あのとき何があったのか 3
追いかけられているパラルは、思うように足が動かなかった。
あかあかと燃える長く大きな火かき棒 をひきずりながらウヌワがゆっくりと階段を上がってくる。石と鉄とが擦りあって立てる、ゴリゴリゴリゴリ、という音が地底から湧き上がってパラルの手足に絡んで重くしていた。
ちらっと振り返った地下の大広間の真ん中では、ギアズとグアズは仲良く折り重なっている。死んでいるようにしか見えなかった。
夢か水の中を歩いているように、思うように足が動かない。
歯が震えてカタカタ鳴っているのがよそ事のように聞こえた。夜の闇の中から骸骨と幽霊が追いかけてくる。死のにおいだ。
どうしてここんな場所に用心棒のアギーレを連れてこなかったんだ!
彼を置いてきたのは、グアズと話し、密談をするのに邪魔だった、それにこのおばさんが嫌な顔をするからだ。甘かった!
城のあちこちから上がっている火の手が、窓から見えてきた。
騒然とした騒ぎが起きているのが聞こえた。すべて、どこか別世界の出来事のようだった。自分には降りかからないと思っていたこと、他人事であり、自分が引き起こすことはあっても、遭遇することはないと思っていたことだ。
石階段の途中で盛大にすっ転んだパラルは、せっかく上った分を半分ほども転がりおちてしまった。パラルのいつも一糸も乱れたことがないように見える黒髪は乱れ、美しい顔は歪んで赤い唇からは半分、泡を吹いていた。
あのばか、カペル、いったいどこにいるんだ、助けろよ!こんなぼくを。にいさんだって?お前ばっかり日の目を浴びて、お前ばっかり愛される。やったことは同じなのに。この世の中は不公平じゃないってか。別にそれはそれでいいよ。ただ不公平なりに、俺がいい目を見るように動く。それだけだ、と思ってた、それだけ……。
震える手でパラルはふところから巻物をつかみだし、すぐ間近に近づいているウヌワによく見えるように広げてみせた。
「これを!僕は、これを、僕が、持ってるって、言ってるだろ!」
ソミュールの書簡には、ラベル地区とソミュール地区、それにモントルー地区の全てを合わせた継承権を赤ん坊のにアドラへ与えるようにラベル公が命じたと書いていた 。 ニマウから奪ってこれを見つけたとき、たったひとつ惜しむらくは正式な印章の押印がなかった。パラルはそこで、陰影を使って密かに作らせた、彼曰く『予備』のニセ印章を使って、しっかりと赤く判を押しておいた。これでこの書類は正式なものとなった。
アドラの正当性は証明される。
パラルにとっての、最大の切り札だった。
無表情のまま間際まで近づいたウヌワは、その書簡をつくづくと眺めた。
そしてパラルの手から奪い取り、くしゃくしゃに丸めると手にした火かき棒で殴りつけた。
なんでーーー!!!??
口を開けたパラルの前で、真っ赤に燃える棒の下、書簡はめらめらと燃えていく。
ばかなのこいつ?ばか!?それとも……。
ウヌワはその焼け焦げをぐしゃぐしゃに踏みつぶし、階段の下に蹴り飛ばした。
くるってる?
ものも言えないほどショックを受けてすっかり力が抜けてしまったパラルの脇の下に、突然力強い手が差し込まれ、持ち上げられた。
パラルは少し離れた安全な場所に立たされていた。
「大丈夫か?」
「ベ……べ……ベルガ、さん!」
「カペルはもうすぐ戻ると知らせがあった。トゥアナも一緒だ。わたしはこの城を、トゥアナのために守らねばならない」
◇
ラベル公が倒れた部屋のすみのカーテンが動いて、鍵をかけられた部屋の中の物陰から、ブルブル震えながら小男が現れた。
「公爵様……公爵様……」
ギアスだった。
もう死相を隠せない主の体の上に、涙ながらに身を投げ、肩を震わせている忠実な家老に、公爵は小さな箱を渡した。
「文箱の鍵だ。これは外側のもの。あれは二重底になっている。中の鍵は既にトゥアナに渡してある」
「公爵様!こんなことになるなんて!伯爵さまのおっしゃることを聞いても良かったのでは? モントルーはろくな奴らではありませんにゃ……」
「早く行け!……こうなったからには……今後はあの子の判断にすべて、委ねる」
外からは喧騒の声が響いていた。
涙ながらに走って一目散に逃げていく家老の後ろ姿を見ながら、薄まる意識の中でエグル・ラベルはひそかにつぶやいていた。
ギアズ、セレステは私の子ではない。
昔なじみだった都の踊り子がどこかの貴族に捨てられて困っていたので不憫に思い、子供を引き取ってやった。
ソミュールはそれを知らんのだ。
だが、不憫でもある。
血はつながっていなくとも、やはりわたしの娘、ここまで育てたのだ。傷つけたくはない。できれば事実を公表などしたくない。
ただの父親として、できれば娘たちをみな、全てから自由にしてやりたかった。
守って、やりたかった……。
◇
「ギアズの知らせを聞いたとき、これからどうしたらいいのか、何が最善の策なのか、私にはさっぱりわかりませんでした。ソミュールが太子さまと組んでモントルーを攻撃するのを防げるのか、ベルガの命を守れるのか、この地区の民たちのために何をすればいいのか、全然わからなかった」
カペルはじっとトゥアナの手を握ったまま、聞いていた。
セレステの出生証明書か。
「あの文箱の中には、そんなものもがあったんだな」
