03
彼女ははじめ、自分がどこにいるのか思い出せなかった。
直前までの記憶にもやがかかっている。
そんな意識とは裏腹に、足だけは動き続けていた。
どこへ行くのかわからない恐怖で身を固めようとするも、手足が動くことを止められない。
思い出せる記憶は、追いまわされたどり着いた崖の上。
激しい潮騒に削られた岩肌が、彼女の次の足場だった。
追っ手はすぐそこまで来ていた。
だからではないけれど、躊躇はなかった。
飛び降りる。
背中から落ちたのは、天への反逆心だ。
透き通った宵闇。星はないけれど、皓々とした月があった。
それを見ながら足場を失うと、まるでその暗闇へ吸い込まれていくような錯覚に陥った。
そんなはずはもちろんなくて。
痛みや苦しみを感じることなく、意識は途絶する。
ああだから――ふと目的を思い出す。
そうして、剥離していた自分を取り戻す。
「わたしは言葉祈月。そう、言葉祈月よ」
言い聞かせるようにつぶやいて前を向きなおす。
明かりの落ちた暗がり。
やけにしけった空気が肌をまとわりついた。
一歩一歩踏み進めるたびに、わずかに沈む感触がした。
ここは自分の家の、いや今は天肢の住む館の地下だ。
「わたしのほうが住んでいた年月は長いのよ、霧切有栖」
突き当り。上へ昇る梯子に手をかけた。
「さすがに錆びているわね」
少し体重のかけ方を間違えれば踏み抜いてしまいそうな肌触りだった。
土の壁につま先を差すように昇り切り、天板を開ける。逃亡の際に木くずを噛ませていたため、不使用年数を考えればはるかに小さい力で蓋は開いた。
ツン、と鼻につく黴臭さ。
はたしてそこは、用具入れ。
今どんな風に使われているのかは、すぐにわかった。
目の前。
モップや箒などの掃除用具一式を抱えた男が目の前にいたから。
「いいタイミング。モップを頭にかぶらずに済んだ。それに――」
祈月は飛びかかり、男の下あごを掴んだ。
何も起こらない。
男の突き放す蹴りが腹部を圧迫する。
たまらず手を放して祈月は後退した。
彼女は笑った。
「おまえが可能性の終着点か。人類の歩みの果てなら、天敵ではないわね」
男――名無しは、モップ以外の掃除用具を手放す。
柄を小脇に、ずれた眼鏡の位置を戻す。
「あなたは……いいえ、その口ぶり、逆手打ちの呪い――天ノ逆手ですね」
「察しがよくて助かるわ。あまり問答は得意でないので」
「自殺したと伺っていましたが……やはり再起していたのですね」
「知っているでしょ。わたしは薬に対する毒。あれが動けば、わたしはそれを制する免疫として自動で再起する。そういう風に組み替えられている」
「本当に人類の廃棄は確定されたのですね……今日連絡を受けた時は、耳を疑いましたが」
「いいえ、救わせない。わたしが護る。そのために言葉祈月はいる」
「……人類救済機構が誤作動した際にそれを破壊するだけの免疫が、人類を守ると?」
「楽園を築く。人類の末路がそうであるのならば、それを見切るのは早計でしょう。おまえの機能がそうであるのならば、人類は保護できる」
「手を貸せと?」
「ええ、そのための話し合いに来たの。おまえだって嫌でしょ。じゃなきゃ、廃棄技術が再起する可能性を与えるわけがない」
「っ! ……やっぱり、気づかれますか……」
「あなたの機能を知れば消去法でね。夜霧海子だってわかって、おまえをこの島に送ったんでしょうから。ここは、閉じている」
「やっぱりもう、罠のなかか」
「『惜しむ必要はない。すべては平等に価値を持つ』でしたっけ? 失われることを悲しんでも、それを否定はしていないのでしょう?」
祈月は手を伸ばす。
それは誘い。
自分へふれられる味方へ、同じ理想を目指そうと。
「人類はまだ生きられる。楽園のなかで一秒でも長い生存を。その場所へたどり着くには、おまえの機能がいる」
名無しはその手を眺める。
その手のひらには、現状より続く人類の未来が見えた。
「自分は……」
そうして名無しは――。
夕刻。
西のほうがわずかに色づいて見えるが、夕日は分厚い雲にさえぎられて見えない。
その様子を横目に走る有栖は、すでに屋敷の手前までいた。
結局のところ、彼女の勘は外れた。
