転換期 2
カデンス家の自室に閉じこもって、胸が張り裂けるほど泣いているトゥアナを、イマナが必死で慰めていた。ウルマは難しい顔をしている。あまり喜んでいなかった。
「さすがに腹が立ちますね」
「あそこまで言われるほどふさわしくない相手とは思いません」
無理強いされていると思っていた時にそれぞれは反発していた侍女たちも、ここまでトゥアナの母にきっぱり言われると逆に納得できない。各々がひいきにしている太子やベルガそっちのけで口々に言う。
「へんちくりんな貴族たちなんて腐るほどいますからね。あの若い将軍は並べても全く見劣りしませんよ?」
「今日は雰囲気が全然違いましたね。すごくかっこよかったわ。王子様みたいに見えました」
そんな慰めがいよいよトゥアナの涙を誘った。
おかあさまのばか!ばか!ばか。
かちっとかかとをあわせ、落ち着いて冷静に対応するカペル、あんな姿を見たのははじめてだった。誇らしかった。普段のだらしない姿からは考えられない。いや、彼女は前から知っていた、彼が素敵だってことを!
他の誰に言われたのでもない。
顔を見ないうちから知っていたのだ。なめないでいてもらいたい。
「みんなみんなだいきらい!!」
興奮したトゥアナは、もう自分が何を言っているのかもわからないままに捲し立てていた。
「ソミュールは確かにわたくしをそっとしといてくれたかもしれないけど、一度なんてすごい顔をして、他人のものなんて触りたくもない、なんて言ったのよ!?全部太子さまのせいよ。宝石や服をひっきりなしに届けに来るし!いらないっていうのにしつこいの!鬱陶しいのよ」
ウルマが赤い顔をして沈黙した。
「ウヌワは敵対心むきだしだし、モントルーはけんかばっかり。ベルガは泣くし。 いつまでお守りをすればいいの?べそべそしちゃって、めんどくさいのよ!ちょっとぐらい顔がよけりゃいってものじゃないですわ。あっちこっちに言い訳するのはいつもわたくしなの?もう、うんざりですわ!」
今度はイマナが下を向いて唇を噛んでしまった。
わーわー泣いている女主人と侍女たちの間に微妙な空気が流れた所で、扉の外から声がかかった。
「やれやれ、まだ興奮しているの?」
「おかあさま!」
鼻を赤くしたトゥアナは、その背後に誰もいないのを見て聞かずにはいられなかった。
「あの……あのひとは?」
「一足先に、お引き取りになりました」
「まさか追い出……!?」
「ご親族に会いに行かれましたよ」
「えっ!?」
トゥアナはぴょんと起き上がった。三センチくらいは空中に飛び上がったのではないかと侍女たちは見た。
「こんな、わたくしを置いて行ったんですの?」
「落ち着きなさい、トゥアナ」
「ご親族に会いに行くならわたくしだってご挨拶したかった!」
またトゥアナはわーっと泣き伏してしまった。
そんな姿をラベルの城では誰にも見せたことはない。
「困った子。まるで赤ちゃんがえりだわね。今日は朝から色んな方がいらして、それは大変だったのに、あなたがとどめって感じですよ。そういう所はお父さまそっくりね」
夫人はトゥアナの傍に座ると背中に手をあて、鎮痛な顔で言う。
「あの人は死にましたのね」
「おかあさま!」
「あなただって、エグルが死んだすぐあとに、娘のあなたがそんな上機嫌で結婚なんて言い出すのを、わたくしが優しい顔なんてできっこないってわかっていそうなものですよ」
「カペルじゃありませんわ。わたくし、知ってるんですの」
「都では、モントルーに暗殺されたという噂がとびかっています」
「ちがいます!!」
「そんなに声を張り上げなくても聞こえますって」
トゥアナの母は、顔をしかめて顔を娘から話した。
そして、少し皮肉を込めた口ぶりでこんなことを言う。
「あの青年は、生意気にも口答えしてきましたのよ」
「あの人が?」
「あなたの努力の結果を認めろとね」
トゥアナは、頭から反対なのだと思い込んでいた母がそんな風にカペルに言及したので、涙をふきながら期待をこめ、ちょっと上目づかいで母の顔をうかがった。
「彼があなたの肩を持つのは、あなたを愛してるからね」
そのひとことは劇的な効果をもたらした。
頭から冷水をぶっかけられたようなショックを受けていたトゥアナのなみだもヒステリーも、完全に引っ込んでしまった。
それどころか、頬はみるみる薔薇色になり、目は輝いて、突然思考がクリアになった。
