01
言葉祈月襲来から一夜明け、有栖と名無しは静かな朝を迎えていた。
朝食と拵えられたミネストローネを口に運ぶ。
ごろごろと一口大に刻まれた野菜に混じった大豆が、肉厚な風味とともに優しくお腹を満たしてくれる。
一通り堪能し意識をしゃっきりさせてから、さてと有栖は目の前へ向き合った。
そこには、同じ食事を共にしていた名無しがいる。
「何か報告してないことあるでしょ」
「……確証が持てるまでお話しできなかったというのが事実としてあります」
「とがめるつもりはないわ。ただこの期に及んでは、どんな言い訳も無意味と知りなさい」
「承知しております。天ノ逆手――言葉祈月を下した今、お伝えしなければいけないでしょう」
そして名無しは、なんてことのないいようにそれを告げた。
「人類の廃棄が決定しました」
「それは廃棄技術と同じ意味で?」
「本質的には同じです。現状存在する数十億もの人類を地球上から消し去り、この星を次の霊長へ空け渡すというものですから」
「方法は、あるのよね。この手足が鍵だっていう」
「人類救済機構、天賜。それが全人類を消し去る、技術の名前です」
「救済機構というわりには、ぶっそうな代物ね」
「想定された用途とは異なる運用ですから、そう聞こえるのでしょう。出力される結果は同じなのですが」
「天ノ逆手の開発理念は、そうだったわよね」
「ええ。あれは天賜が起動すればどんな状況でも再起するものですが……今回は彼女の性能が正しかった」
「そう。言葉祈月もそっちに行ってくれればよかったのに」
「どこぞに保管されているとも知れない天賜を探るより、ただの手足の天肢を壊すほうが楽と考えたのでしょう」
「私だってそうするわ。だからってもちろん、やすやすとやられてあげる気はなかったけれど」
「結果がすべてです。その是非などは、後の世で勝手に区別されるものです」
「……いらないおせっかいよ。それに後があるかわからない状況よ。でもありがとう」
「差し出口を失礼しました。……言葉祈月の血の片づけは少し先送りにしなければいけませんね」
「乾いていても関係ないの?」
「はい。なのでできれば、彼女の通った場所にはできるだけ近寄らないでください。髪の毛はできるだけ拾い集めましたが、見落としがないと言い切れないので」
「それじゃあどこにも行けなくなっちゃう。あなたの機能は信頼しているわ」
「その機能で今回の廃棄は決定したようなものですけれどね」
「……無益で無意味、と言ったのは、夜霧海子よね」
「ええ。その真意はいずれ本人から聞けるかと。彼女は、そういう研究者です」
「ここに来るのね」
「わざわざ定期便で言伝を頼んでいました。言葉祈月が事を急いでいたのも、そういった事情でしょう」
「ずっと思っていたけれど、あなた色々なことに詳しいわよね」
「この情報のすべては夜霧海子氏より教えられたものです。……その理由を今考えると、自分は泳がされていたのでしょうね」
「私を生かすために?」
「そのための派遣員だったのでしょう」
たしかに、言葉祈月との戦いのときは名無しの情報で生き残ることができた。
言葉祈月は強かったと有栖は思う。
身体機能は常人のそれとはいえ、発揮される性能は有栖に引けを取らない。
相対が長引けば長引くほど、有栖の動きは読まれ、詰んでいたであろう。
「そんなにして守らなければいけないものを、なんで私に与えたのかしら? ……いいえ、それも本人に聞けばいいことよね」
すべての解を持っている。
それは研究者らしくないと思いつつも、有栖の頭のなかにある夜霧海子の印象にかっちりと当て嵌まった。
「けれど、これは先に聞いておかなければいけないわ。――どうやって数十億もの人類を消し去るの?」
「それは――」
と、二の次を継ごうとしたところで、風船が破裂するような音が響いた。
音源は部屋のさらに先、屋敷の出入口だ。
ふたりは一斉に立ち上がる。
有栖は刀を手に、いつでも飛び出せるよう膝に力を溜める。
容赦なく床を踏み鳴らし、その足音は迷わずふたりのいる場所へ向かっていた。
接敵が近い。緊張の糸が張り詰める。
無造作に開かれる扉。
有栖は飛びかかろうと足をあげ――声を聞いた。
「話し合いに来たのにぴりぴりしてるなぁ」
間延びした声音。
そのしゃべり方に、有栖は心当たりがあった。
「夜霧海子」
「ボクのこと覚えていてくれたかい、ありすちゃん」
声色は嬉しそうに、そして姿を見せた。
