三、燃える町
?8月6l日/1?:6 ――
玄関を入って左後ろにトイレのドア、右手側に脱衣場と、そこから続くガラス戸の先には風呂場。脱衣場の奥隣には二階へ上る階段があった。
この狭い廊下には窓がなく、また外から見て知っていたことであるが、一階の窓には所々で板が打ち付けられており、これらトイレや脱衣場、風呂場の窓から脱出することはできそうにない。
「二階に上がる用事はない。となると……」
桐子は金切り声を上げる床を歩いて行き、脇の階段を無視して最奥の引き戸をからからと開けた。
暗闇に慣れた目で室内を見渡すと、何もない空間の壁際にぽつんと流し台が置かれているのが見えた。ここはリビング兼ダイニングであったらしい。
桐子は紅葉柄の磨りガラスの窓を見つけ、そちらに駆けて行く。しかし窓の向こうは真っ暗で、残念なことに外から板が打ち付けられているようだった。
「んな簡単にあきらめてたまるもんですか」
とは言え桐子はここで観念するわけにいかなかった。サッシ中央にねじ込み式の鍵を見つけたので、それを回して窓を開けようとするが、ねじはまるで金槌で打ち込んだように堅く締められており、桐子の細い指では開けることができなかった。
仕方なく、彼女は靴を脱ぎヒールを鈍器代わりにして窓に振り下ろす。素手で叩くよりはよほど威力があると考えて取った手段であったが、それでも窓は割れなかった。それどころか、どれだけ殴りつけてもガラスが振動することさえなかった。
嵌め殺しというわけでもないのに、その様子は何とも異様だった。
そういえば、外の音も聞こえない。
元から人気のない場所とはいえ、遠くに車が通り過ぎる音が聞こえてもいいはずだった。
だのに何も……蝉の声も聞こえない。
風のそよぐ音さえも。
桐子はハンカチの下でくぐもった声を漏らした。彼女は外から見たアパートの光景を脳裏に思い出して、板で塞がれていない窓を必死に探す。白く曇った窓ガラスから部屋の中が見えたのは隣の貸し部屋の二階部分と一階南側の部屋、そしてここの上階だ。
「二階……」
靴を履き直した桐子は不意に視線を上げ、妙に低い天井を見た。不規則に虫が食ったような穴があいている。丸穴だったり、這ったような溝が掘られていたり、今まさにその中に虫が潜んでいて、鼻の頭にでも落ちてきそうな気配だった。不快感と怖気が混じった得も言われぬ感覚が腕をなで上げ、首筋の後ろに息を吹きかける。
桐子は急いでリビングを出て、すぐ横にある階段を上って二階へ向かった。
高い段差と狭い踏み板でほぼ梯子のようになっているそこを、スカートの裾がびりっと音を立てるのも構わず大股で駆け上り、上りきるとすぐ目の前に現れた壁に勢い余ってぶつかってしまった。思い切り潰した鼻を押さえつつ一歩後ろに下がろうとして、そうすると一階に真っ逆様なことに思い至り、何とか半歩で踏みとどまった。
それでもヒールが段差の下に落ちてしまい、桐子はとっさに腕を開いて両側の壁――ではなく、襖に手を突っ張り、どうにか落下をくい止めた。
リビングからほんの数秒、十段ちょっとの階段を上がっただけなのに、フルマラソンでもしてきたかのような息切れが襲いかかってくる。暑さのせいではない汗が頬を伝い落ち、首筋を通って襟に染みを作った。
「ハァ……ハァ……。何なのよ……!?」
呼吸を落ち着かせながら、桐子は不安定な体勢まま足下を見下ろす。二階の踊り場が半間の半分という中途半端な奥行きで作られていた。ひとまず、踏み外しかけた足を板の上に戻し、突っ張った腕で体を前方に押して重心を踊り場の上に戻す。鼻の奥から流れ落ちてくる血はハンカチを押し当てて口に垂れるのを防いだ。
階段を挟んで左右に一枚ずつ立ててある襖は、踊り場が半半間であるのに対して通常通り半間の幅で作られており、階段の段差に二段ほどさしかかる形で建て付けられていた。先ほど桐子が手を突いたせいで中途半端に開いてしまった隙間から、墨汁で塗り潰したような闇がのぞいている。
通りに面しているのは右側の部屋だったはずだ。桐子がそちらに目を向けると、襖の隙間から細く伸びる赤い光が見えた。彼女は迷うことなくそちらの部屋を開け、向かいの窓に飛びつく。
だが、その窓もまた外から板が打たれているのだった。
「なんっ――何でよ!? この窓は塞がってなかったはずなのに!!」
板と板の間から見える景色は赤焼けの空と、まるで燃えているかのような宅地。下に目をやると、通りの真ん中にはあの老婆が立っていて、こちらをじっ……と見つめていた。
桐子は奥歯を噛みしめて唸った。
「あんのババアっ!」
