02
「ただいま戻りました」
定期便と荷物のやり取りを終え返ってきた名無しを、有栖は出迎えた。
「おかえりなさい。なんか報告あった?」
「いいえ、特には」
「そう」
帰ってきた名無しの雰囲気が少し違ったように感じられたので尋ねたのだが、杞憂のようだった。
「自分のいない間に、何か不自由することはなかったですか?」
「何もなかったわ。掃除しようと思って、やっぱりやめたくらいかしら」
言葉祈月のことについて、有栖は黙っておくことにした。
天肢を作った海子が、その天敵である人物について知らないはずもない。
あるいはそう――彼女こそが予想された、今回の一連の事件の犯人かもしれない。それは十中八九間違いない。
この期に及んで言葉祈月について黙っているということは何か意味が、もしくは伝える意味がないのか。
壊しあう関係であることは自明であるのならば、餌に余計な情報を与えて獲物に警戒されるのは無益であろう。
有栖も自信が壊す対象と定めた以上、余計な横やりは避けたかった。
だから、名無しへ伝えることはしなかった。
彼は特に疑うそぶりも見せず、
「左様ですか。午後にでも自分が行っておきます」
そう言って、向かって左手の部屋へ足を進めた。
そこには調理室がある。
手に持っていた一日分の食料品の保管とお昼ご飯の準備のためだろう、と有栖は思った。
「今日のご飯は何かしら」
おいしい料理は心の潤いになる。
名無しが来てから、はっきりとした味付けの料理に舌つづみを打てるようになった。朝語ったように、有栖はしっかりとした味付けが好きだった。
初めて食事をふるまった時の名無しの表情は、今でも思い出せた。
別に味気のない食事を好んでいたわけではない。素材がいいのか、それはそれで十二分においしかった。
不思議と有栖には、調味料を使うという発想がなかったのだ。
それを疑問に思って、名無しへ訪ねてみた。
今は客間が、共用の空間となっている。
ほのかに甘い芳香のする湯気の先。
自身でで作った料理を配給する名無しは問われ、
「調味料というのは文化ですからね」
「そりゃあ、うん。ライオンが狩った獲物の肉に塩胡椒振ったり、パンダが笹にお砂糖をかけたりはしないでしょうね」
「ええ。その日に食料を狩って、その日に食べきれば保存のことなど考えなくてもいいのですから。ただ、それはあまりに非効率的で危険が伴う」
「そう。それで?」
「人の機能に合わせれば、加熱で菌を処理して食あたりの危険を避けられれば十分です。生存の上ではそれが正しいでしょう。生きていく上では、いささか遊びがないとは思いますが」
「……獣の感性っていうことかしら」
「いささか結論を急ぎすぎかと。食料が定期的に配給されなければ保存のために調味料を使ったでしょうから。きっと、文化の継承に不備があったのでは?」
「……かあさまと調理場に一緒に立ったことはなかったわ」
「食べ物に味の良し悪しを求め、加工するのは人の克ち取った余裕です。本質的に必要がないものならば、想像力を働かせなければいけません。想像できないことを行うのは不可能ですからね」
有栖の疑問は氷解した。
けれど導かれた結論は、彼女にとって善いものとは決して言えなかった。
「じゃあ私には、余裕がないということね」
名無しは何も言わなかった。
沈黙こそが雄弁に、彼の思考を訴えかけてきた。
有栖はスプーンを手に取って、若干赤みがかった白いスープにくぐらせた。
粘性がある。
「いただきます」
液体にしてはずっしりと重いそれを口に運んだ。
ミルクの甘やかなコクが味蕾のひとつひとつに沁みわたる。しっかり溶け込んだ野菜の芳醇な味が鼻から抜けていった。
「おいしいシチューね」
そう言い漏らし、主食へ目を向ける。
カリッと焼かれたパンには、バターが練り込まれているようだ。
すんすんと鼻を動かしてそう察すれば、口のなかの残り香が胃を刺激する。
たまらずパンをちぎって、シチューに泳がせる。
半分ほど浸かったところでスプーンですくいだして、口に入れた。
溶けだしたバターの濃厚な香りが炸裂する。ガリガリとした感触が、足りない食感を補って満腹中枢を満たしていく。
歯触りの微調整が効き、最後まで五感の全部に飽きを感じないまま完食した。
ほっと息をつく。
体が熱い。芯まで凍るこの時期にはとてもありがたかった。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまです」
