四、ひとくらい
――8S:Ll/日6l甘8――
「なん……で……?」
いつ。
どこで。
こんな写真を撮られた覚えはない。
覚えはないが、誰がこんなことを仕掛けたのかは分かっている。桐子にはその確信があった。彼女は小刻みに震える手で自分の写真を掴み、力任せに引っ張って破り捨てた。
「あのババア……クソが……今に見てなさいよ……絶対にぶん殴ってやる……」
気味の悪さも極まると、頭は逆に冷静さを取り戻していくようだった。桐子はどこかに表情を置き忘れてしまったような顔で立ち上がり、その部屋の出口に向かって歩き出す。鴨居の上の小壁にまで張り付けられた新聞記事に「出来すぎだ」と吐き捨ててくぐり抜け、台所の窓に剣呑な視線を向ける。
外から見た時は塞がっていなかったはずの窓だが、二度目の相異点とあって桐子は冷静だった。黒く塗りつぶされた窓にはそれ以上関心を向けず、右手側に続く廊下を足早に歩いて行ってノブの軽い戸を開けた。
外は共用廊下になっていた。向かいに同じ形の戸が建て付けられおり、右に下階へ続く階段、左には幅一間の窓があった。どうせここも黒で塗り潰されているのだろうと思ったが、よくよく見てみるとそうではなかった。
「……」
とても現実とは思えない。何もない真っ暗な背景に白い線で風景を描いたような、落書きのような見知らぬ町並みが広がっている。これもまた窓に張り付けられた絵かと思い引っかいたが、桐子の爪はガラス面を掻いて不快な音を立てただけだった。
どう見たって絵だ。
落書きだ。
だというのにその風景には不思議と奥行きがあり、風の流れを受けて白い主線がぬるぬると揺らめいていた。
「外……そとに出たいのよ、私……」
桐子が今度こそ窓を割ってやろうと靴を頭上高く振り上げた時、背後で床の軋む音がした。
階段を上ってくる足音。それに続いて、引きずる何かが踏み板の角に当たって拍を刻んでいる。
次第に床板の下から頭が出てきて、足音が段差を上りきり、輪郭だけが視認できる暗闇の中でソレが桐子を振り返ったかと思うと、
「おじョぉ、さン……?」
「ひぅ――ッ!?」
桐子が瞬きをした間にあの老婆が顔の垂れた皮を揺らしながら笑い迫ってきた。
「おまえサンの、あし。あしあアアあしを、くれナイかぇ……」
「――っるっさい! 黙れババア!!」
訳の分からないことを言う老婆に、桐子は生理的嫌悪から涙を浮かべてパンプスの踵を振り下ろした。しかし靴は老婆が持っていた鉈に弾き飛ばされ、桐子はとっさに手を離したものの手の平に怪我を負った。
手からじわじわと這い上ってくる痛みとともに、遠くに行っていたはずの恐怖が急に舞い戻ってくる。
桐子は顔を青くして後退り、鉈を引きずって近づいてくる老婆から一歩でも遠く離れようと壁伝いに蟹歩きをした。桐子が一歩退けば老婆が一歩近づき、一進一退を繰り返していると、出てきたのと向かいの部屋のノブに手がぶつかった。
桐子は一か八か、戸を開けると同時に身を翻らせてその陰に隠れた。それから戸板を全開に押し開けて老婆を殴りつけ、相手が怯んだ隙に部屋に入り込んで錠を差す。
老婆はしゃがれた声でがなり立て、ノブを執拗に回したり体当たりをしてきたりした。古く薄い扉は今にも壊れそうだった。しばらくすると先ほどより重いものがぶち当たる音が響き始め、鉈で打ち壊そうとしていることが分かった。
桐子は錯乱気味になりながら、至る所に放り出されている泥のような何かが入ったゴミ袋をどけて、台所から和室へ逃げて行った。
そこに見えた――光。
向かいの窓に外の景色が見えたのだ。
溶けた飴のような夕日がビル群の向こうに落ちようとしている。
その窓を割ればあの暑さの中に戻れる気がした。桐子は今まで浮かべたことのないような笑顔を見せて、後先考えずに走り出した。
だが残念なことに、彼女は気づいていなかった。
部屋の真ん中が腐り落ちていて、桐子は待ち望んだ希望を前にあっけなく下階へと落ちたのであった。
もうもうと立ち上る埃の中で、桐子は足から腰にかけての痛みにのたうち回る。視界が涙でかすむ。もうこのままどうにかなってしまった方が楽なのかもしれない。絶望に負けそうになる彼女の耳に、老婆の暢気な声が聞こえてくる。
「あアア、あーし。あしをし、しししあし。あのこコここに、あーし」
壊れた蓄音機に歪んだレコード盤を置いたような、耳障りで気持ちの悪い声。あんなものに負けてしまうのかと思うと悔しくてたまらなかった。桐子はなけなしの勇気を振り絞って立ち上がり、痛む腰を押さえ足を引きずりながら衣類や家具が散らかり放題の部屋を脱出し、廊下に出た。
すぐ右横には共用玄関があった。桐子は期待せずその戸を蹴りつけるが、案の定壊れる様子はなかった。ねじ巻きの鍵も外れないし、これまで同様に揺すってもガタつく気配もない。
そうこうしている間に老婆は階段を下りてきていた。
桐子はあたりを見回して、まさか出てきた部屋に戻るわけにもいかず、最後の部屋の戸を開けて鍵をかけた。老婆が扉の向こうで鉈を振り上げ、戸板を壊し始める。耳元で雷が鳴っているような轟音にせき立てられ、桐子はいよいよ奥の台所に追いつめられた。
