転換期 3
「オノエが帰ってこない」
「ちょっとだけ待ってくれ」
がちゃがちゃと文箱のかぎと格闘しながら、サウォークは呪った。やっとこのでかくて重たくて、誰も彼もが狙ってる厄介箱から介抱される。中身を全部出し終わったら、箱本体は火をつけて燃やしちまいたい!
「オノエのことは責任を感じるわ。おれも探す」
ニマウが背後からサウォークを覗き込む。太い指が思ったより繊細な手付きで細い鍵を扱い、複雑な中蓋をこじ開けるのを見守った。
「ねえ、このうちぶたの中身。本当は燃えちゃった方がいいの?世に出た方がいいの?」
「おりゃあ思うんだがな、正直が一番なんだよ。下手に隠そうとしたりすると、ろくなことにならねえものなんだ」
せめて中身だけ持ち出すことができたなら!ぐっと運びやすくなりこれ以上怪しまれはしないだろう。
「あっ……開いたぁあぁーーー!!!」
夢中になって書類の束をかき回し、一つ一つをチェックしはじめたサウォークは、外が妙に騒がしくなっていることや、鍛冶屋の娘の怒鳴り声が聞こえていることなど、さっぱり気がついていなかった。
ニマウは必死になってサウォークの分厚い肩の上に登り、背後から中身を覗き込んだが、読みにくい装飾文字に、専門的用語ばかりが出てくるので、さっぱり分からなかった。
それでも、いくつかはわかった。ソミュール……セレステ……、何これ?偽物じゃなくて?
傍らの大きな男の顔を思わず見上げると、眉に皺を寄せて難しい顔をしている。
「こいつはなあ、おれの手には余るわ」
「何、何、他には何が書いてあんの?」
「ロトんとこにもっていく。出していいのか、出さない方がいいのかもわかんねえ。ロトなら判断がつく」
激しくドアが叩かれ、ばたんと開いて鍛冶屋の娘が入ってきた。
「おい!お前ら!何度呼んでも返事もしないから、死んだのかと思ったぞ」
鍛冶屋の娘は、手に斧を握りしめている。確かに見張りは頼んだがそこまでせんでも。かえって怪しい。そう思ったサウォークだったが、デリアが血相を変えているのと、遅まきながらやっと外の喧騒に気がついてあわてて立ち上がった。
デリアは厳しい顔で窓の外を見ながら言う。
「 街の様子がおかしい。 大変なことになっている。うちにも火事場泥棒のような奴が何人か来たが追い返した」
「こいつはヤバいな」
多少の小競り合いで、やめろやめろ、何やってんだ、散れ!という段階を既に過ぎている。
あちこちでもみ合いが起き、石がばらばらと降って、あちこちの窓が割れる音がした。
「おっさん、何とかしなよ!」
「ばかやろう、おれだって命は惜しいわ」
ていうか指令レベルの者は簡単に死んじゃならねえんだ。ちくしょう。ロトは何やってんだ?アギーレは最近、あの若造にべったりだった。
この騒ぎはどこからどこまで広がっている?下手に出れば狙い撃ちにされるし、どっちの味方で誰がどこについていて誰を狙っているのかもわからない。
カペルと姫様がいなくなったとたんにこれかよ!
屋根の上に登って素早く観察していたニマウが、声を低めて叫んで寄越した。
「囲まれた!」
通りの北側からはモントルー派の一党、南側からはラベル派の一党が現れて、石を投げつつ悪口を言いながら、不気味な徒党を作っている。
何もかもがあの 最初から最後まで厄介な箱に吸い寄せられてるんだ、とサウォークは思った。
偶然なのかそうでないのかもわからないが、すべての事象が、この箱をめがけて渦のように収束している。
「正直こいつさえなければもうなんとか治るんじゃないかって気さえしてきた」
ニマウが悲痛な顔で叫んだ。
「オノエ、どこにいるの?無事なの?お願い、早く戻ってきて!」
◇
カペルは宮廷にいた。
トゥアナ本人からメモをもらい、準備があるのでそのままソミュール邸へゆく、宮廷で落ち合いましょうという連絡を受けていた。だが、まだ来ない。
少し落ち着かない。
なぜなら、太子もどこを探してみても見当たらないからだった。
背後から声をかけられて、カペルは振り向いた。
「ロージン卿」
「ご立派な凱旋ですな。陛下は眼をさまされて、ことのほか驚かれましたぞ」
よく見知っている顔だった。太子のそばにいつもくっついている。にこにこと近づいてきたこの侯爵こそ、アウナの夫として指名されている高位貴族だ。彼のことをカペルは決して悪く思ってはいない。確かに老獪で食えないのだが冗談がうまく、腹の底でどう思っているかは分からないが、決して身分で差別をするような素振りは見せなかった。
例えば、いつも侮蔑的な態度を取る皇太后などは、貴族の中ではかなり低い身分の出身だ。本当に、お育ちのいい者は、人に差をつける態度というもの自体がお行儀が悪いのだということをよく知っている。
「兄がお世話になっていると聞きました」
「あの美しい兄上はなかなかのもんです」
カペルは丁寧にお辞儀をした。ロージン卿はささやく。
「太子さまは来られないという連絡を受けました。ベルガ公は認められるでしょう。よほどの、横やりがない限りは」
屋敷にまで行ったが、太子は留守でいないとのことだった。こっそりラベル地方に行ってやしないかと思ったが、都を出た形跡もない。考えてみればトゥアナのいないラベル地方に太子は用なんてないのだ。
