転換期 1
街道をカペルの兄、パラルがゆくのをロトは塔の影から見守っていた。背後から肩にそっと触れられて、振り向いて笑顔になった。
「何をごらんなの?」
「彼ですよ」
気やすくて人との距離が近いように見えるセレステが、人よりもはるかに高い垣根を持っていることをロトもわかっていた。この大騒ぎのさなかに少しずつほぐしていき、今では二人の間には親しい空気が流れていた。
もはや東の塔も西の塔も、この城の中でロトが知らない場所などほとんどない。
ウヌワの手伝いをするセレステがあれこれ教えてくれるたし、朝夕のロトのジョギングの姿は城のみなも見慣れていて、誰も不審には思わないようになっていた。
ロトはセレステの子どものことを、ベルガに伝えるかどうか迷っていた。
太子に対して知らぬふりをするにしても、ベルガにはどうなのか。
何よりも、セレステの決死の捨て身の信頼、ここまであなたを信じて打ち明けたのよ。さあ、どうする?とでも言う視線と気配がある。
「モントルーなんて、わたしもだけどギアズだってきらいよ」
セレステはロトと並んで塔の下を見下ろしながら言った。
「石を投げられたと言っていましたね」
「奥さん(ウヌワのことだ)が追い払ってくれたんですにょ、なんて言ってたわ。まあ、あの子はグアズはともかく、ワベアのようなモントルーのお爺さんと対等に話せるのね」
ならば結局、男らしい男が尊ばれるというのが絶対的モントルー流というわけでもないようだ。
パラルにさりげなく気を配っていると、どうやらベルガの側近ワベアとウヌワの義弟グアズが、この不協和音の中心となっている。
数日もたたないうちに、モントルーのワベア、ラベルのグアズと話をつけている。後をお供するアギーレがこれほど体格差があるのに主従関係がはっきりとわかった。
あれぐらいの狡猾さと掌握力、変わり身の早さがカペルにほんの十分の一でもあれば……と思いかけてロトはいやいや、と首をふった。
あれで割と彼は如才ない所もあるのですから。それにあのパラルは何というか、危うい。
「利権はんぶんだってさ!」
パラルが髪を振るとよいにおいがふりまかれるのは、邪魔にならない程度の上品な香水を使っているらしい。
「ばーか。足元見てる?ぼくはばかにされてるのかな。元老院のつなぎって、そんなやすっぴなのかな!」
面白そうな顔でアギーレは、太鼓持ちの役割を果たして半ばからかい半分声をかけた。
「なかなか誰にでも出来るって真似じゃないですねぇ」
「そうでしょそうでしょ。もっと褒めてもっと言ってもっと言って」
「可愛い美人すごい天才」
「今なんつった」
ぎゅっとパラルの手がアギーレの耳をつかんでひねりあげる。
「あやまれ。僕はね、可愛いって言われるのがこの世で一番嫌いなんだよっ!なんだかわいいって!」
塔の階段を降りながらセレステとちょうどよい位置に移動しつつ、パラルを見ていたロトは、彼の背後にちょろりと小さな影がよぎったような気がして眉を寄せた。
「モントルーを追い出すには、ひと騒動やるしかないが、やつらはひと騒動で終わるような連中じゃないぜ」
アギーレはこのセリフを実に楽しそうに言ってのけた。
「うん、ぼくモントルーを追い出そうなんてまったく思っちゃいないもの。ただ、脅しのネタが欲しいだけ。その小公子の身分証明書があれば、操れるネタが増えるってわけだ。内容によるけどさ」
パラルは顎をつんと上げて髪をかき揚げる端から、日光があたってこぼれおちた。
ぼくが引き立て役になるなんてありえない。いつだって中心はぼくだ。ぼくには力がある。人を引き付け、惑わし、動かす力があるんだ。邪魔する奴は敵。それだけだ。あほになんでも腹の中さらす気はないね。いざとなったらこんな土地!
