グアズの夢 2
いつも忙しく立ち働いているウヌワが、今日は地下にある大きな部屋の椅子に身をゆだねていた。何となく物思いにふけって何かを考えている。地下にこんな空洞があるのかと驚くほどの大きな広間だった。
常に邪見にされ、叱り飛ばされ、小さくなっている夫のギアズは、しばらく用はないかと周囲をうろうろしていたが、相手にされないのでしょんぼり執事室へ戻って行った。
そんな彼女を見かけてパラルがひょいと顔を出したのは、決して偶然ではない。皆が近づかないようにするウヌワだが、パラルに対しては機嫌がよさそうだった。
「ねえぼうや(ウヌワはパラルをそう呼んでいた)、見てごらん、この井戸の大きさと深さを」
ウヌワはその広間の真ん中に鎮座している、巨大な井戸を指さした。
パラルは井戸を覗き込んだが、後ろ暗いことの多い彼とあって、十分に用心して周囲に人がいないのを確かめるのは忘れなかった。ウヌワは椅子のひじ掛けに両手を投げ出し、深く座ってリラックスした様子だった。
「すごいね、これで城のみんなの飲み物を賄ってるんだ」
「ここだけじゃないけど、料理に使える一番いい水が取れるのはここさ」
話しているうちに興が乗ったのか、笑顔でウヌワは奇妙に饒舌になった。
「わかるかい、この井戸──この色はね、この上の天窓の光が真っすぐに入ってくるときにも、藍が消えない。どこまであるかわからないほど深いのよ」
横に置かれた桶からひとしずく、水滴が落ちていくのをパラルは見たが、音も聞こえず、波打つ波紋も深い藍色にかき消されてしまった。
「この城で皆が飲んでいるのは、山奥から滴ってくる 湧き水の一番最初の上澄みを作ったものなんだ。何よりも純粋で、清らかな、お山の真髄から流れ出ている。この城はそこに建てられてるの。なんてよそ者に言ってもわかりゃしないか。そういうものの価値はね」
「よそ者だからわかるってこともあるよ」
パラルは何かをつまんで井戸の中にすりいれる真似をした。
「あなたがこの中にほんのひとつまみの塩を入れたら、その塩分はこの城の全員に行き渡ることになる」
「よく見ているのね坊やは」
ウヌワはほほほ、と笑う。彼女の笑顔なんて、いったい誰が見たことがあるだろうというほど久しぶりの笑い顔だった。
「ここではあなたが要だ。あなたがいなけりゃこの城は成り立たない。だけどみんなあなたの言うことに従うくせに、肝心な時になるとあなたを除け者にする。わあわあ騒いで、戦いがどうの、力がどうの、中央とのコネだの権威だのって言ってるその時間と命のすべてを支えてるのはあなたなのに」
ウヌワは相変わらずばかにしたような顔で、ゆっくり片方の肘をひじ掛けについて頬を支えながら、この美しい少年のような容姿を持つ「よそ者」を鑑賞していた。
「井戸の上澄みは一番上のお姉さんで、底の藍の色はあなただ」
「そうだ、ウヌワさま、あなたが」
「グアズか」
驚くわけでもなく、ウヌワはゆったり座って頬杖をついたまま、黒い小男を見下ろした。
夫のギアズそっくりの背格好だが、臆病そうな顔とは似ても似つかない傲慢そうな顔は緊張と興奮に満ちている。
「ウヌワさま、あなたさえ決心して頂ければ、われらはみんな一丸となってモントルーの奴らを追い出せるでしょう」
◇
「後伝令!カペル将軍はおられるか?」
「こっちだ!」
カペルは怒鳴った。伝令が手渡した手紙を破るようにして開け、
「ロトからの連絡だ。鎮圧するまでもなく、ベルガが間に入って収めたそうだ。文箱の中身はロトが確保してあるよ」
「本当ですの?」
トゥアナが立ち上がって、また椅子に腰を下ろしたのをカペルは見た。気が抜けたような、呆けたような顔をしている。
「ではもう、あのかたたちには伝わっているのですね」
ロトは、中身の詳細についてまでは書いて寄越さなかった。
「あれが、なくなってしまえばよいのか、どうしても守らなければならないのか、私にもわからなかった。でも、良いのですね。これでいいの……」
カペルは彼女の手を握った。
「あの中には、何が入っていたんだ?」
太子の側近の一団が荒々しく馬車を取り巻いた。
「ソミュール伯爵夫人!太子さまからのご命令で、今すぐ都に戻られるようとの仰せです。我々がご同行の上、護衛申し上げる」
中からは何の返事もない。道ゆく人々が何事かと物珍しそうに人だかりを作り始めた。御者は居心地悪そうにしていたが、いつの間にかちょろりと姿を消していなくなっていた。太子の命を受けてきた兵士はいらだった。
「失礼!」
扉を開いたが、すぐに閉じた。
「もぬけの殻だ」
◇
「カペルはもう帰ってくるそうです。今はウラの森あたりだ」
ロトとサウォークは額を集めて相談していた。
