないと気づく。

 間違った生き方だ。愚かしいと、賢しい人は言うであろう。

 けれど、目減りし続けるだけなら、なぜこんなにも発展した。

 祈りがあったはずだ。

 少しでも善い世の中になればいいという、祈りが。

 ひとりひとりが未来へ奉仕するために今を投げ捨てるには、個人は矮小だ。

 今が楽しければいい。自分が苦しくなければいい。

 刹那に生きて、他者を踏みにじる。

 有栖の生き方そのものだ。

 天肢に接続し続けるために家族との繋がりを断ち、多くの可能性を奪ってきた。

 けれど、それでも明日が善い日になればいいと思う。

 明日は過ごしやすい気候だといい。

 明日はおいしいものが食べたい。

 明日は痛い思いをしたくない。

 両親ともう一度仲良くしたい。

 ひとりではどうしようもできない。だから祈りだ。

 それはかたちにならなかったかもしれない。

 叶わないまま、残骸として積み上がってきた。

 その残骸は、善い日々になってほしいという祈りだ。

 それが今を作っている。


「それは消費者の欺瞞です。結局はすべてがなくなる。今すらも、いずれ消費する瞬間が来るのです」

「たとえそうでも、私たちは今を続けなきゃいけない」

「なぜ?」

「それが消費したものへの責任だから」

「それは未来へ問題を押し付けているにすぎません」

「あなた見せてくれたわよね。森のなかで、若葉が芽吹くのを」

「それが?」

「土壌があっても芽吹くものが――種がなければ何も生まれやしない。それなのに、その種を腐らせてしまうなんて……それこそ今まで消費してきたものに対する冒とくよ」

「芽吹くものの結末がなんなのかも、見せたはずです」

「それこそ生産者の欺瞞じゃない。芽吹いたものの結果なんて、その時になってみないとわからないわ」


 彼は(はや)すぎるのだ。

 天肢に()われたこの体より、はるかに発展性のある未来を抱きながら――抱くからこそ、この先のことを考えて悲観する。

 それはうらやましくも、悲しい生き方だと有栖は思った。

 名無しは眼鏡をはずし、眉間をもんだ。

 そっと空を仰いで、大きく息をつく。

 そうしてかけなおした眼鏡はゆがみなく、透明に現実を見定める。


「まだ失い足りないですか」


 と、なんら感情のこもっていない声で名無しはつぶやいた。


「これ以上、悲しみを増やすことは無意味と思いますが……消費を選んだ文明には、ふさわしい末期ですね」


 名無しが手を振るう。

 呼応して、静まり返っていた廃棄技術のひとつが動き出す。

 それは火を吐き出すもののはずだ。


「それに置いて行くと言いました。葬送には、ちょうどいいでしょう」


 それが、屋敷へ火を噴いた。

 木造の建築物は、ゆるやかに燃え上がった。

 有栖は首だけを動かし、視界の端でその様を見る。


「これですべてなくなった。手足は奪われ、刀は折れ、戸籍はとうに消えている。屋敷は燃えて、あなたが持っていたものはすべて失われました。これでも悲しくないと、霧切有栖、あなたが言えますか」