唐突に別人のようになって髪をなでつけたり、服のシワを伸ばしたりはじめたトゥアナを、部屋の全員があきれた顔で見守った。
言われてみればわたくし、いつもお母さまに甘えて頼っていたわ。いざとなったらお母さまがいるって、そういうふうに考えていた。
あの人と離れて宮廷に住まなければならないことになっても、お母さまは守ってくれるんじゃないかって。
もうそんな年じゃない。ソミュールもいない。わたくしは自由のはず。
トゥアナは貴婦人らしさをすっかり取り戻し、落ち着いた様子で言う。
「少しひとりになってよく考えてみたいのです。離れの東屋に行きますわ」
トゥアナの母は苦笑しながらこちらも優雅に立ち上がって、壁の振り子時計をちらっと眺めてうなずいた。
「まあ、よろしいわ。あなたの好きになさい」
トゥアナの母以外は知らなかったが、この騒ぎを息をつめて成り行きを見守っている女性がもうひとりだけ、隣室の隣の部屋にはいた。
◇
カペルが叔父に話したのは、自分の浮いた話についてばかりではなかった。「もう一つの話」がある。
「お前には話しておく」
そうベルガは別れ際にカペルに言い、こんな話をした。
「おまえは、まぼろしの黄金の鳥の伝説を知っているか?」
美しい黄金のしっぽをちらつかせ、つかむとするりといなくなる。足跡には砂金が残り、夕陽に照らされてきらきらと輝くのだ。魅入られた者はいつの間にか森の奥深くに誘い込まれていく。気が付いた時には鳥の姿は消え、もう帰り道はわからない。
「金鉱のことを言ってるのか?あまり知られてはいないようだが、噂があるのは知っている。モントルーの山からは砂金が取れるって」
「あれは神の山だ。だがエグル・ラベルが真相をはっきりさせるために掘り進めた。だが、結果ははっきりと出た。鉱脈は細くなり、もうぼろくずしか出ない、枯渇している」
ベルガはもう一度、力をこめて繰り返した。
「金鉱はもう、ないのだ」
カペルは若いベルガの整った顔だちを眺めて秘密の重さを知った。そして漠然と予感した。この問題が、若くて感情的で泣き虫な彼が、しっかりとこの土地をまとめ治めていけるかどうかを試される所なのだと理解した。
「この土地に、戦争を仕掛けるほどの利用価値などない。隣国との要衝と言われてはいるが、隣国も薄々わかりはじめていることをわたしは知っている」
「トゥアナには相談しないのか?」
「これ以上、彼女を巻き込みたくないのだ」
そんな話を、自分に打ち明けて来たベルガの信頼を、カペルは受け止めなければならないと思う。
「このことは、エグルとわたし以外は知らない。誰にも話していないはずだ。エグルはあの時、調査に携わった者をみな殺してしまった。何が起きるかわからないと言って。調査結果だ。これはわたしが持っていた方。エグルの分はおそらくトゥアナの文箱の中だろう」
ベルガはごそごそやって、自分で持ってきた文箱を開けた。鍵は胸からぶらさげた鎖から出てくる。
「何とかして王宮に上手に伝えなければならない。太子に言っても反発し合って話し合いにはならない。むしろ嘘をついていると言われ、いらぬ争いになるだけだろう。太子がだめならば元老院に伝えたい」
カペルは書類をじっくりと見た。これまで何やかやと、トゥアナとロトにさんざん書類まみれにさせられていたので、独特な言い回しや書類のクセもよくわかった。
「原本は取っておけよ。写しをもっていく」
「これを写本できる技術のある者はもういないし、事と次第によっては殺さねばならない」
「絵描きのピカールはどうだ?トゥアナの信任も厚い」
「ふむ」
「出かける前に一時間か。今すぐ呼んでやってもらおう。そのあと、ピカールはお前が傍で使って見張っていればいい」
おじには元老院へのルートがいくつもある。一番間違いはない。
おじに書類を渡す前、カペルは懐にずっと持っていた印章を取り出してつくづくと眺めた。
そして、ピカールが作った写しに、しっかりと印を強く押した。
──あなたがそれを正しいと思うなら、お使い下さい。
トゥアナがただこれを隠すためだけに託したはずがない。この国のためによりよいと思うことなら、やっていい。それが自分の判断だ。
屋敷を振り返りながらカペルは、ふと、なぜか見慣れた憎らしくも若々しい綺麗な顔が浮かんでいた。
パラルだ。
どうして、あいつは突然ここに現れた?
