逃亡 2
「しかし、このまま鎮まるとも思えん。カペルには早く帰ってきてもらわなければ」
ベルガはアギーレを露ほども疑っていないようだった。アギーレもにこやかに対応する。
「知らせは出したよ。姫様ともども、すっ飛んで戻ってきてくれるだろ」
「そうか」
「おい……アギーレ」
ベルガとアギーレの背後に、ゆらりと立ち上がった大きな山のような影があった。
「サウォーク?おい、おどかしやがる。ど、どうしたんだよ?」
「お前が男の尻に敷かれる趣味だったとはな、意外だよ」
アギーレは一瞬ムッとしたが、軽口で言い返した。
「お前こそ、女に鼻毛抜かれて家に入り浸りになってたって聞いてたけど、やっと事態に追い付いたんか?」
「ふざけんな!好きでやってると思ってんのか!もう女はこりごりだ!ちっせえのからでっけえのまで、散々振り回されて!まとわりつかれて!」
ここの所、溜めていたストレスからの怒りは相当なものだったので、アギーレもさすがにそれ以上の軽口は差し控えた。
部隊を戻しながら、オノエは無事でいるしパラルは双子の正体に気付いていないという説明を聞いても、まだサウォークは半信半疑でねめつけていた。
「あのガキにまとわりついてんのは、ロトの命令だぁ~!?それにしちゃずいぶん楽しそうだったじゃねえか!」
「あったり前だろ、俺が動くのはいつだって面白そうだから。他に理由なんてない」
「面白さで命をかけるのか?」
「なんで?面白くなかったら生きてる意味ないじゃん。命かけるから面白いんだろ。怖けりゃ真面目に面白くない仕事で働いてるよ!」
そうだよ、こいつは、こういう奴だった!
芝居にしたって気合が入りすぎてら。あのパラルって悪餓鬼と気が合うはずだよ。
とりあえず、用心のために文箱の話やニマウに託した書簡の話はしないことにした。
サウォークが酸っぱい顔をして渋面を作りながら城に戻って来ると、もうすっかり彼らに慣れた城の人々が、おかえりなさいませ、と声をかけにこやかに迎える。
その中に見慣れない若い女性が二人いて、サウォークにてんでにまとわりついてきた。
「おっ?おっおっ?おねえちゃんたち、どうした?」
見たことがない娘たちだ。きつい顔立ちをしているがなかなかの美人だった。
恵まれないおいらにも、ついにモテ期というものが訪れたのだろうか。
すると娘たちは笑い出して、サウォークの背中を痛いほどぶったたき、前髪の下で目くばせをしてみせた。
「おっさん、おっさん!」
「あーーー!おまえら!」
「何でっかい声出しちゃってんの!ばか!」
「どうしたんだよその恰好!」
「あの悪魔が怖いから、変装することになったんだよ」
「これはかつらだよ?どう?」
オノエが髪をわずかに持ち上げてみせたのを、ニマウが慌てておさえる。
女が女に変装してるってのも変な話だと思いながらも、なんだこんな格好してると、もう充分に二人とも適齢期の娘たちじゃねえか!
「おーおー、可愛い可愛い、そろそろお前らもちったあこういう格好してもいい年頃だったわ、そうだよな」
さっきまでのしぶい顔はどこへやら、サウォークは久しぶりの笑顔で笑った。
◇
宮廷での謁見を終えたカペルとトゥアナの二人は、しばらくじっと二人で寄り添ったままで手を握りあわせて座っていた。宮廷のざわめきは遠く、宮廷も野宿する地方の野原も、何一つ変わらない星が輝いていた。
心配ごとは色々あるが、今はこのままでいたい。
「私、やっぱり半分父の子なんですの。母のもとで長いこと暮らして、宮廷風の嘘やごまかし、その場しのぎのやりとりだってもちろん身につけはしましたけど、中身は粗野な田舎娘なのよ。本当のこと思いっきり言いたいの」
侍女のイマナとウルマが、ラベル地区から至急で届いたという手紙を二人に渡しに来た。だが、いつも躍起になって邪魔しようとする気配を見せずに、静かに下がって二人きりにしてくれた。
トゥアナは、目を輝かせてカペルを見上げた。
「今なら言えそうな気がします。わたくしね、わたくし……、驚かないでくださる?」
「いやもう今更だわ」
「わたくし、未亡人じゃないんですの!」
カペルは一瞬、その意味がよく呑み込めなかった。
「わたくし、離婚してますの。ソミュールとは、あの人が死んじゃう前から、他人なんですの!」
ええええええ。
「引かないでくださる?」
「いや別に、未亡人だろうが独身だろうが」
……身も蓋もないけど、相手が生きてないなら別にどっちだってかまやしないけどさあ!
