印章 2
トゥアナとカペルの二人は、そろって扉をしばらく抑えていた。
わめき声と騒ぎと、扉をどんどん叩く音はしばらく続き、扉の向こうにロトの鋭い制止の声をかすかに聞こえる。
次第に騒ぎが収まり、静けさが戻った頃にカペルがそっと横を見ると、トゥアナは顔を真っ赤に染めて、必死でまだ扉を押している。
揺れる柔らかそうな髪が額から白い頬に乱れかかっていた。
カペルの視線に気が付いて、不安げに見上げてくるその顔に、ありったけの優しさを念にして込め、笑顔を作る。
(好きだ!大好きだ!)
トゥアナはじっとまたあの広間でしたのと同じ、真面目な顔でこちらを穴が開くほど見返した。
桜色の唇が動く。
「もう、平気みたいだわ」
「静かになったな」
扉を離れて二人は食卓に向かう。
貴族の使う長い形状の食卓は、主人と客は対座に遠く離れて座るものだが、トゥアナは隣り合わせに座るよう合図をしてカペルは喜んで応じた。
最初の出会いから半日たらず、カペルが放った好きだビームは、トゥアナの透明な茶色がかった黒いひとみに跳ね返された。
逆に自分で自分に自己暗示をかけてしまっているようにいっそう彼女が好きになってしまっていることに気が付いた。
(やべえまじで可愛い。これフラれたらしばらく立ち直れなさそうだ)
激しい動悸を強いて押さえつける。
(OKしてもらえても、女は何考えてるかわかんないからな~)
食卓の上を見ると、食べかけの骨は放り出され、飲みかけのワインは机の上にもひっくり返っていて、おそろしく汚れている。
さっき食べたのはと言えば一人しかいない。
(あの野郎!)
どれだけ野蛮人じみて見えるかと気になるが、言い訳めいた事を言うのも嫌で、カペルはなんとなく肘で付いて、特別に汚れた皿は見えないように押しやった。
トゥアナがきれいな皿を取って渡してくれた。
不安げなカペルをよそに、すましている。
カペルはパンを手に取ってバターを切りながらたずねた。
「この騒ぎは、どういうことなんだ?」
「隠されたのよ」
トゥアナは簡単に答える。
「文箱はとても大きいの。小さなソファくらいよ。大人二、三人でなければ動かせないわ。わたくしの塔のどこかにはあるでしょう」
そして唇の端だけ上げて笑って見せた。
「でもね!ほら、このとおり」
胸もとに手を差し込む。
「え、ちょ、待っ」
動揺したカペルはパンもナイフも落として思わず顔を覆ってしまう。
がしゃんと派手な音がした。
「じゃーん」
まさか胸を開くのかと、指の間からちらっと覗くと、娘はカペルに握り締めた左手を差し出した。
「あなたに、お預けします」
「これは?」
「父の印章よ」
それは貴重な赤い翡翠造りの大きな印章だった。
着衣には何の乱れもない。一体どこから魔法のようにこれを出したのか理解に苦しむ。
「今までは私の文箱の中に入れて鍵をかけておいたのだけれど、開けられないなら箱ごと持ち出そうって魂胆なの。こんなこともあると思って、ここ数日はずっと持っていたの。肌身離さずに」
「はだみ」
「そうよ、さあ」
彼女はうながすように手を揺らし、カペルは受け取った。
ずっしりと重い。
そして、用心深く盗み見た彼女の指に、結婚指輪はなかった。
「大切なものだ。この印章を私が手にする…まだ時期ではないのかも」
印章の回収が重要性の高い任務のひとつとわかっていながらも、暖かい左手が重かった。
彼女の心臓を受け取っているような気がして、予想外の重さに、ひと一人の重さに気おくれしていた。
「あなたが今はここの首長だ」
城の明け渡しは彼女の名のもとに行われた。
広間でも皆の視線がそう言っていた。
街の長老たちも、彼女の名においてと言われると不承不承ながらも混乱なく従った。
「まだ北地区の制圧も控えている。何が起きるかもわからないのだから」
すると娘は居住まいを正してきっぱりと言った。
「私があなたにお預けするのです。従属の意志を示す貢ぎ物ではありません」
細い指がカペルの手を握った。
ぎゅっと強く、奥にある震えと温もりが直接に伝わってきた。
「これのありかを知られたくないの。お渡ししたことはしばらく誰にもおっしゃらないで。お仲間の方がたにも」
あたたかい。柔らかい。細い。なめらかすぎる。
正直、めまいがしそうに恍惚となっているカペルに、トゥアナは真剣に言う。
「わたしはあなたを信じていますわ。だってあなたは…」
娘は何か言いかけたが、唇をつぐんで顔をそむけている。
「分かりました」
カペルははじめて自分からトゥアナの手に手を置いた。
「ロトにもサウォークにも、誰にも言わない。たとえ太子にであってもだ。武人の名誉にかけて誓う(庶民だけど)」
二人は真正面から見つめ合い、カペルはトゥアナが頬を染め、涙を溜めてうっすら微笑むのを間近で見た。
今ならいける。
か、肩を…肩を、抱き寄せて!
「さて、お手紙を書きましょう」
ごくわずかな迷いをついて、トゥアナはさっぱりと切り替えた様子で体を離して手もするっと抜いた。
「ご一緒に、ね?」
ひどくがっかりしたカペルは気を削がれて仏頂面になりかかっている。
そんな彼に小首を傾げてにっこり笑う、無邪気さの中に女としての媚が見えなくもない。
本能的なものなのか、それとも多少なりとも好意を持っていてもらえているのか、さっぱり判断できないまま、カペルはトゥアナについて隣り合わせにある公の書斎へと向かった。