プロローグ
その少女の走る姿は、まるで飛ぶ鳥を追いかけるようであった。
三日月の淡い夜。少女の抱える刀の鞘が、光を存分に吸って影を濃くしていた。
ひらひらとひざ丈のスカートが踊っている。
修道服を思わせるも、どこか甘やかなドレス。
霜の下りた地面を編み込みのブーツが蹴り上げる。
ソールが地面に噛みついて、踏みしめた力を解き放つ。
ふわり、軽やかに。
重力に逆らうようにして少女は跳んだ。
高く、遠くへ。
跳躍する。
頬を突き刺す冷たさを空気に感じる。
浮遊感があらゆるしがらみを地上へ忘却させ、ふわふわとした自由を提示する。
どこまでも、どこまでも行けそうだった。
けれどそれは、唐突に終わる。
跳ねた兎が月に届かないように、鳥が羽を休めるように、自由落下が始まる。
重力の描く輪郭に、少女は自分のかたちを思い出す。
着地とともにかかる荷重は、自分の重さ。
だからそれを溜め込んで、もう何度目かの飛躍をした。
追う背中はどんどん近くなっていた。
目を凝らさなければ一寸先すら未明のなか。
月光の隙間を縫うように走る影は、ふたつあった。
背中が異様に膨らんだ男だった。
それを守るために、男は逃げているのだ。
彼にとっての死神から。あるいは、天使のような少女から。
この鬼ごっこが終るのは、時間の問題だ。
徐々にとはいえ彼我が縮まっているのだから当然である。
いずれ追いつかれる。
男は足を止めた。延命は無駄だと観念したのか――違う。
「零號!」
月夜に男の呼び声が響き渡った。
それは月を裂くような叫びだった。――いや、実際に月を引き裂いた。
月光に晒された男の姿が変わっていく。
膨らんだ背中から五体へ巻き付いていく外骨格。鉛色の肉体は、爬虫類を思わせる形をしていた。
尾てい骨から伸びた尻尾が天に逆立つ。茨にも似たそれが、少女の目線からは月を半分に裂いたように見えた。
月を割ったような双眸が、少女の黒い眼と合う。
着地は近い。
そこを狙い、男は地面を蹴り出した。
一足。依然あった距離が縮まる。
足先が地面に着くのも待たずに体を鞭のように振り回し、でたらめに拳を放つ。
無防備な少女へ拳が食いつくのと着地は同時だった。
鈴の落ちた音とともに少女の華奢な体は簡単に吹っ飛んだ。
零號は全身から赤い水蒸気を炎のように噴き出しながら、その行く先に目を向け、
「――ッ」
懐に入り込んだ小影に目を剥く。
小さい。その手に抜いた刀よりも、明らかに。
地面と水平に走らせた刃が垂直に斬り上がる。
首を刎ねる軌道。回避は不可。
一閃。空気すらも払うように、刃が首を抜ける。
男の首は、つながったままだった。
ゼラチンのような上皮だけがぱっくりと裂けていた。
少女はそのさまを目に収めて、飛びのいた。
短いバックステップで距離をとる。
追撃はなかった。
ただ、その間に上皮がうぞうぞうごめいて元のかたちを取り戻していた。
「ねえ、零號さえ渡してくれればあなたの命に興味はないんだけれど」
口を開いた少女の声は、溶けかけのあめだまのようだった。
「私はその廃棄技術を壊せればいいから」
零號をまとった男は、獣のような叫び声で応じた。
それは否定の言霊が宿っていた。
「……そうね。そう簡単に手放せるはずはないよね」
利き手とは逆、左手に握った鞘へ刃を戻す。
少女の関節駆動は、常人のそれとは異なった。
肘が真逆に、折れるようにして曲がる。
そうして生まれた空間を使って、身丈と同じほどの刃をしまっていく。
零號は赤い水蒸気の尾を引いて突撃する。
