文箱 1
カペルは鷹揚にうなずいたが、納得したわけではなく、ただひたむきさが可愛かったので、とりあえず、適当にあしらおうと思っただけだった。
「わかった」
「本当に!?」
領主の娘の顔がぱっと輝いた。とても奥様には見えない。どう見ても若い娘だ。
「ありがとう、すぐに書きます」
「今から?」
彼女はきょとんとした。
「出発は明日でしょ、一刻を争うわ。彼は気難しいから言葉を選ばないといけないし、徹夜作業よ」
難しい顔をして黙り込んでいる間、カペルの頭は何の高尚なことも考えていない
(言い抜けか?…それにしてはイノセントな顔…いやいや、女は魔物…ふりなのかも…一度は奥様…奥様ってことは…だし、かといって…)
「では、一旦部屋に戻ります」
「待て、ここへ」
「ここ?」
うなずいた。トゥアナは首をかしげる。
いくら何でも、このままはあんまりだ。ひどすぎる、とカペルは考える。
もう少しだけ近付ければ、せめてそっと手を取って…許されるなら胸に抱いてみたい。
腕に手が届けばきっと勇気が出る。
さっき手を取って立たせようと触れた。その華奢な腕の感触をもう一度だけ感じたかった。
カペルは手招きをしたつもりで、迷うからよくわからないジェスチャーになり、娘は意味のわからない手付きに眉をひそめる。
「ここで、書くの?」
またうなずく。こうなっては仕方ない。
トゥアナは怪訝な顔をした。
それからいかにも心外といった風に唇をとがらせる。
「小細工などしませんわ。でも、いいわ、わかったわ」
慣れた手付きで呼び出し紐を引くと、小さなベル音がして、トゥアナは命じた。
「私の文箱をここに持ってきてちょうだい」
女主人を案じて手をもみ涙を浮かべていた若い侍女がはじかれたように走り出した。
少なくとも彼女の方がこの長女より状況を理解している。
扉の外には部下たちも首を伸ばして聞き耳を立てていて、カペルはうっかり、仏頂面の不満げな顔をもろに部下に見られてしまった。
誤魔化すように言う。
「私も中央に書簡を送らなければならないことになっているんだ」
「では、二人で書きましょう?」
娘はにっこりした。
「父の机を使いましょう。大きいから十分よ。そうだわ、私ったらお食事のこと、すっかり忘れていたわ。準備が出来るまでお相伴いたします」
敗残の一族の娘がこんな笑顔を見せるものだろうか?
ここに来るまで外で起きていた血と汗の嵐、土の匂いなどまるでなかったかのようだ。
この娘は、浮世離れしているのか、緊張感がないのか、悲愴さならさっきまでは少しはあったかもしれない。
今はあっけらかんと、うきうきした表情を浮かべている。
全幅の信頼を置く長年の知り合いのように、カペルの横でリラックスしている姿に満足した。
トゥアナは扉で侍女にてきぱきと命じる。
「裏庭の温室に花が咲いているか見てきて」
「この時期には厳しいです」
「困ったわね。では絵描きのピカ一ルを探して」
トゥアナはカペルを振り向いた。
「彼のアトリエのある地区は火事になって、難民収容所にいます。兵をやって探させるように言って下さいます?」
心配そうに、彼女でもそんな顔をするのかと、多少媚びを含んだ訴えるような笑顔を見せる。
「市民に乱暴はなさらないわね?皆、怖がっています」
「弾圧や虐待は逆効果だと理解はしている。緊張は簡単には溶けない。いつ、暴動が起きて死傷者が出るか知れない」
言い訳めいた言葉を恥じた。心配ない、と切り口上で命令するべきだった。
「私の名で布告は出しました。死を厭わないほどの気持ちでいるのはごく少数だとわかってね」
「なぜ、言い切れる?」
「長年のラベル家とモントルー家の争いに、領民はもう飽き飽きしているのよ。どっちだっていいの。ただ、静かに暮らせて、誰も威張ったり乱暴したり搾取したりしなければ」
チクリと胸が痛む。
今まで注目されていなかったこの地区が、北側に山を越える大きな道路ができたばかりに軍事的羊蹄になりつつあり、これから人も資本も軋轢も流れ込むだろうことを思い出した。
彼女に下心をもって接し、あわよくばと目論んで居るかもしれない自分にもだ。
「こちらの暴挙も少数派だとわかってほしい。血を見た後の兵士は殺気立っている。完全掌握は不可能だ」
「わかってます」
トゥアナは本当にわかっているのか?と疑問に思うようなふくれっ面を見せたが、ふと一瞬だけ暗い影が表情をよぎった。
「知っているわ。そんなの、昔からずっとそうなんだもの」
それから、さばさばとした風でカペルに向かって手を差し伸べた。
「さ、まずはお脱ぎになって」
「なぜ!?」
トゥアナはきょとんとして、それから首をかしげた。
「食事をいたしましょう?甲冑は取りましょうよ。だってきつくありませんの?」