東の塔 2
ベルガは遠慮がちに入りながらトゥアナの部屋を見渡した。以前、彼女が結婚する前に彼が入った時と同じだった。あの時も、同じ話をしようとしていた…。
トゥアナは今度は窓際に体をもたせかけていた。
ベルガが近付くと唇に指をあてる。
「しーっ」
「…?」
「聞いて。かわいい話をしてますのよ」
下の部屋には広いバルコニーがついていて、そこから少女の話し声が聞こえてくる。
「アウナと…?」
「テヴィナですわ。一番末のいもうとよ」
「テヴィか。大きくなったな」
厳しい顔をして何か考えこんでいる表情のアウナに向かい、テヴィナは無垢でいかにも他愛ない調子で自分の話を夢中になって話していた。
「アウナねえさんは都に行ったことないでしょ。わたしね一度だけあるの。すごく綺麗な真っ白な屋敷に入って、すごく綺麗な人がやってきて、とっても優しくしてくれたの」
──こっちにいらっしゃい。
「それね、トゥアナのおかあさまだったの」
──なんてかわいいの。だいすき。ほんとにかわいいわ。
「たくさんおいしいものくれてね、お話をたくさんしてくれたの。これ、そのひとがくれたの」
テヴィナは手元の指輪を見せた。アウナは機械的に目をやるだけだ。
「思い出したんだ。そのひとも、トゥアナねえさんにそっくりねって言ってくれた。あのね、カペルさんも言ったんだよ。わたしがねえさんに似てるって」
ずいぶん子供っぽい、無邪気な感じの気配がすっと沈んで、テヴィナはつぶやいた。
「あたしのおかあさまって誰なんだろう。知りたいな。でももうおとうさまは死んじゃったし、トゥアナねえさんなら知ってるのかな」
トゥアナはそっと窓から体を引いて、静かに窓を閉めた。
ぐるっと振り向いて、ベルガに向かって言う。
「わたし、いいんですのよ」
「トゥアナ、わたしは何もかもわかった上で君を妻にと望んでるんだ」
「いいんですの。大丈夫よ。アウナが行くと心に決めたぐらいなんですもの。わたしががんばらなくてどうします?」
ベルガが何か言いたそうなのをさえぎって、トゥアナは言う。
「さっき、ロト殿とギアズが来ましたわ」
トゥアナの部屋にはひっきりなしに誰か訪れていた。セレステが来た後に部屋に足を踏み入れたロトとギアズの要件はトゥアナにはもうわかっている。
「ええ、ウヌワたちは探しているのです。アドラについて書いた夫の証明書をね」
「お答えください。文箱にはそれが入っているのですか?だから隠されてしまった?」
ロトの問いにトゥアナは口を結んで窓辺に立っていた。西の塔には、ウヌワと命令されているセレステが忙しく立ち働いているのが見えた。
わたしはここで、あんな風に混じり合うことはいちどもなかったわ。お父さまはあんなのは使い走りの元締めのやることで、淑女ではないなんて言っていたけど。
「そうです」
「このことは出来ることなら最後まで公表しない方がよろしいでしょう」
「ええ、でもね、ベルガは知っていることなのよ。こんなことにもなろうかと思って、随分前に伝えてあるの。モントルーの人々には絶対に漏らさないでという条件つきでね…」
ロトの表情がどこか苦し気なのにトゥアナは目ざとく気が付いた。
セレステが話したのかしら?そういえばあの子が好きになるのって、いつもこういうタイプだったわ。
ベルガに対して真面目になってトゥアナは畳みかけた。
「戻って来られるかわかりませんのよ。あとはあなたに託しますわ。よろしいわね?ほんとに大丈夫ね?」
「印章をどうしたらいいと思う?」
「そうねえ。本当にどこに行ってしまったのかしらねえ」
ベルガは見慣れたいとこの顔をじっと見た。
どことなく白々しく聞こえたというより、うわの空だ。心がここにないように思えた。
だがこの見慣れた誰よりも親しいいとこの顔がこの城にない。そしてまた、別れようとしている。今度は別の男のもとへ行くために旅立とうとしている。
トゥアナは鼻をすするような音が聞こえるのに気が付いて、ベルガの目がまたじんわりと涙ぐんでいるのを見た。
「何!?何ですの!?」
「トゥアナ、いつも怒られていたけれど、わたしだってやろうと思えばやれるんだ」
「やってもらわなければ困ります」
ついに頬に大粒の涙が落ち始めて、トゥアナは困ったように手招いた。
「さ、いらっしゃいな」
ベルガはトゥアナのひざにすがってしばらく頭を乗せていた。
トゥアナはしばらく背中を優しく軽くたたいていた。ベルガには母親がいない。
いつもトゥアナが母親代わりだった。ぼんやりしているトゥアナに対してベルガは頭を上げ、涙に濡れた顔で目をつぶって唇を寄せたが、トゥアナはその鼻をつまんで頬を軽くぴしゃっと叩く。
「まったく!その顔をなんとかしてらっしゃいませ」
トゥアナは自分のハンカチを取り出して、ベルガの顔を乱暴にごしごし拭いた。鼻をかませられて、相手はうらめしそうな顔で見ている。
「甘えないでくださいませ!!」
「お別れのキスぐらい…」
トゥアナは考え直したようだった。
「それもそうね」
トゥアナはベルガの唇に軽く唇にキスをした。
「この土地を大事にするのに心配はしてないの。あなたはりっぱな公爵、疑ってませんわ。ねえベルガ、わたしを守ると思って、あの子を…アドラを、どうか守ってほしいのです。どんな書類が出てきても。モントルーの人々はどうしても嫌がるでしょ?そこであなたがうんと言わなければ、あの子は守られるんですから…」
部屋を出る時、トゥアナが何か言ったような気がして、ベルガは振り向いた。
「え?」
「いえ、何でもありませんわ」
ベルガは歩きながら考え込む。
『違う』
さっきは、確かにそう聞こえたような気がしたのだが、ベルガにはその意味がよくわからなかった。