「確かなのか?」
「もちろんですわ。わたくしもサインしたんですもの」
やっぱり実の妹と夫が浮気ってのは、ショックがでかかっただろうな、とカペルは改めて思いやる。
「あの子のことが原因かい。それで怒ったの?」
「怒ったり致しませんわ!」
ぷっとトゥアナは膨らんだ。それから、少し沈んだ顔になる。
「でも、いくら仮面夫婦とは言っても、いい気持ちがしなかったのは確かですわ。セレステ、あの子昔から、なぜか分からないけど男性にどんどん踏み込まれてしまうタイプです」
沈黙が落ちた。
「問題は、男の子だったので、ソミュールがラベル地区と自分の領地のすべてを一つにした後継ぎをアドラにすべきだと言い始めたのが混乱の始まりなのです。ソミュールは父がどれほど男子を望んでいたか知っていましたから」
ウヌワやグアズたちは、その路線を継承しているわけだ。
「ラベル公は拒否したのか?アドラのことを認めるのを」
トゥアナはうなずいた。ぎゅっと手を握りしめ、少し迷うようなしぐさを見せた。
「いっさい聞く耳を持たないという感じでしたわ。でもわたくしは…自分のことはどうでもいい、何でもいい、どっちでも同じだと思いました。どうせまたすぐ、どこかの貴族に嫁げって言われるのだろうなって……」
そしてそれは、その再婚の相手として浮かんでいたのは、ベルガなんじゃないだろうか。そのとき、彼女は漠然とそう予想していたのではないか。父親も、周囲も、みながそう思ったのではないか。
トゥアナは言わなかったが、カペルにはわかった。彼が察知したことを彼女も感じたようで、頬を赤くしていっそうそばにすり寄った。それはさっき彼女が否定した宮廷風のごまかしに見えなくもなかったので、 彼女はいっそう赤くなり、なんだか泣きそうな顔になった。
おそらく一番自然で落ち着くところ、誰もが納得するところだ。誰も文句を言わない形だ。
以前、ベルガを見た時に受けたショックが 思わぬ形で彼女の思い出話から漏れた。
いやだ!
思わぬ激しい拒否がカペルの身を包んだ。
いやだ、誰にも渡したくない。
その時、イマナが、困惑した顔でやってきた。
二人は慌てて少し体を話すと、とってつけたように咳払いをしたり服を整えたりしはじめた。カペルはさっきから放置されていた、緊急だという届いた封書を拾い上げ、開けようとした。
イマナが遠慮がちに声をかける。
「あのう、緊急でお会いしたいというかたがいらしてるのですが」
「緊急多いな」
「まさか、太子さまでは?」
「いえそのう」
パタパタと音を立てて二人の前に現れたのは、太子夫人だった。
◇
ひっそりと静かに立つカデンス家の東屋、翌日、カペルたちが宮廷で謁見しているときに、事情も知らされていない召使の一人が掃除に現れた。
そして彼は、ある部屋のドア向こうから、奇妙な音が出ているのに気が付いた。
誰かが何かに、必死でぶつかっているような音だ。
ぶつかるときにかける、掛け声のような、うなり声のような音も聞こえる。
バリバリバリ
そのうち、ものすごい音がして、書斎のひとつの扉が破れるように壊れ、中から鬼のような顔をして、全身ぼろぼろになったのっぽの男がぬうっと現れた。
髪は乱れ、顔にまでかぶさって、血走った眼、青ざめた顔はまるで幽鬼のようだ。
不運な召使は、腰を抜かして声が出ない。
「一晩中かかったよ!!肩が痛いわ!」
最初に眠りから覚めたとき、太子は頭がぐらぐらしてうまく動くことができないのを感じていた。足もふらふらする。ワインに何か入っていたに違いない。ご丁寧に、ローストチキンに果物、パンとチーズといった軽食まで用意されている。
これ以上薬を体に入れたくはなかったが、喉の乾きに耐えかねて飲まないわけにも食べないわけにもいかなかったので、太子は仕方なく残りのワインをのみ、食事をする。そしてまた、ひっくり返って寝てしまった。
二度目に起きてから、少しは薬の効き目が切れているのを感じると、太子は頭を左右に振って、ゆっくりと本棚から本を出しはじめた。
せっせと本をおろし、ドアから少しだけ離れた場所に配置して、またせっせと本を積み直した。そして渾身の力を込めてぶつかり、本棚を倒して勢いと重みで扉を破ったのだった。
全く、女ってのは恐ろしい動物だ!