セレステが彼らの食事の給仕をしている。
「さすがのあいつも、こうなったらいちゃいちゃしていられねえな」
サウォークのそのセリフに、ロトは太子がよく姫君をそのまま返したものだ、ちらっと不思議に思ったが、それどころではない。
「すべてを把握はしきれない。何より、危害を加えようと思えばいくらでも手段はある」
「例えばどんなだよ?」
セレステは黙っている。いつものようにしなだれかかるようなしぐさも見せず、ちらっと皿を見てまつ毛をふせた。
「毒を盛ればすぐです」
毒か……。
「今はセレステが何となく目を配ってくれており、そばにはアウナがついていますがそれも限度がある」
「側近たちにさせれば?」
「そんなことしたら、毒殺をたくらむ者がいるとあっという間に噂になってしまいます」
ロトは机に手をついた。
いつもと違って勢いがいいな、とサウォークは思う。それに声がでかい。
慎重なロトらしからぬ行動だ。それこそこんな政務室の横の個室なんかで怒鳴ってたら、聞こえちまうんじゃないか。
セレステが静かに立ち上がって扉を閉めたので、廊下に重い音が反響した。
「元を絶たねばダメです」
本棚の方に向かってロトは歩いて行った。
そして、サウォークがびっくりしたことに、その本棚に向けて語りかけた。
「出て来なさい、ギアズ!」
以前、捕まえて回りを囲んで尋問した時のような声ではなく、優しくて落ち着いた声だった。
そんな声を出す時のロトが恐ろしいことをサウォークは知っている。そして思わず立ち上がっていた。
「えっ?ギアズ?グアズじゃなくて?」
「ギアズ、出てきなさい。この棚の背後に隠し扉があることはもう知っています」
「弟じゃなくて?ウヌワの?」
ギアズはウヌワに牛耳られたこの城で、トゥアナ派とみなされていた。妻であるウヌワよりも、トゥアナの意に従い、決して逆らわないだろうと勝手に思っていた。
にゃーにゃー言っているギアズがウヌワの前だとぴょこんと縮こまって委縮してしまう。怒ったような顔の妻に媚びへつらい、しかしトゥアナの前だと従順な従僕に戻るのだ。その使い分けがよくわからなかった。
そこでサウォークは、少しだけ体が冷えるような思いをした。
ウヌワなら、ギアズなら、この夫婦の意思がもい一致したなら、トゥアナもいないこの城で、どんなタイミングで何をするのもおそらくたやすいことだろう。
「あなたが動いているのだということはわかっています」
もうすぐトゥアナは帰る。太子は足止めができなかった。このわずかな時間がおそらく一番危険だとロトはそう考えているのだ。
「貴様!」
サウォークがすごい勢いでギアズの襟をひっ捕まえて空中につるし上げたので、にゃっと言う暇もなかった。
「さてはあの弟だとかいう、にょーにょー野郎と組んで、あれこれ画策してやがるんだな!嫁も仲間か!」
「ギアズ、あなた……」
セレステの顔に、ギアズは声をふりしぼった。
「セレステさまお願い!トゥアナさまには黙ってて!許して頂けませんでしょうかにゃ。モントルーはどうしても我慢できませんのですにゃ~~!!」
急に顔をしかめて、セレステは首をひねった。
「あら?すごく聞いたことがあるわ。この声……」
「弟殿と一緒に話している時にはにゃーにゃー言わないのです、あなたは」
女とはいえ、セレステも背は高い。横に広いサウォークと縦に長いロト、三人に囲まれてギアズは床にへばってしまった。
以前もなんだか似たようなことがあったと思いながら。
◇
「弟は臆病者だ!これはあなたのためにもなるはずなのに、相変わらずトゥアナさまのことばかり気にしている。よそに嫁に行った関係ない姫なのにだ!」
ウヌワは頬杖をついていた手を変えて、目の前に立って懇願し、騒ぎ立てる義理の弟を眺めていた。鷹揚としたその姿は、まるで女王のようだとパラルは思う。
彼女は決して醜くはなかった。
ウヌワはグアズを相手にしていなかった。ほとんど視界にも入れていない。その目は、ずっと井戸を眺めていた。
だめだめ、こんなにきゃんきゃん騒いでるだけの男じゃだめだ。この裏の女王様の心は動かせない。
パラルは横から援護射撃をしようとしたが、何となく思うように口が動かない。
どうしたんだ。僕ともあろう者が。
どんな厄介だと言われる貴族や重鎮を前にしても、態度はともかく心は臆することなどなかった。なのにこの女性ひとりを前に、パラルは動けなくなっている。
力のない者は淘汰される。
それだけだ、単純なことだよね。
でも、ぼくはこれまで、本当に「力」というものを理解していたと言えるのだろうか?なぜ今、亡くなった母のきれいなキツい顔が目の前にちらつくのだろう。