それは再演のように。
少女の膝が横へ滑り、刀が鞘走る。
先ほど彼の目が捉えたのと同じく。
刃と拳が噛み合う。
冷気を割るような音が響き渡った。
少女は根が張ったみたく動かない。
男の目に映る少女は、人間と同じ輪郭をしていなかった。
あべこべ。ぐちゃぐちゃ。
その手足がかりそめのものであると、薄れる理性のなかで判ずる。
刀が指の背を駆ける。傷ひとつなく滑っていくさまは氷上のそれと似て違うものだ。
手首のひねりとともに刃が寝て、切っ先が指をかち上げる。
男の腕が浮いた。膂力は義腕によるものか。
空いた脇へ切り返す。
「また……っ」
首と同じく、ぶにぶにとした物質が肉へ刃を届かせない。
ほぞを噛む暇もなく、空いた顔面へ迫るつま先を察知する。
軌道へ左手を差し込むと同時に、下半身のみを蹴り上げる。
衝撃の伝わる刹那、ばねを思わせる動きで男で男の指先から離脱。
宙へ打ち上がる。間に挟まれた鞘の砕ける音がした。
欠片を惜しそうに握りしめ、少女は空中で体制を立て直す。
男が膝溜めを作った。零號が赤い水蒸気を吐き出す。
それを見咎め、少女は嘆息した。
「それしか、ないのよね」
迫る零號。
爬虫類に似た男の暴力は嵐のよう。獣のほうがよっぽど理性的だ。
推進力を以て放たれる拳。少女の反応は少し遅い。
けれど、腕が少女の反応した瞬間に応えるように動き出し、刀を振るう。
傷ひとつつかない堅牢な鱗、と言うにはのっぺりとした鎧にかち合う。
刀とは斬るものであり、叩き割る機能は持ち合わせていない。
だから、ただそこに在り、それを支点に少女は空中での移動を可能とする。
拳から逃げ、さらに上空へ。
男の頭を超え、重力に絡めとられる。
尻尾の払い落しが少女へ迫る。
刀をかち合わせる。
そのまま肩と手首の関節を一回転ぶん駆動させ、宙返りのように元の状態へ戻った。
尻尾が振り下ろされがら空きとなった男の背。
そこには零號が水蒸気を吐き出す口があった。
ど真ん中。
心臓のある場所に。
少女は切っ先を突き立てた。
呆気ないほど静やかに。
肉の感触が手のなかに返ってきた。
摂理に従いふたりは墜落する。
男は地面を割って。
少女は羽の軽やかさで。
接地する。
零號は枯れたように砕け散った。
寄生先の血液が尽きればこちらも事尽きる。
そういう生体兵器なのだと少女は知っていた。
深々と突き刺さった刀をひねって抜く。
うつ伏せに果てる寸前の男の体を足先でひっくり返す。
男のかすむ目に月の放つ光はまぶしすぎた。
鮮明に映ったのは返り血を存分に浴びた黒い幼子だった。
「ねえ、零號はどうやって手に入れたの?」
少女の問いかけに、返せる答えはなかった。
「それは昔、私が壊したはずなのに」
「……」
ただ、それを聞いて、かつての失意が呼び起こされた。
勝手に取り付けられ、勝手に奪われた第六の感覚。
取り戻しに来て、だれかに壊されたのだと知った。
その時に味わった痛みは、手足をもがれるのと等価であった。
戻る場所もなく、さまよっていたところへ湧くように零號はあった。
何も知らない。
けれど、一緒に添えられていた言葉を思い出す。
「惜しむ必要なない。すべては平等に価値を持つ」
言葉になっていたかはわからない。
すでにほとんどの感覚は彼岸へ旅立っている。
自らを俯瞰する感覚すら遠のく最中、やけに芯の通った声が聞こえた。
「私は霧切有栖。あなたを殺したのは、霧切有栖よ」
その言葉の意味を咀嚼する時間なく、男の命は尽きた。