一、予感
4月3日/18:07
東桐子は、今となっては決して珍しくもないが、一風変わった趣味を持っていた。また彼女には勤め先からの帰り道を好んで遠回りする習慣もあり、それというのが趣味を楽しむために必要な行動であった。
彼女は進行方向の左手遠く、ビル群の向こうに沈む夕日の赤を頬に受けながらいつもの帰路を歩いていた。最近になって空き地が目立つようになった住宅地に入り込み、近隣の住民しか歩かないような小路を進んでいく。ひっそりと町が死んでいくような哀愁を肌で感じながら、まばらに建つ家屋の影が彼女を暗がりの中に五度ほど覆い隠したあたりまで来る。すると、まだぎりぎり顔を出している夕日を背にひっそりと佇む廃アパートがあった。
いたるところに錆が浮いて穴が空き、所々で土台となるベニヤ板から剥がれてしまっている赤いトタンの外壁。水回りの管は外観の美しさなど知ったことではないと言いたげに壁を走り回っており、凍結対策に巻かれた包帯のような白いテープが剥げて垂れ下がっていた。窓を縁取る木製のサッシは風雨に晒され続け、カビが生えて黒ずみ、触ると濡れてもいないのに滑りそうな腐り方をしていた。
そこにはめ込まれたガラスは汚れて白く曇っていて、室内の景色を波打つ水面のように歪めている。所によっては木の板を打ち付けられ目隠しをされていることもあり、そういったところはガラスが割れてしまっているのかもしれなかった。
中でも小さな窓の下には浄化槽が埋設されていた跡があった──ということは、その小窓はトイレのそれなのだろう。であれば隣にあるやや大きめ窓の向こうには手洗い場があるはずだ。そのさらに隣、一間幅の大きな窓は台所のものに違いない。下向きに屋根を突き出した換気扇、水道管の配置や太さもそれを裏付けている。どうやら風呂場はないようだった。
桐子は一階から二階部分に視線を移し、窓の大きさや配置などから上階も同じ間取りであると確信していた。
「この昭和感……たまらないわね。いい朽ち具合~」
ここまで言及すれば彼女の趣味についてだいたいの予想はつくだろうが、一応言っておくと、それとは廃墟の鑑賞および間取りの妄想である。
廃墟が好きな桐子はこうして自宅に帰る傍ら、お気に入りの物件を眺めて日々の疲れを癒しているのだった。しかしながら、その中に入ってみたいと思ったことはなく、山や森の中に分け入って廃墟を探そうという気もなかった。
彼女の廃墟趣味はこの廃アパートの外観を見上げるか、写真家の作品集をめくっているだけで十分に満たされる……その程度の軽いものだった。
桐子は夕日が沈むまでの十数分間をたっぷりと使ってアパートの前を行ったり来たりし、年々時代が移り変わっていく街並みの中で置いてけぼりを食った昭和の名残を飽きることなく見つめた。
このアパートの入り口は二つある。一つは青地に白文字で「9-44」と書かれた番地プレートがかかっている開き戸だ。位置は建物と向かい合って右の端にあり、扉は郵便受けと一体になっているもので、張り付けた化粧ベニヤが端からめくれてきていた。
もう一つは「 -46」と書かれたプレートのかかる引き違い戸の玄関で、建物の中央からやや左に寄ったところにある。
おそらくであるが、前者の開き戸の方には大家が住んでいたのだろう。同じ配置で窓が並ぶ引き戸側と違って通りに面して風呂場があるようだし、間取りもこの部屋だけ別であるらしかった。引き戸の方は入居者用の共用玄関というわけだ。
桐子はひとしきり外観を堪能した後、最後の最後に共用玄関の前に戻ってきて一歩後ろに下がり、建物全体を見上げた。風化して表面がざらざらになった屋根瓦の向こうに見える空は濃紺に染まりつつある。
今日の疲れを癒すに十分な時間を過ごした。もうこのくらいにしてそろそろ自宅に帰ろうとしたその時である。
夕暮れの静寂に慣れきった耳を突き刺すようにしてガラスに何かがぶつかる音が響いた。それは空を見上げ、まだ足をアパートに向けたままの桐子の正面、つまり共用玄関の方から聞こえた。
桐子は顔を上に向けたままゴクリと唾を飲み込み、目を動かして視線だけを玄関戸に向けた。まるでスローモーションのようにして景色が下へ下へと移っていく。
青いプレートに白い文字の「 -46」。かすれた番地を通り過ぎると視線は急速に落下し、一直線に足下のコンクリートまで落ちていった。
どうして焦ったのかは分からない。
引き戸のガラスの内側に飛び散った朱色の何かが見えた気がした。
地面に敷いた鴨居のレールを伝って同じ色の液体がつうっと流れ出してきて、暗くなった桐子の視界の中で街灯の明かりをテカテカと反射している。
それはいかにも新鮮な……。
「――ッ!?」
驚いて飛び退いた桐子が目を擦って見直すと、血液のように見えたそれはただの雨だれの跡で、彼女は午後から一時雨が降っていたことを思い出した。
「やだ、もう……驚かせないでよ」
廃墟特有のおどろおどろしい雰囲気に飲み込まれ見間違えただけと分かっていても、どこか気味が悪い。
桐子は肩を両腕で抱いて震え上がると、それ以上アパートを見ることなく自宅へと逃げ帰った。