領主の娘 3
物思いに沈んでいたカペルは、思わずワインのグラスを倒して、カーペットに大きなしみをつけてしまった。
慌ててナプキンを落として拭き取ろうと足で踏みつけてはみたが、無駄と悟ってごまかすようにワゴンを移動させ、床を隠した。
深呼吸をして扉を開く。
「やっとお会い出来ましたね」とか「ようこそ」などと言おうと思ったのに、口をちょっとだけ開け閉めしただけで声にならない。
目の前に肉体を持って現れた彼女は、想像していたのとぜんぜん違っていた。
あれ?こうだったかな?
背の高さも、顔立ちも、目の色も髪型も違う。でも確かに本人に違いない。
まとめられていた髪は房となって肩にかかっているし、近くで見ると真っ黒に見えた目は優しい茶色で、背は思ったよりも低くてカペルの肩ぐらいまでしかない。
招き入れるとき、開いた扉の後ろに何人か御付きの侍女たちの顔が見えたが、トゥアナは後ろ手にドアを閉めた。
理想化しすぎていたのかと言えばそうではなくて、要はカペルにとって本物の彼女は、頭の中で作り上げた妄想とは比べようもないほどしっかりと存在していて、実体化していて、つまりカペルは圧倒されていた。
若干冴えてきつい印象がすべて消えているし、扉を開いた彼にちょっと見せた笑顔は内側から光っているようだ。
口を開けたり閉めたりしている間に彼女は彼の前に膝を付いた。
「お願いがあって来ましたの」
予想通りの仕草と言葉だ。
膝をついた彼女の手をとって、立つように促して待つ間に、服ごしにでも触れた喜びにカペルの動悸は激しくなった。
優しい、女らしい柔らかさが指の間に感じられた。
(おれは彼女に今、どんな風に見えているんだろう?)
何とか考えを探ろうとちらちら彼女の顔を見ては観察するが、落ち着いた気配でいる。
いや、落ち着きすぎている。
逆に妙だ。涙や興奮があるものと思っていた。
姫は立ち上がってから、微動だにせず顔に穴が開くほどカペルの顔をじっと見ていた。
腹の奥の奥、心臓の裏側まで見通すような目つきだった。
形のよい薄い唇はへのじに結んでキリッとしている。
カペルはまだ自分が一言も発していないのに焦っていた。
話がしたかっただけと言うつもりだった、その気持ちに嘘はない。
なのに、舌が動かない。
こんなにも間近で、こんなにもまっすぐな視線の前に、下心を匂わせるようなどんな言葉も出てこない。
無言なのも変だ。だが、あまりにも落ち着いているから、こちらもまごついり混乱して居心地が悪くなったりしない。
不思議な穏やかさがある。
「どうぞ、そちらへ。座りますか」
彼女はうなずいて優雅に手を預け、カペルはかろうじて作法を思い出し椅子を引いていざなった。
トゥアナはもう一つの椅子を近寄せて仕草をしたので、カペルも座った。
トゥアナは身を乗り出し、カペルはさて姉妹の身の命乞いかと思ったのに、次に彼女の唇からいきなり飛び出して来たのは予想外の言葉だった。
「ねえ、お願いです。ベルガ・モントルーに連絡させて頂きたいの」
「だれ」
とは言えなかったので、カペルはおうむ返しに聞き返した。
「モントルー?」
「山岳地帯のふもとに兵を集めているのでしょ。明日侵攻予定だと聞きました。ベルガはモントルー地方の長です。宮廷の言う、今後も自治を認められるのが本当なら、ここをまとめる事が出来そうな誰かが必要なんでしょ。そうよね?」
そんな口先だけの懐柔策を本気で信じているのなら、無邪気としか言いようがない。
「お願いです。どうか連絡させて?」
可愛い顔を真っ赤に染めて、ひたむきに迫ってくる姿はまだ本当に若くて、少女の面影さえある。
「ベルガはおじいさまの弟なの。でも父より若いのよ。彼はもともと父と跡目を争って城を追われた身、話せばわかるはずよ」
「女性を…軍に同伴は、できない」
言いながら照れを隠した。
「風紀も乱れる」
知ってか知らずか、トゥアナは臆さない。きっぱりと言い切った。
「手紙を書きます。渡してください」
「あなたからの手紙とモントルー公が信じるという根拠はあるのか?」
「私とベルガしか知りえないことです。必ずわかります」