包帯まみれのこの部屋は、和室に続く襖がぴったりと閉じられていた。だがそれがどうしたというのか。気にする余裕もない桐子は、何か武器になる物はないかと流し台の扉を開け、中に刺さっていた錆びた包丁を手に取った。
その時、ついに部屋の戸が壊れ、老婆が侵入して来た。
「ああ、あああ……、あい、あ、ああいにきて、くくくくれたのかね……。ィヒヒッ! う、うれうれううしイね!」
包丁を両手で持って腕を突き出し威嚇する桐子を後目に、老婆は閉ざされていた和室の襖を開けてニンマリと口角をつり上げた。
その部屋はこれまでの三室と違い、合わせ目を十字にした不吉な畳が敷かれていた。その中央、いっそう包帯にまみれた布団の中に、青白い顔をした娘が落ちくぼんだ瞼を閉じて横たわっていた。
焼けただれた顔の上に所々浮き上がって被せられている髪の毛。
ちらと見えた首筋の縫合跡。
布団の膨らみは顔の大きさや肩幅の割に小さく、どうやら膝から下が無いように見えた。
「おオオまえさ、のおアシ、ずいぶんずいぶんキきれいだねェ。だ、から――」
吐き気を催す悪寒が背筋を駆け上り……、
「うちの子におくれよ」
目の前の光景に釘付けになっていた桐子は、いつの間にか老婆が隣に来ていたことに気づかなかった。耳元の囁きを聞いて彼女が反射的に飛び退いたのと、老婆が鉈を振り下ろしたのとはほぼ同時だった。
桐子はギリギリのところで老婆の凶器を躱し、すぐ脇の床に倒れ込んだ。板を破って床に突き刺さった鉈を抜こうと上半身を上下させる老婆から尻を擦って距離を取る。
老婆は離れていった桐子を逃すまいと容易く得物を手放して彼女に襲いかかり、首を絞め殺そうと馬乗りになった。
しわだらけの手が近づいてくるのを桐子は瞬きひとつせずに見つめていた。その動作があまりにもゆっくりとしていたので、彼女は老婆の横っ面を殴りつけるようにして、まだ手に持っていた包丁を刺すことができた。顎と頬の骨の間に刃先が入り込み、喉の奥に刃先が達する。
老婆はわめき散らすでもなく、ぐっと声を詰まらせて桐子から離れた。桐子は顔から抜けた包丁を今一度大きく振りかぶり、老婆の目玉めがけて一直線に振り下ろす。
それを何度も。
至る所に、
顔の判別ができなくなるほど滅多矢鱈に切りつけ、
抉り、
欠けた刃が頬をかすめて後方に飛んでいったところで、彼女は我に返ったように包丁を手放した。
「ハハ……アハハ……」
彼女は老婆から離れると、床に突き刺さったままになっていた鉈を取り上げ、その重さに体を斜めにしながら部屋の出口へ向かった。
共用玄関の前まで来て、力任せに振り上げた刃を鈍器代わりにしてガラスを叩き割ろうとする。
――しかし、
「何でよ!? 何で割れないのよ!! どうして! どうして……どうして、何でなのよッ!!」
壊れた警笛のように甲高い奇声を上げながら、彼女はでたらめに鉈を振り回す。玄関を壊せないと分かると、それ以外の場所を破壊して回った。
窓を、戸を、壁を、柱を切りつけ、けれどそのどこにも傷など付かず、次第に重くなっていく腕に呼吸を荒くする。
手の平の切り傷から流れ出た血で鉈の柄は真っ赤に染まっていた。
やがて疲れ果て、共用玄関の前まで戻って来た彼女は強かに頭をガラス戸に打ち付けたかと思うと、突如血走った目を見開いて傷だらけの爪で自分の首を掻き毟り始めた。
喉笛に食い込んだ爪が肉の間から顔を見せるたび、彼女が追い求めた夕日のような赤が、燃えさかる炎のように辺り一面に飛び散った。
果てた彼女は自らの血溜まりに沈んだ。赤い水面に横たわる無惨な死体は苦悶の表情を浮かべながらも、その瞳を怨念に染め、ひび割れた能面がケタケタと笑う様を睨みつけていた。
――L0:8l/日E甘ヤ
翌、八月二十日。
空き家であるはずのアパートから物音がするという通報があったため、駆けつけた警察官が不審者の存在を疑い鍵を壊して中に入った。
建物の中は至る所に切りつけられた痕跡があり、今にも崩れる危機的状況であった。取り急ぎ業者を手配して解体を試みるが、アパートは足場を組む作業さえ待たずに倒壊。
その後、瓦礫の撤収を行っていたところ、ちょうど賃貸一階真ん中の和室から不自然に接合された遺体が見つかった。
それは頭部、頭髪、頸部、胸部、上腕、前腕、腹部、上腿、下腿がそれぞれ別人のものであると分かり、連続殺人としてにわかに世間を騒がせた。
なお、体を構成していたのは次の九名である。
『トウドウ・リタ』
『サトダ・レ』
『首藤えゐ』
『新川トメ』
『曽山弥生子』
『新津静香』
『東海林里恵』
『原田由利』
『東桐子』
被害者について、継ぎ接ぎされた以外の部位は見つかっていない。また発見された和室が家の中心部であったことから、後にその部屋を人体の胃に見立てて他の部位は溶け消えてしまったという噂が出回った。
余談ではあるが、この地域では過去に多くの犠牲者を出す大火があった。
継ぎ接ぎの遺体が発見されたアパートの大家はその火事で唯一の肉親であった孫娘を失っていた。孫を目に入れても痛くないほど可愛がっていたという大家は突然の喪失に耐えきれず、徐々に精神を病んでいったそうだ。
その孫娘の遺体というのが、崩れ落ちた建物の下敷きになり、焼けて禿げ上がった頭部しか見つからなかったのだという……。