二、割れの面
8月19日/17:58
それから数ヶ月が経ち、初めのうちは意識的に避けていた例の廃アパートを、なぜ避けていたのかその理由を忘れてしまった桐子は、ある日また通い始めようと思い立った。
日本の夏らしい湿った暑さに辟易しつつ、桐子は開襟シャツの胸元を摘んで前後に揺らし、服の中に風を送り込みながら帰り道を歩いていた。
太陽はまだ夕日と言うには高い位置にあり、進行方向左のビル群の上で橙色に輝いている。蝉は耳の中にいるのではないかと思うほどの音量で羽を鳴らし、一方で外を歩く人の気配はまるでなかった。それもそうだろう……こんな高温多湿の不快な環境を好んで歩く人間がどこにいようか。
桐子は蝉の声の合間に自分のパンプスがアスファルトを叩く音を聞きつつ、「ひんやり涼しい」という売り文句に騙された夏用のストッキングを早く脱ぎたいなどと考えていた。
しかし今日は久しぶりに遠回りをすると決めていた。帰宅して着替えてから改めて外に出るなんて、そんな気力は出そうになかったから、帰りがけにあのアパートを眺めるだけでもして行こうというわけだった。
赤いトタンの外壁が見えてきて、桐子の心はにわかに踊った。
ただの廃れたアパートだというのに、どうしてこんなにも引きつけられるのか。彼女は興奮のあまり吹き出した汗を拭い、共用玄関の前で立ち止まった。
「 -46」の番地プレート、木のサッシ、石目模様の磨り硝子。コンクリートの間から生える雑草が鬱蒼としていて、かなり長い期間ここを避けていたのだと分かった。そして視線は上へ移り、向かって右上の貸し部屋の窓に留まる。
というのも、そこからわずかに室内の天井の様子を垣間見ることができたのだ。
「あんなの見えたことあったかしら?」
光の反射の加減でたまたま見えるようになったのかもしれない、鴨居の上にある小壁は薄汚れ……否、大きめの紙が張り付けられているようだった。何が書いてあるのか、あるいは映っているのか、細かいところまでは分からない。
天井板にも同じ様な紙が張り付けられているように見えるが……当時のアイドルの写真とか何かだったりするのかもしれないと桐子は考え、いやしかし、通りに面しているのは台所だったはずだ。
そんなところの小壁にいったい何を貼ろうというのか?
首を傾げていると、背後に堅い足音が聞こえた。
桐子以外に誰もいないはずの小路で、闖入者が彼女の肩を叩く。
「お前さん――」
「ひぎゃーーーーーーッッ!!!??」
「やっかましい! 近所迷惑な声を上げるんじゃないよ!」
「ヒッ……、人!?」
「失礼な娘だね! あたしが人間以外にもんに見えるってのかい?」
桐子に声をかけたのは、この近辺では見かけたことのない杖突きの老婆だった。顔中に深いしわを刻んで、重力に従って皮膚という皮膚が垂れ下がっているようなその人は、酷く訝しい顔つきで桐子を見上げた。
「一体ここで何をしてるんだい?」
「えっと……それは、その……」
桐子は思わず口ごもった。これが若い相手なら彼女の廃墟趣味にも多少は理解があるかもしれないが、斯様に年老いた人物となると理解を得るのは難しいだろう。
「どうやらこのアパートを見てたようだね?」
「アー、っと。ええ」
「お前さんアレかい。最近流行の廃墟趣味の手合いかい」
「いや流行かどうかは分かりませんけど、そのようなものです」
「物好きだねぇ。こんなボロアパート見てて楽しいなんて」
老婆は値踏みするような視線で桐子を頭の先から足の先までしげしげと眺め、「お嬢さん、スラッとした綺麗な脚してるねェ」。一転して人好きのする笑みを浮かべて桐子の目を見つめた。
「え? そうですか……?」
「そうだよ。いやいや、いい脚だ」
「ま、まぁ……人並みに気は使ってますから……」
「時間があるようなら中を見てみるかい?」
「え?」
「中を、見て、みるかい?」
