その6 名前
バレンタイン過ぎましたが一月ですね?
斧を蹴飛ばし、首にぴたりと添えた手はそのままに真っ直ぐに立ち上がる。逆に、彼女は座らせる。これでまあまあ安全だと思う。こちらがマウントポジションだから。
さて、どうしようかと考え始める。正直、進退窮まれるのだ。例えるなら、友達の友達として遊んだ仲の相手と再開して二人っきりの時のような感じだ。お互いに、どうすれば良いのかがわからない。微妙な空気なのだ。
そんな中、黒髪の彼女が口を開いた。
「······なぁ、自己紹介、しないか?」
刃物突き付けあっている間柄の会話ではないけれど、気まずさに耐えかねていた私はそれをのんだ。
「あたしは······実は、なんか地下で目が覚めて、そんでそのまま出てきたんだけど······その、名前、わかんないのよ。自分の、さ。あ、名字は分かるんだ。お父さんやお母さんの名前は分かる。でも自分の名前が分からなくって。」
名前がわからない?親の名前まで分かっているのに?
「記憶喪失なの?」
「多分、な。虫に食われたみたいにわかんないの。あ、名字は鳴島だぜ。よろしく。」
ずいぶんとフランクだな、と思ったが良く見ると顔がひきつっている。口元がプルプルと。つまり、彼女はこの状況で軽口が叩けるって事なのか?スゴいな。ただ、やや隠しきれてないけれど。
もしかして私に気遣ってくれてるのかな?
「よろしくね。私は──────」
あれ?
なんだっけ?
思い出せない?
なんで?
お父さんは警察官で、お母さんは元システムエンジニア。今はパートタイマーだったりしている。去年からはテレフォンオペレーターをしていた。
私は?
海丸高校二年
3組所属
出席番号は1番
そう、暁。暁だ。名字は暁。
「もしかして······?」
怪訝そうに覗き込む鳴島。その瞳に反射する私は、肩で息をして、だらだらと汗をかいていた。我に帰る。胸が痛い程に鼓動する。生唾を飲み込んで、ぺたりとその場にへたれこんだ。
「そうみたい······です、ね?」
まだ目がふるふると泳いでいるが、視線をあわせて返事する。深呼吸だ。落ち着け、落ち着け。
「名字は、暁。夜明けのあれ。だけど、名前が、名前が。鳴島、怖い。」
小さなうさぎのように震える腕で鳴島に抱きつく。すうっと人間の匂いが肺を満たして、気分がやや落ち着いてくる。鳴島が抱き返してくれて、鼓動の高鳴りが収まってくる。安心、とはここまで暖かいものだったのか。