避けられているのか?腹を立てている?そういうわけでもなさそうだ。
歩くたびにばいんばいんと音がしそうな恰幅の良い太子夫人が応対したが、にこにこして機嫌がよかった。
「どこに行ったのかしら?私も困っているのよ?」
そう首をひねっていた。
ロージン卿は親しげにカペルの肩を叩いた。
「今回はあんたが主役ですからな。あなたの慶事については私から話しときました。王が少し回復されて、許可されたですよ。こうなったら皇太后さまも拒否はできません」
今ならわかるが、ロージン卿は暴走しがちな若い太子のお目付け役であり、元老院や皇太后さまとのパイプ役を果たしている。
太子も彼なくして何事も進めることはできないのだ。
皇太后が彼とトゥアナの妹との縁談を強く命じるのも、そのあたりに原因があるのだろう。
カデンス家で、トゥアナの母からアウナについての詳細な話は聞いていた。カペル本人にも思うところはあったが、ここは黙っておくことにした。本人のたっての望みならば、これ以上口出しをすることはできない。
「ほら、ごらんなさい」
カペルは振り返った。
「あなたの姫君が来られましたぞ」
◇
騒ぎの知らせは、城にもいち早く届いていた。
あちこちで口論が起き、議論をするかたまりが出来ている。
「どうすればいい?」
「治安維持のためだ!軍を動かす」
ひげ面の熊のようなベルガの側近、ワベアが、好機と見て唾を飛ばして叫ぶ。
城の全員がざわついた。
ギアズやグアズの一派は、憎しみを込めて睨み、口々に反対を叫び、あちこちで口論が起きて剣を抜きかねない騒ぎになっていた。
「モントルーの一軍は待機させている!いつでも動かせる!命令をくれ、ベルガ!」
「ここでわが軍を動かして、市街へなだれ込めば、大騒動どころの話ではなくなるだろう」
ベルガはグアズではなく、ウヌワの顔をちらっと見た。
白髪の公女は腕を組み、じっとにらんでいる。ウヌワの母が亡くなった際の以前の大騒ぎのとき、ベルガはまだ小さかった。だがその血にまみれ、興奮した人々の顔、恨みに満ちたラベル市街の人々の顔や、トゥアナの父の怒りなどは、彼の記憶に新しい。
「カペル将軍がいてくれたなら……」
誰かがつぶやき、平穏を望む一派のみなが口々に探し始めた。
「副官ロトもいない」
「あのでぶの副官は?」
「そっちもいない!」
「こんな時に!?どうなっている!」
「おいらならいるよ」
アギーレだった。
「この軍の中でもサウォークとおれが率いる第三部隊は、ほぼカペルの私兵のようなものなんだ。サウォークがいないときの指揮はおれに任されている。動かしても構わないだろ」
「だが、あの副官殿はどう思うか(これはでぶと言われているサウォークではなく、ロトのことを指すらしかった)」
「自分の兵じゃなけりゃいやだってなら、好きにしなよ。命令すればいいだろ」
アギーレの背後からは、今はひどく真面目な顔を(装った)して、さらさら黒髪を揺らしたパラルが現れた。
「ロト殿が戻られたら、ベルガ殿が危険にさらされるようなことになるのは怒られると思いますよ」
片時も離れず、警護についている、若いモントルーの兵士が声を発した。目深にフードをかぶって顔を見せない、みなが暗殺者兼警備兵と呼んでいる兵士だった。
「あなたが行ってください」
妙によく通る声は、周囲を沈黙させた。
「ベルガ、あなたが行かなければなりません」
「わたしが行く」
ベルガは短く答えて、そのかたわらの兵士から剣を受け取った。
「危険だ!ベルガ、安易に近付いてはならない!」
わめくワベアに、ベルガははっきりと言い放った。
「モントルーの軍は動かさない。カペルに約束をした。これははっきりここで言っておく。だから、今後どんな軍が連絡がきたとしても、私は許可を出していないし、厳罰に処せられるだろう。これは文書にして、伝えておくように」
おまえの命がなけりゃ、その限りじゃないだろうけどね。
とパラルは腹の底で思った。
そんなパラルに、ベルガは振り返って肩を抱いて手を握った。男性美を具現化したようなベルガと、少女のような容姿のパラルのツーショットに、城の女性陣がこんな非常時なのに束の間、ざわめいた。
「パラル、お前を見ていると、わたしは励まされるのだ」
はいぃ!?
と声には出さなかったが、パラルはこの土地にきてからかつてないほど困惑の極みにいた。こいつは、この状況下の今ここで、何を言い出してんの?
天真爛漫にベルガは言った。
「わたしはこの容姿に、ずっとどこかコンプレックスを持っていた。男らしさが好まれるモントルーの土地で、外見も、性格もそうではないのではないかと、ずっと悩んでいたのだ。だが、お前の判断力、統率力、行動力はすごい。会ってからずっと、感心させられていた。行動すること、統率することに、顔だの何だのは一切関係ないのだな。当人の努力だ!」
ベルガのかたわらのフードを被った警備兵が、きっぱりと答えた。
「わたくしたちが、命に代えても必ずあなたをお守りします」
アギーレは第三部隊に命令を伝えによこし、周囲は騒然となった中、パラルは何だか腐った林檎をのみこんでしまったような顔でひとり、残された。