城の台所近くの裏扉から出てきた召使いがざぶっと汚水を外へ撒いたものが、パラルの靴先にまずかかりそうになる。彼は器用によけた。
火の海になろうとかまわない。
ウヌワの可愛がっている番犬たちが、このよそ者を敏感に察知して立ち上がろうとするのを、パラルは尾の中でも身のある箇所をぎゅっとふんづけた。犬はきゃんきゃん泣きながら逃げていく。
今日のぼくも完璧だ!
「おまえ、長生きしなさそうだねえ」
「でもその前に、ネズミ狩りをしなけりゃね」
いつの間にか、パラルはアギーレを連れて、ロトの目も届かず、城のどこからも見えない人気のない場所へ移動していた。
◇
空には薄い羊雲が羽を広げている。
カペルは久しぶりに会った叔父がひとまわり小さくなったような気がした。
「年を取ったね、背中が小さくなってるよ」
「そんなこた本人には言わないものなんだよ、バカ」
おじは少し照れたように薄くなった頭を撫でてこのお気に入りの甥っ子に言った。
「あんたの母さんと再婚してもいいかな。お互いもう年だし」
数年前なら暴れたかもしれない。とりあえず、パラルはたいそう腹を立てた。それで家を飛び出したのだろう。
カペルは平静に受け止めた。
「嫌われちゃいないと思ってたからダメ元で、老後を過ごさないかって言ってみたらな、いいって言うんだ」
「あのおばさん(カペルは母親のことをこう呼んでいた)、性格キツいけどいいんかい?」
「そうかね。キツいかね」
「パラルは怒ってるよ」
「ちっとは苦労すればいい。少しは話がわかるようになるだろう」
「あいつ、独占欲が強いんだよね。パラルは、おじさんの事も彼女の事も完全に独り占めしていたいんだ」
おじは兄を嫌ってなんていない。
家族の情がなかったわけじゃない。甘やかすのを避けたのだ。
「あいつも家庭を持ったことだし少し落ち着いてくれたと思ったんだが」
「子どもと親ってのは結局、個人と個人の血のつながりだから」
そんな穏やかな台詞を吐く自分にカペルは驚いた。いつからこんな風に見るようになったっけ?つい数日前だったような気がする。この世界の何が変わったのだろう。
「お前の方はどうだ?厄介ごとに巻き込まれてるようだが」
「ふたつ大事な話がある。片方はパラルには話してないんだ」
それから長い話があった。
叔父はじっくりとカペルの話を聞き、開口一番こう言った。
「それはお前、あれだ。爵位はもらわんほうがいいな」
「うん、最初からそのつもりだ」
「いうこと聞かなきゃいけなくなるからな。その娘はどうなんだ」
「彼女は気にしないと思う。だが、ただ断るだけじゃあ、あの太子さまは、またまた~☆おちゃめ!とかって言うこと聞いてもらえなさそうだ」
おじは人が悪そうに笑った。
「カデンスの家は毛並みはいいがだいぶ落ちぶれた。後を継いだ弟がダメでね。貴族さまは一度落ちると巻き返しは厳しいな。エグル・ラベルの援助がなくなったとなりゃ、太子に娘を売るぐらいしかなかろうさ。爵位なんざもらわん方がいい」
おじのそんな言い方が、商売っけには縁遠くなった軍人暮らしだが、カペルにはそういえばこんな風だったなと懐かしく思い出された。
おじさんの屋敷、また一段と豪華になったなあ。おじさんとパラルで荒稼ぎしてんじゃないのか?