「……もしかしてお婆さん、ここの大家さんなんですか?」
「そんなもんさ」
黄ばんだ歯を見せて老婆は笑い、ポケットから古めかしい鍵を取り出して見せた。その表情を胡散臭いと感じながらも、桐子は胸が高鳴るのを感じていた。
だが安易に頷くわけにはいかない。老婆の言葉が本当である保証はどこにもないのだ。
話も突飛で、脚が綺麗だとか変なことを言ったかと思えば、今度はこのアパートの大家だと言うし、ひょっとすると認知症か何かで徘徊している最中なのかもしれない。
そうだとすれば今は適当に話を合わせておいて、後で交番に連れて行った方がいいだろう。
「それで、どうするんだい」
しかし。
しかしである。
本当に親切で見学を提案してくれているのかもしれない。桐子は何だかんだと勘ぐりつつも、長いこと焦がれてきたこの廃アパートの内面に迫るチャンスを逃すことはできないのだった。
無人と分かっている危険の少ない廃墟物件を家主の案内で見て回る機会などそうそうない。何よりここで首を左右に振ったら、これまで思いを馳せてきた時間が全て無駄になってしまう気がした。
「――ぜひ見せていただきたいです」
「ふむ。掃除したのは随分昔だから埃っぽいと思うが、ハンカチか何かで口を覆えば何とか凌げるだろ。お前さん、ハンカチぐらい持ってるだろうね?」
「もちろんです」
「よろしい」
老婆は桐子の答えに満足そうに何度も頷き、鍵を持って開き戸の方へ歩いて行った。てっきり共用玄関の方を開けてもらえると思っていたのだが、この際贅沢は言っていられない。桐子はヒヨコか何かのように老婆の後について行った。
「ところでこのアパートっていつ頃から空き家なんです?」
「さてね。戦後すぐに建って、一度火事で焼けた後にまた建て直したんだったかね……」
老婆は開き戸の鍵を開けてノブを捻り、ドアを引き開けた。本当に大家だったのかと驚く桐子の目の前で薄暗い玄関に光が差し込み、かつて家主を迎えたその有様を縦長のキャンバスに浮かび上がらせていく。
「こう言うのは失礼かもしれないんですけど、取り壊したりってしないんですか?」
「考えてはいるんだよ。でもまぁ、そう簡単には行かないのさ」
「手続きに手間取ってるんですか? 管理者と地権者が違うとか、資産税の関係ですかね?」
「ああ。それもあるね。あるんだが……」
桐子は老婆に促されるまま狭い玄関の中に入った。そして思い出したように鞄の中からハンカチを取り出し、視界の端で自分の足下に差す外の光が細まっていくことに疑問を覚え、後ろを振り返ろうとし……、
「――人を食っちまうんだよ。この家は」
「え?」
閉まる玄関戸の外側、わずかに見えた老婆の赤目が弧を描いていた。
「ちょ――ッ!?」
桐子が押し開くよりも先にドアは閉まり、無慈悲に外から鍵がかけられてしまう。
「ちょっと! 冗談やめてよ!? シャレになんないんだけど!!」
カビ臭い部屋の空気を肺一杯に吸い込んで怒声を上げる。何度もベニヤの板を叩き体当たりもしてみたが、びくともしない。こんな古い扉だから、蝶番にしろノブのラッチにしろすぐに壊れると思っていたのに、案外頑丈だ。
口をハンカチで覆うのも忘れて肩で息をし始めた桐子は悔し紛れにドアを堅いヒールで蹴りつけた。
「クッソあのババア! っざけんな……!!」
桐子が履いているパンプスはピンヒールというわけではないが、それなりに細いものだ。それで力一杯蹴っても、ドアには穴もあかなければ傷も付いていない。それを不気味に思いながらも、どうにかしてここから脱出する方法を考えねばと、彼女は背後の闇に顔を向けた。
目を暗闇に慣らす時間を使って動揺を落ち着ける。
「クソババアは後でとっちめるとして、今はとにかく……どっか窓でも割って外に出なきゃ」
再び口元をハンカチで覆い、ショルダーバッグを肩にかけ直して、桐子は玄関の三和土から土足のまま室内に上がった。