北には一切の生活痕はなかった。徒労である。
「骨折り損のくたびれ儲けってね」
そう自虐してみるも、本来の警邏としての役割は果たせているのだ。
本日は異常なし。珍しいことだった。
「善いことだわ。少し目を離したらすぐに密入者が再起した廃棄技術持って逃げようとしていたからね」
最近は特にそんな毎日であった。
多くの人を殺す必要があった。
多くの可能性を奪ってきた。
初めて零號の所有者を殺した時から覚悟は固まっているので、悲しんだりはしない。
その環境を与えた言葉祈月への怒りもない。
有栖にあるのはやはり、自身が得た役割を果たそうとする責任だった。
「帰ったわ」
有栖の帰宅を、静寂が出迎えた。
慣れ親しんだこと。ただ、ここ最近は名無しの返礼があった。
おかしい、と刀の柄に手をかける。
その勘は――当たった。
湿った匂いがした。
ぬるりと背後から、首筋にわずかな熱を感じる。
それに腕が反射して、鞘を後ろへ打ち込む。
それと同時に刀身を鞘走らせ、そのまま肩を回して切りかかる。
「うっ」
左手に柔らかな感触。右手はわずかにかすめた程度。
有栖はそのまま前方へ飛びのき、着地とともに滑るようにして背後を向く。
予想通り、言葉祈月だ。
打たれた腹部をさすっている。顎先から血が滴っていた。
「お邪魔しているわ、霧切有栖」
「招き入れたつもりはないわよ、言葉祈月」
「だから邪魔しているのよ」
「名無しは?」
「あの男? さあ、どこかで覗き見でもしているんじゃないかしら」
それに、と祈月は挑発するように微笑んだ。
「彼はあなたのじゃないんだから、わたしがどうしたって構わないでしょ」
「――っ」
一息。その間に距離を詰める。
軋んで恐怖を訴える手足を無視して袈裟がけに斬りかかる。
祈月は斜めに体をそらして回避する。
そのまま踊るように有栖の背後に回ったのは、逆に曲がった肘での追撃があったため。
先回りした鞘が祈月を出迎える。
「ちっ」
有栖は背中を蹴りつけられ体制を崩す。
握った拳が露出した首筋へ迫る。
が、有栖は膝を真逆に折り曲げて上体を後ろへ反らす。
真上を抜けていく拳に全身が悲鳴をあげた。
勝手に逃げようとする足をどうにか留め、斬り上げる。
祈月が顔を逸らす。それでも手首の返しで耳へ食らいついた。自制のぶんだけ刃の到達が遅れ、致命の機を逃した。
右耳を失って表情が苦痛にゆがむも、ひるむことなくもう一方の手による軽打を放つ。
有栖はそれを鞘で払いのけ、膝を回して体をひねって飛ぶ。
小さな体が祈月の懐を抜け出し、背中をとる。
回る勢いをそのままに、首を斬り払う。
しかしその軌道は予期されていたのか。
がくん、と祈月の体が前方に落ちる。
空を切る刀。
それを返す間もなく、顎へかかとがかち上げられる。
空中で避けるすべはなく、そのまま食らった。
脳が揺れる。
自身の状況を把握できない。
立っているのか、くずおれているのか。
刀と鞘は握れているのか。
「愚問ね……」
ろれつが回っていたかすらわからない。
ただ、それだけは信じられた。
まだ私は呼吸をしている。
まだ、生きている。
ただ生きていただけのあのころに比べたら、何もかもが足りている。
足はある。腕は伸びる。刀を握っている。
だから、脳が止まってもまだ、手足は動いた。
天肢が恐れるままに。
知覚外から迫り来ていた祈月の腕を切り落とした。
「――――」
音がした。悲鳴だ。それがどんなかたちのものか、胡乱な有栖には判別がつかなかった。
くらんだ意識が徐々に焦点を取り戻していく。
どれだけの時間が経ったのか。
少し離れた場所に、うずくまった祈月がいた。
右手が傍らに落ちている。
切り口がきれいなのだろう。出血量はそう多くなかった。
睨みつけられ、有栖は輪郭を取り戻した意識で言う。
「私のものは壊させないって言ったんだもの」
左右の手には、変わらず刀と鞘があった。
「手放すはずが、ないじゃない」
よろよろと祈月が立ち上がる。
「何も知らない小娘が。血でもおっ被ってくれれば儲けものだったのに」
吐き捨てるように言い放つ。
祈月は走り出し、距離を詰める。