別に、妻だって離婚しようってわけじゃないんだから、愛人の一人や二人、目をつぶってくれればいいのに…。
廊下に散乱した本を踏み越えながら、太子は呪った。
しかし、この脱出方法は我ながら良いアイデアだった。こんなの、逃亡生活以来だなと考え、太子はちょっと楽しくなる。
最近こういうことなかったからなあ。
◇
「太子夫人……どうなすったの?」
こんな所に太子さまなんておられませんよ!と言おうとして、トゥアナはそういえば太子さまのこと、すっかり忘れていたけどどうなさったのかしら、と考えた。
真剣な目をして、太子夫人は体を揺らしてトゥアナにかがみこみ、ささやきかけた。
「あなた、狙われてますわよ、今すぐ出発なさった方が身のためよ」
「はあ?はい……」
「そしてもう二度と!二度と都に戻って来ないで頂きたいの。そのためなら何だっていたします」
夫人は、カデンス家の東屋に太子を閉じ込めてきたことを手短に話した。
太子がトゥアナによからぬ意図を抱いて狙っていたことを、あからさまに言ったわけではなかったが、トゥアナは青くなった。
あの時、確かに東屋で、誰か妙な話し声が聞こえているような気はしたけれど、自分の考えに没頭して気にもとめていなかった。
そして何も考えずに、普通に裏口から出て言って侍女たちと合流し、馬車に乗り込んだのだった。
「こんなこと、はじめてじゃないのよ」
太子夫人は真っ白な衣装でぺたんと座り込み、顔をふっくらした手に埋めたので、その姿は奇妙に膨張した大きな花のように見えた。
「今までもどれだけ、あの手この手を使ってあなたに近付かないように努力してきたことか!」
では、わたくしは知らないうちにこのかたに救われていたのだわ!
「実はね、わたくしもさすがに夫にここまであからさまに逆らったのは初めてなの」
「夫」という所に、特別に力をこめて夫人は主張する。
「でも、カデンスの家であなたが泣きわめ……泣いているのを見て、全然ウチのひとの独りよがりで一人芝居なんだなって、それはよくわかりました」
「え、ええ……」
「だから、きっぱりと最後まで拒否して逃げ切って!あの人をあきらめさせて欲しいのです」
「わ、わかりましたわ。夫人、感謝いたしますわ」
トゥアナはお辞儀しようとしたが、途中で止められ、引っ張られた。
「そんなのいいから!都で一番早い馬を準備させました。早く乗って!行先ももうラベル城と言ってあります」
ぎゅうぎゅう押されながら立ち上がると、どこか城の遠くから、騒ぎやわめき声が聞こえてきた。困惑した貴族たちがひそひそ話をしているのも見える。
「ほら急いで!追っ手を寄越したのよきっと!さあ早く、田舎に帰って!」
夫人は絶叫した。
「もう二度と、わたくしと夫の間に、現れないでー!」