「そうね、今にも叫びだしたい気分よ。いいえ、そうするべきなんでしょう。だけどその前に、否定しなければいけないことがある」


 名無しは怪訝そうに眉をゆがめた。


「……なんですか」

「手足を奪って、私はどこへも行けないと言いましたね」

「ええ。それが霧切有栖の在り方だ」

「私もそう思っていました。けれど違う。どこへまで行けるかはわからない。それでも、歩き出すことはできる」

「手足がないのに?」

「やり方はいくらでもあります。そう、この文明は多彩に発展してきたから。それを私は勘違いしていた」


 天肢にこだわったのは、それしかないと思い込んでいたからだ。

 ほかに義肢があるとわかっていても、本当に歩けると信じられなかった。

 事実はやってみなければわからない。

 けれど、手足のない今でも歩けると思えているから、


「歩き方はひとつじゃない」


 天肢のような動きはできないだろう。

 それでも、可能性はひとつではないと有栖は告げる。


「美しい答えです。けれど、美しいからこそ届かない。やはり失ってから気づく生き物だ。すべてを失ったあなたに道はない」

「ええ、そうでしょうね。今の私には何もない。ただ、二千年に比べれはちっぽけでも、十二年間生きて積み上げてきたものがある」


 有栖は体をよじる。

 零號からの押さえつけが厳しくなるが、それでも首を伸ばし、それに食らいつく。

 折れた刀の柄に。


「……っ」


 そのまま首を回して、肩口を切り裂く。

 覆いかぶさる零號の指先に、血がしたたり落ちた。。

 有栖は大きく息を吸った。

 胸のなかのものとともに、叫び出す。


「さあ、起動しなさい、零號おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉおおおお!!」


 それは、失うことを憂いながら自らを消費しようとする名無しへの怒りだった。

 それは、未来のために自らの可能性を閉ざす生き方への悲しみだった。

 それは、自らにまだ抗うすべが残っている喜びだった。

 それは、善い未来を予感した楽しみだった。


「くっ」


 名無しが主導権を奪い返そうと走り出す。

 人の性能は、ふれることでしか発揮できない。

 だから――それより先に零號が有栖を覆った。

 背中に管が通った感触がした。

 これからこの技術は、成人男性一人ぶんの血を食らうまでとまらない。

 小さな少女(ありす)には、賄えない。

 それでも、有栖は歩き出せる。

 股関節を動かすようにすれば、一歩進めたのがわかる。

 有栖はそうして――名無しに背を向け屋敷へ走り出した。

 挙動の遅れた廃棄技術を蹴散らして進む。


「……まさか」


 焦燥した名無しの声が聞こえた。

 有栖の狙いに気付いたのだろう。

 静観していた廃棄技術らが、零號を壊すために動き出す。

 いくら戦闘用の技術である零號でも、数多の技術の前には優位をとれない。

 それでも走り続ける。

 外装がはがれ、焼け爛れ、砕け、息をするのも苦しくても。


「私はまだ、生きている」


 割れた面の隙間から、有栖はそう叫んだ。

 こじ開けた隙間を縫い、どうにか屋敷へたどり着く。

 ツタのせいか燃え上がる様は轟々としたものだったが、カビが生えるほど湿気っていたおかげで火の手はまだそう回っていない。

 それでも生身で入れば皮膚は溶け、肺は爛れるであろう。

 有栖は入口から二階へ跳び移った。

 海子の死体は、真っ赤に焼けていた。

 すぐに原型をなくすはずだ。


「……」


 有栖は死体に手をかける。

 零號の爪が、残った血液を吸いだした。

 けれど、まだ足りない。

 有栖の血液はどんどん吸われ、貧血状態になっているのが自覚できた。


「……いいわよ、吸いなさい」


 有栖は自分で面を砕いた。

 息を止める。

 ただ、口を開いたまま。

 地面に残る、言葉祈月の血痕を舐めとった。

 舌が一瞬でやけどして、味はわからない。

 それでもたしかに彼女は罹患した。

 天ノ逆手――天賜を呪う、逆手打ちの毒に。

 その血液を零號が吸い上げた。

 追ってきた廃棄技術から逃げるべく、適当な部屋を突き破って空中に躍り出る。

 すぐに重力を感じる。

 背中に意識を向ければ、終天が不可侵の空を終わらせた。

 一直線に、だれの手も届かない場所で有栖は天賜へ向かい飛びぬける。


「やめろぉ!」


 名無しの声が聞こえた。

 有栖は止まらない。だれの思想も排斥して、有栖は自分を貫いてきた。

 そうして。

 手を伸ばせば、ほら。


「……ぇ」


 並行の視点が立体を得る。

 下への移動。

 墜ちているのだと、すぐに気づいた。


「あ、ああ、ああぁぁああああぁぁあああ!」


 声は曇天に吸い込まれていく。

 空模様は変わらない。

 個人の感情など、大きなものには意味を為さないのか。

 地上では、廃棄技術が今か今かと捕縛のために陣取っている。

 そこに着けばもう、二度と機会は訪れない。

 そう思いもがいても、終天ははためかない。


「届かぬものに手を伸ばせば、墜ちるのが必定。そうでしょう」


 いつか聞いた言葉。有栖もそれを肯定する。

 けれど、


「目の前にあるのに、届かないはずがないでしょ」


 肩を回し、終天を叩き落した。

 それを零號の尻尾ではたき、体を持ち上げた。

 持ち上がった上体のなかで、有栖はもがいた。


「持っていきたきゃ好きなだけ持っていきなさい。――だから、壊れろ、零號」


 がくっと意識が傾ぐ。

 一気に相当量の血液を奪われ、有栖の意識は青ざめた。

 装甲の前面が開く。

 得た推進力をそのままに肩口と腿の根元を使って、零號から跳ねた。

 わずかに得た距離。手が届くはずもない。

 そんなことは有栖が一番わかっていた。

 鈍い感覚の体をひねる。

 できる限りの力で体を戻し、その勢いでそれを吐き出す。

 口のなかにため込んだ唾液を。

 天賜に唾を、吐きつけた。

 その行く末に願いを叫ぶ力も残っていない。

 自由落下に身を任せるなか、有栖は何も考えなかった。

 それはきっと奇跡のようで。

 けれどたしかに、有栖が成し遂げた。

 ――天賜がぼろぼろと崩れ落ちていく。

 有栖の一二年間がたどり着いた、結末だった。

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