病的なまでに白い肌を覆うようにきっちりと着込んだ白衣に、それよりさらに深い色の白髪。爛々とした赤い瞳は、まだ男女の違いがはっきりしない幼年期の好奇心に満ちている。
その齢は、はたしてだれも知らない。
その経歴を見るに一世紀は生き抜いているのだが、
「相変わらず若々しいですね」
「研究している間は時間が止まっているんだよ」
と、聞く人が聞けば羨望しそうなことを言う。
夜霧海子は、中世的な顔立ちがそう見せるのか――いや、そんな理屈が通らない見た目をしている。
二十の年月を超えていないような、そんな青い果実に似た肌つやをしている。
有栖は刀を手にしたまま椅子に座りなおした。
名無しも先まで自分の座っていた席を海子へ勧めた。
「悪いね。キミも健勝だったかい?」
「おかげさまで」
「それはいいことだ」
海子の言に含みがあるように聞こえなかったが、名無しは顔をしかめていた。
いすまいが悪いのか、はたして、口を湿らせるものでも持ってこようとしたのだろう。
退室しようとした名無しを海子が制止した。
「もてなしは結構。ここしばらく何も口にしていなくてね」
一世紀生きた彼女のしばらく、とはどれほどか。
「世界が終わるときには、何も食べないと決めているんだ」
その言葉で、たわんで絡まった糸が一直線に戻る。
「だからキミもここにいなさい」
「……はい」
躾けられた犬のように名無しは了承する。
扉を閉め、有栖と海子、その中間の距離に佇んだ。
「さて、用件は彼から聞いているかな? そうだと手間が省けボクは嬉しい」
「人類救済機構、天賜。それを起動するための鍵である天肢をよこせって話よね」
「正確には鍵ではなく、その一部なんだけれどね。部品を腑分けしてわざと機能不全を起こさせているのさ」
「断るわ」
「そうだろうからボクが来た。懸念もあったからね。まあそれは、解決していたようだけど」
「懸念?」
「天ノ逆手さ。彼がありすちゃんに天賜のことを話したのなら、彼女を撃退してくれたんだろう? ありがとう」
「あなたのためにやったんじゃない」
「結果的にボクの為にはなったさ。今回においては、彼女の存在は不確定要素すぎる。だから十年前に天ノ逆手を処分したんだけどね……自分で作った技術とはいえ、いささか強固に作りすぎた」
「言葉祈月はまだ死んでないわよ」
「言葉祈月? ……ああ、そう名乗ったのか彼女は。なるほど確かに、結果論ではあるが設計思想に則ったいい名前だ」
「……」
有栖はむかっ腹が立った。
祈月を個人として扱わない言い方や、彼女の抱えた決意と覚悟をないがしろにするその口ぶりに。
それが夜霧海子とわかっていても、有栖は怒らずにはいられなかった。
「たしかに天賜が機能を停止しない限り、天ノ逆手というウイルスは彼女を動かし続けるだろう。けれどその前に天賜の機能を果たせばいい」
「言葉祈月の身柄を、私たちが保管していないとでも?」
「していないさ。天ノ逆手が不確定要素なのはありすちゃんも同じ。特にウイルスは手近なところから感染していく。本体と一部品。どちらに狙いを定めるかは、自明だろう」
それは先ほど出た結論だった。
「まあそんな理屈より、ほかならぬありすちゃんだからって言うのが大きいけどね」
「買いかぶってくれるわね」
「そりゃそうさ寿命を縮め、成長を止めるとわかっていても天肢への接続を望んだありすちゃんなんだから」
有栖はハッと鼻を鳴らした。
名無しの表情にも同様の色はない。それを踏まえて知っていると、有栖は判断していた。
「天肢が単体として廃棄されたのは、脳幹に作用するからだと説明したね。長い間接続し続ければ神経系に絡まって引き離せなくなる。その時点で成長は止まる。使用し続けるたびに静かに体は摩耗して、やがて持ち主の寿命は尽きるのさ」
「つまらない話はよして。それよりも、なんで私だったの?」
「唯一、天肢に適合したのがボクの期待の星、ありすちゃんだけでね。最初は、天賜から腑分けされた天肢がどういった機能を果たすのか見たかった。隔離して保管するだけじゃ、無益だからね。けれどありすちゃんは、この島の掃除屋さんになってくれると言ってくれただろう。好都合だったのさ。だから、預けた」
「この島で戦っているうちに手足が砕けたり、それこそ天ノ逆手に呪われる可能性はあったのに?」
「壊れるぶんには問題ないよ。欠片でも役割は果たせる。天ノ逆手はね、情報さえあればありすちゃんならどうにかできると予測できていたからね」
