あのとき何があったのか 2
「もう時間がないのだ、正規軍はすぐそこまで来ている。いい加減に決めるべきです」
それは一年ほど前、カペルが率いる正規軍と、ウラの森を背にして対峙していたあの日のことだ。その日ももう、夜は更けていた。いらいらしているのを隠さないエグル・ラベル公爵の前で、輪をかけていらいらしているソミュール伯は、神経質な白い顔を歪めて義父にむかって声を上げた。
「エグル、あなたの主張には一貫性がなさすぎる。あれもだめ、これもだめでは先に進めないのだ、もう少し感情を抑えてもらいたいですな」
トゥアナたちの父、エグル・ラベル公爵はソミュール伯に顔を近づけ、思いっきりしかめっ面に嫌な顔をしてみせた。
「前から思っていたけど、お前、本っ当~~に!いやな奴だな!」
重厚な軍服にいくつも勲章をつけ、年にしては整った顔立ちだが、子供のまま大きくなっているような性格なのがよくわかる。本人としては、思いっきり舌も出してみせたい所だ。
ソミュール伯は見事なまでに完全無視した。
こちらはこちらで、宮廷人を絵に描いたような尊大なタイプだった。憂鬱そうな顔あ、いかにも我慢してやっているのだという、口で言うかわりに態度で示す。激情家の公爵と冷静な伯爵は、これでも平和な時にはうまくいっているのだが、今は不協和音が吹き荒れていた。
「この膠着状態は打破せねばならない。とにかくここは一旦、対話の場を設けるべきです。太子の話にだって一理はある」
ラベル公はどうにも納得がいかない状態で、部屋の中をいらいらと歩き回った。
「君はそれでいいのか?」
くるりと振り返り、指をさして詰問する。
「トゥアナと離婚してあのド腐れ糞野郎 (太子のことだった)にあの子が弄ばれるのを黙認するのか?それでも夫か!?」
「夫だからこそ言っています。これまで守ってきたでしょう。あなたとの約束は守った、義務は果たしてきた」
「誰か産めよ!」
ラベル公が大声を出したので、ソミュール伯は沈黙した。またか、と言いたげな渋面を作っている。
「なぜ誰も、私に息子をもたらしてくれないんだ!誰も、誰一人!!」
「そんなことを言われてもね」
「みんなが影口をたたいてるのぐらい知っている。だがな、私は別にそれほど女好きってわけじゃない。強いて言えば普通だ!最後の方ははっきりいって、もう意地だ。がんばった。私は頑張ったんだ。搾り取られてもう一滴も出ない」
うんざりした顔でソミュール伯は遮った。
「そこまで正直になられるのも、ご息女がたには不幸だと思われますな。彼女らに何の罪もないのですから」
つかみかからんばかりに公爵はソミュール伯に詰め寄った。伯のいかにもうんざりした顔を見るに、これが何度も何度も繰り返し聞かされてきた問答なのだろうということが知れる。
「お前だ。お前が頼りなのに。トゥアナに息子が出来さえすれば、お前を正式に後継に指名できる!」
「一体何がいけないのです?セレステとて、あなたの娘でしょう。なぜだめなのです?トゥアナは離婚に同意してくれました。何も問題はない。あなたひとりがわめきたてているだけなのに、どうしてわからないのだ?」
怒髪天をつく勢いで、エグル・ラベル公は椅子から飛び上がった。
「トゥアナであることが、重要なのだ!」
くるっと振り返ると、ソミュールのなま白い顔の喉の下に指を突き立てた。
「いいだろう、トゥアナと離婚するがいい。セレステと子供はどこにでも連れて行け!お前のなまっ白い顔と同じなまっ白い城に住まわせて、二度とこっちに顔を見せるな。トゥアナの再婚相手はベルガだ!公爵の地位はあいつに譲る。わかったな。山の民は反抗的でいけ好かないが、お前よりはめそめそ野郎 (これはベルガのことだ)の方がまだ、ましだっ!!」
そこで不思議な出来事が起きた。
ソミュール伯の喉笛を掴んでいた手が緩み、ラベル公の体がゆっくりと沈んで行く。
倒れた公爵の体の下から、黒とも赤ともつかない液体の広がりが現れ、静かににじみ出て床を汚していった。
ソミュール伯はゆっくりと手のひらをハンカチで拭いた。そのまま血だらけの布を暖炉に投げ入れると椅子に優雅に腰掛け、倒れた義父を組んだ足の下に見下ろした。
「ラベル公、わたしは感情が抑えられない人は嫌いだ」
彼は子供に言い聞かせるように、淡々と話をはじめる。
「いいですか。最後にもう一度道理を説きます。一つ、まずはそこに来ている太子の代理とやらと話し合いをして、その平民に好きな娘とやらを嫁がせる。二つ、トゥアナは離婚をして都暮らしをさせ、太子の好きなようにさせればいい」