「セレステに対して、夫が誠実であったかどうかわかりません。彼は最初はアドラを養子にしようと言ってきました。わたしが離婚を申し出たんですの。セレステと一緒にしてあげたかったのです。けれどソミュールに、この国をまとめて牛耳りたい下心がなかったとは言えません。あのひとは、打算的で冷たい所がありましたわ」
公表すればセレステを傷つけることになる。かといって捨てられない。
「アドラを盾に取る者たちが利用しようとも限らないから、証明書は残しておかざるを得なかったのです」
トゥアナの目が輝いて、カペルの目をとらえ、細い指が腕に触れた。
「そしてあなたは勝った!お父さまの仇を討ったのはあなたなんですの。それでも、まだどうしたらいいかはわからなかった。だからわたし、あなたが来るのをずっと待っていましたの」
◇
「ウヌワ殿、落ち着いてくれ」
さすがのベルガも、真っ赤に燃える火かき棒を持ち、腰には鍵を下げた白髪の姫君の前では、どうしていいかわからない様子だった。
威厳を保とうとしても腰が引けている。
若干、激情のあまり目が潤んできてしまっているが、泣き出すことはかろうじて抑えている。
彼の前にアウナが飛び出して腕を広げた。
ゆっくりとウヌワは口を開いた。
相変わらず奇妙なほど楽しそうだった。その顔は手に持っている真っ赤に燃える火かき棒や、窓から入ってくる焔の照り返しを映して上気していた。
「アウナ、あんたは本当に手がかかる子だった。ああ言えばこう、こう言えばこう言う。いつも反抗的で、わがままで!トゥアナはともかく、たかがお前なんかにこの城で大きな顔をされる筋合いはない」
まだ魂が口から抜けた状態のパラルの腕に、そっと触れた者がいて、ふりむいたパラルは目をむいて凝視した。
やっと到着したカペルがそこにいた。
足の力が抜けるほどの安堵とともに、つかみかかりたかったほどの怒りがわいてきたが、ウヌワの声の氷のような響きにだまって震えているしかなかった。
「すべて何もかも燃やしてやる!早くそうしていればよかったのよ。めそめそ野郎なんていらない」
いつものベルガならかっとなるはず、と周囲の皆が顔色を伺ったが、予想に反して彼の顔色は冷静だった。
「私の子供たちが私を必要としなくなったなら、もうこの場所なんて必要ないよね」
「ウヌワ!ここにいる者たちはあなたに養われてきた。妹たちはみな、あなたに育てられたのです。必要としなくなるなんてことには決してなりませんわ」
トゥアナが階段の上の灯りの中から進み出て、皆が一歩下がって頭を下げた。
「いったい誰がこの城で食事の用意をし、ベッドを整え、掃除をし、着替えを用意してると思いますか?みなあなたに命を負っているのです」
「わたし、知ってるのよ。お姉さまが全部燃えてしまえばいいと思っていたこと」
トゥアナははっと口をとじた。
「おとうさまが亡くなっても涙一つ流さなかったあなた。綺麗な顔して優しさを振りかざして、まわりを甘やかしてばかりきたあなた。鏡を見てごらん?ソミュールにもしなかった目付きで媚を売り、しなを作ってよそ者に笑顔を見せているんだ。厭らしい。あの立派で堂々としたお父様が生きていたら、こんな事は決してなかった!わたしは今、この国に起きていることが本当に恥ずかしい」
死人の静けさが支配する。
これまでこの城の誰一人、トゥアナを公言して非難する者はいなかった。
カペルとしても、彼女への侮辱に対してはいつでも体を張って戦うつもりはあったが、この姉妹の女同士の争いには容易に入れない空気があった。
ロトですら黙るしかない。
「よそ者をこの城に引き入れ、泣き虫のくせに野心家のベルガを呼び寄せて、お姉さまはすべて、すべてを奪って私の誇り、私の愛、わたしの尊厳も矜持も踏みにじるんだ」
静かで低くよく通る声は凛としていた。その姿は岩のように固く、人を従わせる力がある。
ウヌワはずっと、享楽的な父によって城の財政が破綻しないように注意してきた。
全ての人に栄養がいきわたるように食事の指図をして、家じゅうの家具を管理して夜遅くまで衣服をつくろい、掃除の指揮をしてきた。子供たちのおむつを替えて、勉強をするように、秩序が維持されるように厳しい目を行き渡らせてきた。
ウヌワが我慢ならなかったのは、トゥアナが何かひとこと言うだけですべてがひっくり返ることだ。みなで決めたことも、予定調和も、みな覆される。みなの努力や根回しを、あっという間に壊してしまう。
あなたは壊す人、わたしはつくろう人。
そうやってきた。
「あんな事を言わせておくのは、ベルガ、あなたの統制が甘いからです」
ロトがささやき、ベルガは重い口を開いた。
「あなたが求めているのは何だ?」
「このまま何も変わらずにいること」
それは、親父のラベル公のような人間がこの城の表を仕切り、自分が裏をすべて仕切ることを示しているんだろうな、とカペルはひそかに考える。
「普通に結婚して夫に従い、普通に満足して、普通に暮らすことよ」
結婚、従属、養育、この自然な喜びを、大地に根付くどっしりとした太古の営みを、安定して供給すること。
その次にあるべき者は、このわたしが育て上げる、彼女はそう思っていたはずだ。
「じゃあなんで燃やしちゃうんだよー!」
パラルが憤激のあまり、束の間正気を取り戻して半分涙ながらになじった。
「この人!この人、小公子の権利をとりかわす書類を、燃やして、蹴っ……」
そこで自分がまずいことを言ったと気づいたパラルは、不自然に沈黙してぺたんと輿を下ろしてしまった。
窓から、すごい音をたてて、西の尖塔が焔の中に崩れていくのが見えた。