それに、と海子は続けた。
「最善と最良にこだわらなければ、人類を滅ぼすのはそうわけない。その場合は、ボクもいやな思いをしながら死ななきゃいけなかったから、やっぱりありがとうだよありすちゃん」
有栖がなぜ天肢への接続の継続が許可されたのか、その疑問が解かれる。
「それじゃあ本題に行こうか。ありすちゃん、その手足を返してほしい」
「さっきも言ったわ。それにこれは、私のものよ」
「ありすちゃんの意見はなるべく尊重してあげたいんだけどね……今回ばかりはそうはいかないんだ。ごめんね」
「そもそもなんで人類の廃棄を決定したのよ」
「あれ? 彼の性能を見せてもらってないのかい?」
海子は名無しへ目線を向けた。
「見せてもらったわよ。あなたが無益で無意味と断じた、可能性の消費を」
「なんだ。じゃあ答えは自明だろう? 無益で無意味。それがボクたち人類の進化の果てさ。ボクたちは生き方を間違えた。そう気づくのは、二千年遅かったよ」
「あなた個人の観測で、勝手に見限らないでほしいんだけど」
「慈悲だよ、これは。これ以上、苦しみを続けることに意義は見いだせない。人類がいくら資源を食い漁ろうとこの星はびくともしない。ただ、人類が生きる糧がなくなるだけ――そんな未来の果て、何も残らない結末を迎えるなら、ここですべてを救済するのが善い終わりだろう」
「救済って……結局は全人類をこの星から消すんでしょう。だったら詭弁じゃない」
「出力される結果はそうさ。だけどね、過程が違う。天賜は膨大なデータベースなんだ」
「……記録の保管場所ってこと?」
「正解。記憶や経験、感性からなる人格をインプットして、天賜のなかに広がる世界で個人を得る。脆弱な肉体――そう、脳も含めて朽ちて劣化するしかないこの枷から解き放つ。ゆえに人類救済機構さ」
「残された肉体は、どうなるの?」
「別に、今までの生活を送るだけさ。人格を抜き取っているわけじゃないからね。ただ、天賜によって処分される。それが今回の目的だからね」
「周りくどい方法……人だけを消し去るなんて」
「ボクたちがここまで繋いできた文明は自然選択に趨勢を任せないといけないんだよ。壊すのはよくない。人類の悪い癖でね。壊せば何かを生んでしまう生き物なんだ」
「それなら」
「それでも、未来は決まっている。消費と生産は平行線だ。決して補い合ったりはしていない――それが間違えた生き方さ」
人類がどれだけ自分たちに適合した文明を拓こうと、それは真綿で首を絞めるような緩やかな自殺の道である。
その生き方が賢いと有栖も思わない。
ただそれでも、海子にひとつ突き付けなければいけない意地がある。
「貪るだけ貪って、何も生み出さない。たしかに無益でしょう。……ただ、無意味なんてことはない」
「後に何も残らないとしても?」
「さっきあなたが言ったんじゃない。過程が違うって。この発展だったから手足のなかった私はこうして歩ける。さわれる。それを無意味だって、与えたあなたが言うの、夜霧海子」
その宣言に一瞬、面を食らったようになる。
やがて海子は哄笑した。
「ありすちゃんのくせに言うじゃないか。けどね、作ってきたからこそ、与えてきたからこそ言うのさ。何も残らないのは、無意味だと」
ふたりは押し黙り、視線を交錯させる。
そして、数瞬の後、
「交渉は決裂よ、夜霧海子」
「交渉をしに来たわけじゃない。話し合いに来たと、初めに言ったでしょう?」
目的は末期の談笑だったと海子は告げる。
「この結果は読めていた。わかっていて預けたんだから当然さ」
海子は席を離れようと椅子を引く。
その機先を制するようにして、有栖は飛び掛かった。
テーブルを支点に体を持ち上げ、椅子を蹴り上げ跳躍する。
関節を回して刀を抜き放つ。
頸椎目がけた一撃は、しかして何かに阻まれる。
「そう急くものじゃないよありすちゃん。生き急ぐのはよくない――年寄りからの忠言さ」
それは海子が放ったキューブ状のものだった。
展開され、組み上がっていく。
凹凸のない、銀色の――
「……っ」
有栖はそれを直視できず、それを蹴り距離をとった。。
胃のなかに苦いものが生まれる。
「ここには存在しちゃいけない異物のようだろ、ありすちゃん?」
「なんなの、それ」
「これこそが人類救済機構、天賜さ」
もう一度見るなんておぞましい。脳がぐちゃぐちゃになりそうだが、どうにか思い出す。
のっぺりとした銀色の棺桶、というのが有栖の抱いた印象だった。鏡を思わせる光沢がありながら、どんな景色も反射せずにそこに在る。