彼女は板の隙間から老婆を睨み、怒りにまかせてガラスを叩いた。サッシを掴んで外そうともしたが上手くいかず、リビングでしたのと同じように靴で殴りつけ、仕舞いにはそれでも傷ひとつ付かない窓に足蹴りを入れて、ほとんど半狂乱になってかじり付いていた。
燃える家々を横長に切り取る線の上――老婆はさも楽しそうに体を上下させて右へ行ったり左へ来たりし始めた。桐子が板の向こうに居ると知っているらしく、ふとした瞬間に電池が切れた玩具のように立ち止まり、赤く染まった歯を見せ、顔中のしわを真ん中に寄せてニタニタと笑う。
それを憎らしく見ていると、ひび割れた能面のような老婆の顔が狭い視界一杯に迫ってくる錯覚に襲われ、桐子は気味の悪い光景に顔をしかめて窓から一歩、二歩と離れた。そうして背後の壁にぶち当たると、ドン――と壁の向こうで何かが階段を転がり落ちていった。
「ヒッ!?」
アパート全体を揺らすような重い何か……もしかすると人間が駆け下りていったとか、そういった脈絡のない不安が桐子の頭をかすめて、冷静であろうとする彼女の理性を攫っていく。
心臓が耳の外で太鼓を打ち鳴らしている。
目は独りでに海の中にこぎ出して泳ぎ始め、座り込んだ床が次第に傾いていく。
頭だけが空中に浮いている奇妙な感覚だった。
船室に吊した電球が左右に振れるようにして、板の隙間から入り込む朱の光が浮遊する。
再び鼻の奥から伝ってきた血が顎まで伝って膝の上に落ちた。伝線したストッキングの編み目にモザイク状に広がっていく染みを定まらない視点で見つめ、ぐにゃぐにゃと捻れる視界の中ではまるで潰れた蜘蛛のようにも見えた。
桐子の膝の上で、赤い内臓をまき散らし、その腹から無数の小さな赤い子蜘蛛が這い出て――、
「いやぁぁぁーーーーー!!!!!」
桐子はこれまでしっかり肩に掛けていた鞄もハンカチも放り出し、千切りに刻まれた赤い景色の中で能面が笑う六畳間を飛び出て、階段を挟んで向かいにある別の和室へと逃げ込んだ。
その部屋の窓は内側から新聞紙を張り付けて塞がれていた。桐子は爪のマニキュアが剥がれようとも構わず紙を引っかいて破り、その向こうに夕焼けに染まるビル群が見つかることを期待し口元に笑みを浮かべて窓を抱いた。
そこにあったのは黒だった。
外から板を打ち付けられているのではなく、窓全体を黒いペンキで塗り潰してしまったような黒だった。
「嘘でしょ……? ……やめてよ……やめてよもう!!」
桐子は諦めきれずに何度か窓に爪を立て、ギィギィと不快な音を響かせながら抵抗を続けた。しかし傷だらけになっていくのは彼女の爪ばかりで、ガラスには浅い溝の一本も付きはしない。
おかしい。
どうかしている。
それが自分の頭なのかこのアパートなのかは分からない。
桐子はまとめた髪をグシャグシャにかき乱しながら部屋の中央まで後退し、畳に足を引っかけて尻餅をついた。水中に居るような静寂の中で、彼女の浅くて早い呼吸だけが間抜けに反響していた。
しばらく放心していると、隣の部屋から何か音が聞こえた気がした。桐子は恐る恐るそちらに目を向けた。
壁に穴が開いている。
その先にあるのは賃貸部分の一室だ。
桐子は藁にもすがる思いでそちらへ這っていき、匍匐でようやく通れる穴を抜けて、四つん這いのまま顔を上げた。
壁を、窓を、ところによっては天井を覆う文字が桐子をじっと見つめていた。
薄暗い室内でも分かるほど黄変した紙に、かすれて消えかかりながらも未練がましく張り付いた文字。
不審火、あるいは煙草の不始末。
百■〇名死亡。
炎、火傷、移植、延命。
大火を写した写真――その炎の中で踊り狂う人影。ケロイド状に溶けた顔。平穏無事な笑顔の目に開いた穴。
首に引かれた横一文字の切り取り線。
桐子はぼんやりと霞がかかったような思考で、ただ周囲の景色を見渡すことしかできなかった。そんな彼女の目に、これまでどの部屋にもなかった家具が留まった。
桐子は何かここを脱出するための手がかりがないかとその座机の引き出しを開けた。中には筆や鉛筆、フィルムケースなどがごちゃごちゃに敷き詰められていた。その奥に、人体の各部位を写したポラロイド写真があるのを見つけた。
写真には走り書きが添えられていた。
頭髪『 59 8月 サト■゛レ』
頸部『 97 年 13日 首 えゐ』
胸部『19 8年 8 日 ■川■メ』
上腕『 91 月 1 曽 』
前腕『 999年 9 9日 津静■』
腹部『20 年 7月 恵』
上腿『 1 年 31日 田 利』
文字は所々でかすれていて読めない箇所があった。
だが、
下腿『 8年 月19日 ■■子』
膝頭に二つ並んだ黒子がある写真。
それは確かに桐子の脚を写したものだった。