名無しの皿は、いつの間にか空になっていた。
名無しが片付けを始めるのを、食後の紅茶を楽しみながら眺める。
少し落ち着いた温度のお湯でゆっくり抽出された葉の薫りは、口のなかに残った油をそそぐに十分な濃さを含んでいた。
この一連の食事すべてが文化だ。動物を狩り、焼いた肉を食らっていた頃からすれば、異様な光景にも映るだろう。
文化の積み重ねが文明を拓いてきた。
有栖は自身の手足に目を落とした。
「そんな余裕、なかったわ」
思い出すのは幼少のころ。ひとりで身を起こすのもままならず、だから望みなんて何もなくただ呼吸をしていた時代。
時間は無限にあった。けれど、生きるだけで精いっ ぱいだった。
呼吸をすることだけが彼女の全機能だった。
何も掴めず、どこにも行けず。
生産的なことなど行えるはずもなかった。
「それこそ想像力って話なんでしょうね」
手足を得た今、あの頃に抱いていた無力感は、自分が勝手に作り込んだまやかしだったとわかる。
手足はなくとも口は動いた。脳は働いていた。
だから、何も生み出せないなんてことはなかった。
そう思っている。
そう思っているのに、なぜだか今も何も生み出せずにいる。
奪ってばかりの生き方。あの頃と、何も変わらない。
「かあさまやとうさまの反対を押し切ってこの島に来たっていうのにね。まったく……発展性のない……」
そう自嘲する。
どんな慰みも娘を満たすことはないと失望した父親は、開発途中であった天肢の被験体に彼女を上梓した。
それは親心だった。与えるのならば最新で高性能なものを、という。
その試みは、成功だった。
彼女は無事に手足を得て、自由を謳歌した。
何にも喜びを見せなかった娘の笑顔に、両親は夜ごとに涙したという。
一緒に行った旅行の思い出は、今でも彼女の輝かしい記憶として大事に記憶されている。
それでも、完成品でないがゆえの不具合が見つかり、天肢を手放せばならない時が来た。
彼女は反対した。もちろんだ。手足を取れと、それもようやく得た手足をもう一度失うなど考えられなかった。
親は、違う義肢を与えると言った。
彼女は違うと叫んだ。これは自分の手足であり、代わりなどないと。
なぜそんなにこだわったのかは、彼女自身もわからなかった。あまりに自然なことだった。
それでも天肢の廃棄は決まっていた。
彼女がどれだけ反対しようと、破壊されるものだと。
ならば、同じように廃棄される技術を破壊する掃除屋になるから、その間だけでも天肢に接続し続けたいと懇願した。
そんな小娘のわがままを、夜霧海子は叶えた。
そうして霧切有栖は夢の島の掃除屋となった。
「ねえ」
一通りの片付けを終えたのか。ティーカップ片手に一息ついていた名無しへ水を向けた。
「かあさまやとうさまはどうしているの?」
「今も壮健ですよ。有栖というひとり娘がいた記憶は消されて、お手伝いさんも任を解かれ、ふたり睦まじく暮らされています」
「そう、それは善いことだわ」
生まれ持った関係性すら切り捨ててここにいる。
それは本当に、
「生産性がないわね、私」
紅茶を飲む。
冷たくなったそれはとても苦かった。
「マカロンが食べたいわ」
「承知しました」
名無しは席を立ち、そそくさキッチンから小瓶を持ってくる。
目の前にそっと置かれた小瓶の中身は、少しづつだが減っている。
そうして食べつくした小瓶のなかには、一体何が残るのだろう。
「ま、食べるんだけどね」
一粒つまんで口に放り込む。
色は白色。
今日も甘くておいしかった。
苦くなった紅茶を飲み干す。
そうやってなあなあに流し込んできた自分を、自覚しながら。
「午後の予定は何かしら」
「警邏に行っていただければと。西のほうの死体の回収も終わっている頃でしょうし。その間に自分は屋敷の清掃を終わらせておきます」
「わかったわ。よろしく」
足元の刀を手に取って立ち上がる。
開けた扉はきっちり閉めて、有栖は外へと出た。
名無しの作ってくれた料理のおかげか、そんなに肌寒さを感じない。
「言葉祈月はどこに潜伏しているのかしらね」
終天を導いたのが彼女ならば、その末期もどこかから見ていたはずだ。
本土からの定期便がその死体を回収するのも知っているはずで、東から西のライン上は危険が伴う。
残るのは、
「北かしら」
南北に広い島だが、天肢の足があれば往復に半日もかからない。
調べる価値はある。
刀の重さを再度確認して、有栖は飛び立つように走りだした。