現実離れした――現実に浮き出てしまった、まるでこことは違う場所から現れたような威容だった。
「そんなのが、天賜だっていうの……?」
「部品が足りないからそう思うだけさ」
席を立った海子が天賜を指先でなぞる。
「干渉。その象徴である手足をかたどったものが」
その手を、有栖へ伸ばす。
「人類救済の機構は閉じられたままでも自己防衛機能は果たせる。さあ、返してもらうよありすちゃん。そうして、人類を完結させる」
有栖は大きく息を吸って、そうして海子を見据える。
「渡さない。手足も、未来も。無意味だって言ったあなただけには絶対」
有栖は再度跳躍する。しかしそれは、
「おや」
海子と天賜の後ろに着地。そのまま部屋を出ていった。
「啖呵を切ったわりには……いいさ、付き合ってあげるよ」
有栖は二階へ跳んだ。
床を軋ませ海子は階段を昇る。視界の端で滑るように――つどつど座標を変えるように動く天賜が見えた。
有栖は廊下を少し進んだところで足を止めた。
腰を落として、いつでも間合いを詰められるように身構える。
海子が階段を昇りきる。
彼女の目にそれが映った。
「その血だまり……天ノ逆手のだね。下にもあった。激戦だったと見受けられる。――天賜を下す切り札としては申し分ないね」
有栖は何も答えない。
「さて、ボクの性能は常人以下といってもいい。ありすちゃんからはこの子が守ってくれるけど、天ノ逆手からはボクが守れるとは限らない。これは困った」
さして困っていない風に海子は言う。
「だからそう、夢の国に落ちなさいありすちゃん」
海子の正面に突如として天賜が現れる。
もちろん空間移動なんて芸当でなく、ただ移動しただけ。有栖が目線を外していたからこそ突かれた虚だ。
意識が明滅する。
視界を変えるわずかな間に天賜が距離を詰めてきた。
そうして、
「――眠るのはあなただ、夜霧海子氏」
海子の背後。音もなく忍び寄った名無しがそれを投げる。
海子にはそれが何なのかわかった。だから意識がそちらへ向いた。
天賜が自己防衛機能を発揮する。ただ躱すだけの行動。なぜならそれは、ふれることの許されない穢れ、天敵殺しの呪いだから。
有栖が切り落とした祈月の手。
弧を描く軌道で投げられたそれの下をくぐって有栖は跳躍した。
接地とともに逆袈裟に海子を斬り払う。
倒れ込んだ海子へ、有栖は苦いものを感じながら言う。
「こういった可能性を読めてなかったとは言わせないわよ、夜霧海子」
「……まあ、ね。ただボクは、ありすちゃんと遊びたくてね」
不思議と彼女の言葉は平時と遜色なかった。
手ごたえはあったのだが。
「結局のところボクは研究者だからさ。英雄とか救世主とか、そんなものには興味がないんだ」
喀血する。
虹彩がわずかによどみ始めた。
「ねえキミ。決断はできたかい?」
それは名無しへ向けた言葉だった。
「ええ。多くのものを見せてもらいました。多くのことを教えてくれました。最後に、有意義な出会いをもたらしてくれました。自分はあなたも置いて行きますが、感謝を」
「いやいや。おいぼれはさっさと退場するに限る。代謝さ」
「何を言って……」
有栖はふたりの会話の意味を図りかねた。
海子はそれに答えることはなく、ただ笑いかけた。
「楽しかったよ、ありすちゃん。期待のふたりがどんな答えを出すのか見れないのが残念だが、うん、有意義な人生だった」
そうして事切れる。
夜霧海子。彼女がこの世に与えた影響を考えれば、なんともあっけない命の末路であった。
それを見届けて、有栖は名無しへ視線を向けた。
「どういうことか、説明してもらってもいい?」
「その結論に至ったのは、たった今だと最初に言わせてください」
「何度も同じことを言わせる気?」
「廃棄技術を再起させていたのは自分です」
「そう……」
その発言に、有栖自身が驚くほど意外に思うことはなかった。
知らぬうちに気づいてはいたのだろう。あるいは、初めて彼の性能を見せてもらった時に。
「それは自分自身が何をするべきか迷っていたからでしょう。消費されてもまた生産の循環のなかに組み込めれば悲しみが減ると。そんな理想もありました」
「惜しむことはない。すべては平等に価値を持つ」
「有栖さま」
そう呼ばれるのは初めてのはずなのに、なぜだか聞き慣れたような、頭の奥から喚起されるものがあるように思えた。
「自分はこの文明を、人類史を凍結します」