叔父は、この甥っ子が浮いた話を持ってきたことが嬉しいらしく、満面の笑顔をカペルに見せていた。
「いいよ、お前。今時そんなもん、貧乏所帯の貴族の娘なんか何とでもなる時代だ。金は出してやるぞ。娘もいいって言ってんなら、さらってどっかへ連れ込んじまえ」
「おじさーん」
「なに、太子さまにも色々あるんだ。戦争になんかなりゃしねえ。連れてきちゃえばこっちのもんよ」
おーそれ言っちゃうんだ。
カペルはあきれて口をあけた。
「おじさんやっぱり悪い奴だね。さすがパラルの親父って感じだよ」
「おまえの叔父でもあるんだぜ?」
楽しそうに笑った叔父は、少しだけ目を細めて懐かしそうな顔になった。
「あの家を覚えてるか?兄貴が住んでいた、お前が生まれ育った家だ。三階建てで屋根裏部屋があって、そこそこの大きさで……。あれは、おれの生まれた場所でもあるんだ。たまにな、自分の一番いいところがお前に、一番悪い所が息子に出たような気がする」
「人手に渡っちまってたろ」
「買い戻した」
「未練もないけど」
「そんなことはない。すべて投げ出したくなったらな、カペル。お前も迎える場所はいつでもあるんだからな」
◇
「ハロー、ハロー」
ラベル城の後ろ、誰もいない深い森の中で、優しい笛の音が響いていた。
「ハロー、ねずみさん。ハロー。何歳ですか」
ガサガサとやぶが動くのに合わせて、アギーレが逃げ道をさっとふさぐように移動した。その素早さは無駄がなく狼そっくりだった。背後から、妖しい笑顔を浮かべた美しい少年の髪が揺れる。
「ハロー、ここで何をしてるんですか。可愛いね。アピールしてください」
これが、あれほど足に自慢のあるニマウだったなら!剣を抜いて立ち向かうか、戦うか?できるなら、逃げたい!こいつら、何だか普通じゃない。二人とものんきそのものだ。げらげら笑いながら冗談を言い、ただひたすら後を追い続ける。
面白がってはいるが、これは決して遊びなんかじゃない。
これまで感じたことのない気配、恐れ知らずのオノエだが、彼女にはそれだけの腕前を身につけ、わかりはじめていた。これは、これが、殺気だ!
本気で殺すつもりなのだ。
朝からずっとこの二人に張り付いていたオノエは疲れ始めていた。
足先が崖にかかって、オノエは絶体絶命の位置に追い詰められていた。
どうして、わかるのさ?この森にこれほど詳しいのは僕らだけのはずなのに!
「逃げたいの?でもそのままにしてはおけないなあ」
追っ手がついにオノエの前に現れた。
パラルはあからさまに顔をしかめて眉を寄せる。
「なんだ、小汚い坊やだね。誰に頼まれたのか知らないけど相手が悪かった。恨むなら雇い主を恨むんだね」
オノエはいつもより数割増しでみすぼらしい服を選んでいたし、ずっとつけまわしていたので埃まみれでぼろぼろだった。
それでもどこかで思っていた。
あのカペルの横にずっとついてた奴、アギーレなら僕の顔ぐらい見知っているはずだと。
背後の黒い影がゆっくり剣を抜くのが見え、オノエの目が大きく見開かれた。
おまえ、ぼくのこと、わかっているはずだろ?こんなことして、あのでぶのおっさんや、のっぽのおじさん、カペルさんが黙っていると思ってるの…?
言葉が、のどにつっかえたように出てこない。
トゥアナねえさん!ウヌワ!ニマウ……。
アギーレの狼のように鋭い目はまったく笑っていない。一か八かで崖下に身を落とす前の角度まで測っている。剣は、届いてしまう。
オノエ本人ももとっくに剣を抜いていたが、敵わないとわかっていた。腕力や技術が届かない場所にいる相手を目の前にしていた。手を血に染めて来た奴だ。迷いなんてない。
鋭く短い悲鳴が聞こえた後に、顔をしかめたままのパラルの所にアギーレが現れた。
「ほらよ」
パラルの足元に、血まみれの髪の毛の束を投げ出された。あからさまに顔をしかめて叫ぶ。そして顎をつんと上げて足早にその場を去っていく。
「ばか、そんなもの見せなくていい。死体と一緒にちゃんと隠しておきなよ」
アギーレはあきれたような顔でそれを足で転がし、歯をむき出して笑った。
「あいつ案外気が小せえところがあるんだよな。ぼっちゃんなんだよ基本」