接触の刹那、彼女は手のない右腕を振りかぶった。
血が有栖目がけて飛ぶ。
先ほどの口ぶりからしてそれも危険なものと、体を回してそれを避ける。
祈月はそのまま足を止めることなく階段を昇り、二階へ消えた。
「逃がさない」
跳躍して二階の手すりに飛び乗る。
すでに手近な部屋に隠れたのか、姿が見当たらない。
「必ず壊すわよ、言葉祈月」
「――いいえ、もう終わりでしょう」
不意に、声がした。
下から。階段を昇る人影が、ひとつ。
有栖は刀を鞘に戻した。
「名無し」
「彼女の描く手のひら《みらい》は失われた。どうあっても彼女はひとりの人間だった。だからこそ、自分だったのかもしれませんが……」
「無事、なのよね」
「ええ。彼女に、言葉祈月に手を貸せと言われましたが、その決断は保留とさせていただきましたので」
「保留……そう、言葉祈月の目的も賛同はできると感じたのね」
「現状よりかは好いと思いました。何より自然です。ただ、それは悲しい。だからそう、私の機能を無意味ではないと言った霧切有栖を下せば、言葉祈月につくと言ったのです」
「言葉祈月についてどこまで知っているの?」
「その身が抱える技術だけは。いいえ今は、その目的も知りましたが」
「目的は、今は必要じゃない。技術を教えてもらうことは、不平等かしら?」
「決着のついた今では関係がないでしょう」
「そう。それでも彼女は……」
その先は、わざわざ言わずともいずれ起こることだ。
名無しもそれはわかっているのだろう。悠々と語り始める。
「逆手、と名称された技術の開発がありました。その設計思想は、人類の天敵、人類が被捕食者になるような絶対の存在を仮定し、それに対抗する免疫を作るというものです」
未だ食物連鎖のピラミッド構造から抜け出せていないがゆえの焦りだろう。
最上部はいつすげ変わるともしれない。下層のサイクルに依存した消費者である以上、そのバランスが崩れれば足場を失い生物として失墜する可能性を常にはらんでいる。
「この逆手は開発途中で違った設計を求められました。ある種の人類の天敵がかたち作られたからです。それが仮に本来の用途とは異なった運用をされた際に、止めるための免疫が求められました。そうして逆手は天ノ逆手と名前を変え、適合した少女に保管されました」
その誰何は問う必要がないだろう。つまり、
「言葉祈月、当時は違う名前でしたが……彼女はその保菌者です」
「天肢が人類の天敵と言われたけれど、そうなの?」
「……いずれわかることですが、天肢はそれを起動させる鍵として開発されたものです」
「なるほど、これを壊せば起動しないと」
それは有栖が手足を失うということだ。
「どんな事情であれ、奪わせはしないわ。それで何、言葉祈月にふれたらだめってことかしら」
まだ鈍く痛む顎をさすりながら有栖は尋ねた。
「接触感染ですね。特に今の彼女は、髪の一本一本に至るまで、天ノ逆手となっていると予想されます」
「……そう。だから、かしら」
「何か?」
「気がかりがひとつあってね。ただそれは」
その続きを口する前に、金具のきしむ音がした。
耳障りな甲高い音を立てて扉が開く。
少し離れた場所、特に使用のされていない部屋だ。
有栖がそこを使わなかった理由は、そう、
「この屋敷は私のだけれど、別に貸すぐらいはよかったわよ? ――まあ、私たちはその機能からして相いれなかったようですけれど」
ひとの残り香がしたから。
日の焼け方やカビの侵食具合から、主だって使われていた部屋だと予測できた。
元の家主の言葉祈月がとっさに入った部屋がそこであるのならば、だれが使っていたのは自明である。
祈月は腕をベルトで止めて出血を留めていた。
白磁の肌の上に黒ずんだあざのようなものが浮かび上がっていた。怨嗟でのたうつそれこそが、天ノ逆手か。
どこか蒙昧だった彼女の瞳が、澄んだ茶色を得ていた。
「毒は抜けたのかしら、言葉祈月?」
「いいえ。わたしがそうなのです。ただ、言葉祈月がなんなのかはっきりと思いだしました」
「そう、尋ねるまでもなかったわね。人を呪わば穴ふたつってことかしら」