ラベル公の体がぴくっと動き、呻きが起きた。冷静に鼻に押し付ける。
「私ならその交渉が出来る。みなのためなのだ。トゥアナも拒まないだろう。あれだけあなたに散々、喚かれた結果、せっかく出来た男児です。子供は正式に認知するし後継指名もする」
「貴様……」
「後継指名の書類はここにある。あとはあなたの印章を捺せばいいだけです」
「ばかめ、印章はここにはない。トゥアナに……あれに、託してきた」
ソミュール伯は意外そうな顔をして、はじめて笑った。
「そうですか。では問題ない。トゥアナは捺してくれることでしょう。妹思いのいい姉ですからな。養子も拒み、離婚とセレステとの結婚を言い出したのは他ならぬトゥアナ自身だ。案外、都が恋しいのかもしれませんよ。さて、私は停戦についての連絡をせねばならない。あなたの『覚悟の自決』をもって、すべては先に進むことでしょう」
立ち上がると、伯は血まみれのラベル公の体をまたいで服装を整え、落ち着いて埃を払った。
「子供を後継指名さえしてくれれば、すべての問題は解決したのに。なぜそれがわからないのだろう?」
束の間、苦々し気な顔になった伯は、どうやら目の前の舅の命が尽きるのを慎重を期して待っているようだった。
「最後に、これが最も大切なことだ。三つ、山の民を、都の軍と一緒に掃討する。徹底的にだ!」
伯の目が燃えた。
「ベルガには死んでもらう。首を刎ね、都に送らねばなるまい。金山も手に入れ、私はソミュール地方もモントルーも統べる、新ラベル公として君臨できるだろう」
「見損なったわ、感情のない人形め!」
「人に必要なのは理性だ。感情ではない」
倒れた公爵のかすむ目に、娘のトゥアナの姿が映った。
お父さまが決められたのだし、別にいいですわ。でも、あの方はいざという時に味方にはならないのじゃないかしら。自分の世界を持っていらして、その中に誰も入れないのです。
あのめそめそ野郎よりは頼りになると思っていた。結局、あの子が言っていたのが正しかったのだ。ベルガ、あいつがあんなに子供で単細胞な奴でさえなければ……。
凶行が行われたのは、公の就寝用に徴収された一軒家の最も奥の部屋でのことだった。
鍵をかけたのち、裏手からそっと抜け出して停戦と使者の準備に取り掛かろうとしたソミュール伯は、部隊全体にあふれるさっきまでとは打って変わった慌ただしい気配に眉を寄せた。
「何事だ?」
「夜襲です、もう第一陣は出発の構えです。ご命令を!」
なぜだ、停戦するというのに!
呆気にとられた伯の顔色を見て、将校は言い捨てて言った。
「公じきじきのご命令です」
公は、わたしに言わずに先に急襲命令を出していたのか。止められるとわかっていたからだ。一度走り出したら止まらないこの騒ぎの中で、いかにラベル公の『覚悟の自決』と停戦を伝えるべきか、さすがの冷静な伯も一瞬、迷った。
素早く頭を巡らせて口を開こうとしたソミュール伯は、ふと目の前の指揮官たちが自分の背後に視線を向けているのを感じて振り返る。
そして蒼白になった。
そこには、さっき倒れていたはずのラベル公が幽鬼のように立っていた。
腹の傷を悟らせない為か、幅広のコートをしっかりと纏っていた。
手は腹をしっかりと押さえているが、微動だにしておらず、驚きのあまりソミュール伯は口がきけない。
念のため、血を失うまであれほど待ったというのにか?立ち上がれなかったのも、言葉が出なかったのもあれは芝居か?わたしが外に出るまで待っていたというのか? なぜ、その精神力を別の方向に向けられないのだ!
ラベル公は腹の底から響く、よくとおる大声で指揮官たちに呼びかけた。
「戦え、戦え!決して停戦するな!」
敵よりも恐ろしいのは腹を据えた時の公爵であるというのはよく知られていることであったので、指揮官たちは次々に命令を下し、騒ぎが起きて第一陣は突撃を始めたようだった。
あっけにとられた伯がもう一度振り向いた時、扉は閉ざされ、中から鍵がかけられていた。
ソミュール伯は歯噛みをした。
こうなればもう、停戦を願って覚悟の自決ということにするはずだったシナリオをは使えない。
伯は、さすがにさっと腹を決めた。自分の歴戦のキャリアに自信もあった。新しもの好きの太子がどこからともなく連れてきた民兵上がりの若い将軍、烏合の衆に違いないと決めつけた。勝ってしまえばどうにでもなる。話を通しやすくなるだろう。これからの交渉をこちら側に有利に運ぶことができる。そう自分に言い聞かせて、嫌そうに顔をしかめながら自分の部隊の方へ走っていった。