割に合わない条件で店を出す。どこかから、金の匂いを嗅ぎつけたんじゃないのか。
まぼろしの鳥のしっぽがちらっと目の前を過ぎったような気がした。
あいつが、変に動き回らなきゃいいんだが。
あいつは確かに根っからの商売人だ。汚い裏社会のことも知り尽くしている。どうすれば、動き回れるかもよく知っている。人の弱みの握り方も。
だが金山は冗談ごとじゃないよ、パラル。
◇
「トゥアナ!トゥアナ!来てるよね?」
太子のわめき声がカデンス家の玄関に響き渡った。
よく出入りしていたので見知っている屋敷の従僕が慌てて出迎え、太子が投げつけるように渡した上着を受け取った。後からはぞろぞろとお付きの者たちがついてきているが、いつもより数は少ない。よほど慌てたらしかった。
「奥様はお出かけになられましたが、トゥアナさまはまだいらっしゃいます」
「いるんじゃないかと思って引き返したんだよ、よかった~!トゥアナの馬車があるって思ったんだ。どこ!?どこ?どこにいるの!?」
「今はおひとりで東屋にいらっしゃいます」
「カペルは?」
「ご親族の家に行くと、先にお引き取りになりました」
「ふーん?」
「トゥアナ様は今おひとりでいたいので、誰も近づけないでほしいと仰っていたのですが……」
侍女の困惑したような声は、既に太子の耳には届いていない。
断片的に都合のよい情報だけをキャッチした。
トゥアナの母はいない。トゥアナはひとり。よく知っている東屋にいる。カペルはいない。
千載一遇のチャンス!到☆来っ!
あの東屋はよく知っている。小ぢんまりとして周囲は静かだ。木々が茂っていて、多少の声なら聞こえない。
こんな絶好の機会があるもんか。
太子の鼻孔はぴくぴく動き、顔はゆでだこのように赤くなって、見ようによってはハンサムな顔が一方的な望みと欲にふくらんでひどく醜く、まるで野獣のように見えた。
すごい勢いで振り向くと、お付きの者にまくしたてる。
「いい?お前たちは帰りたまえ。今日は戻らない。呼びにこなくていい。迎えが欲しいときは、カデンス家から呼びにやる。そしてこの家の者は、僕がいいって言うまで、三日でも四日でも。絶対に絶対にぜ・っ・た・い!に!誰一人!こっちに近寄るな!いいね」
しつこいほど念を押す。
とまどうカデンス家の召使いたちを後目に、太子は大股で東屋の方へと向かった。
どれだけ待ってきたと思う?
小さい手を上げて笑うトゥアナ、少し大人になってきて恥じらうトゥアナ、大人のなって貴婦人らしい姿を見せるトゥアナ、可愛い、美しいトゥアナ、あんなに!あんなにずっと胸に抱き続けてきたこの思い。今日こそこの燃える思いを遂げる。その時がついに来たのだ。