「呪っているのは天ですけれどね。ええ、呪い続ければわたしという自我がそれだけに染め上げられるのは当然のこと――死んだこの体が意思を伴って動いているのは、天への呪いに依るもの」
「じゃあ、それに依存しない言葉祈月はなんなの?」
「祈るべき天が人を護らぬというのなら、その祈りをわたしがすくいあげる。空に佇む月のような新たな受け皿を、わたしが担う」
届かぬ祈りの言葉をすくいあげ誓いとした。
「言葉祈月は、人類を護る」
「そう、やっぱり平行線ね。私は、戦うことを選んだわ」
「知っているわ。目覚めてから、ずっと見てきたもの。だからね、私も聞きたいの、霧切有栖。おまえは笑いもしない、苦しみもしない、怒りもしない、悲しみもしない。心が、欠けているの?」
「何、その質問? 私だって楽しいと思う、苦しいと思う、腹立たしいと思う、悲しいと思う――それを共有するのは、もったいないじゃない」
「……なんて傲慢。だれとも共有しないということは何も生み出さないということ。やっぱりおまえはわたしの敵よ。そのゆがみごと、その手足を砕く」
接敵する祈月。
有栖は腕を背中に回した。抜き放つは大上段。
まっすぐの振り下ろしを祈月は半身になって避ける。
そのまま手を伸ばせばすぐそこに有栖の顔が――なのに、体が傾いだ。
横へ運んだ足が何かにもつれる。
それは有栖の差し出した足だった。
彼女は肩を回し、倒れ込む祈月の腹部を貫いた。
刀を回して抜き取る。体の中心にぽっかりと空いた穴は致命だった。
「あなたは強い。特に、直線的な剣筋は全部見破られた。だから、それを利用させてもらったわ」
「……なるほど……種は、割れていたのね。おまえの告げ口だな」
息も絶え絶えに祈月は、傍観する名無しへ咎めるような視線を送った。
「やはりあなたの導く楽園は、悲しみを先送りにするだけだ。時間は足りないが、それでも自分は消費されるだけのものが少しでも減ればいいと考えます」
「そう、わたしは言葉の意味をはき違えていたのね」
初めから目はなかった、と祈月は嘆息した。
「名無し、と言ったかしら。それはだれが名付けたの?」
「だれに名を与えられることはありませんでした。ただ、名前を問われたので、そう名乗ったのです」
「結末にまだ名前がないなら、希望かもしれないわね」
祈月は有栖ヘ視線を送る。
「一生呪ってやる、霧切有栖」
「一生呪われる覚悟はとっくにできているのよ、言葉祈月」
「可能性を奪う責任ってやつ? でもね、それに見合う成果を生めなければ、何も変わらないわ」
「そんなことは」
「わかっていても、何もできていないじゃない。何も生み出せないなら、現状を管理するべきよ」
「それでも手足があるのなら、もがく必要があると思うわ」
「手足をもがれた時が楽しみね」
その言葉は呪いのように有栖に染み入った。
祈月の呼吸が止まる。機能が停止した。あくまで、一時的にだが。
人類の天敵が存在する以上、彼女は何度だって再起する。
「……名無し、頼みがあるわ」
「いかようにも」
「言葉祈月を海に流してきて。彼女が陸にたどり着く前には、すべてが終わっているでしょう」
「左様で」
名無しは動かなくなった祈月を抱え上げ、階段を下りて行った。
外へと姿を消したのを確認して、有栖はその場にへたり込んだ。
「からっぽの瓶のなかに失われた可能性だけが詰め込まれたら、一体何が生み出せるんでしょうね」
独白に答えはない。
ならばそう、有栖はそれを証明しなければならない。
「それでも残るものはあると、次目覚めた時に見せつけてあげるわ」
そうして有栖は立ち上がった。
確認したいことは山のようにある。けれど、それを状況が待ってくれるとは思えない。
それでも未だ手足はある。
ならばどんな脅威にも、抗う可能性は残されているということだ。
祈月のこぼした血だまりを飛び越える。
吸いつくように着地する。それは開け放たれたままの、祈月が出てきた部屋だ。
がらんどう。けれどそこには、有栖の知らない祈月だけの思い出があった。
呪うことに支配されていた意識を取り戻すだけの、思い出が。
「人の家なんだから、開けたらちゃんと閉めなさいよね」
そっと扉を閉ざす。
有栖は自室へと戻っていった。
きちっと扉は閉めた。