東の塔 1
都の中でも少し中心部から離れた自然の多い場所に白い館が建っている。
太子は用心深く辺りを見回しながら、おしのびの服装で訪れていた。
まあ太子さま、と立ち上がったのはすらりとして何を着ても若い令嬢がたに負けない容貌を今も保っている妙齢の婦人だ。カデンス家のトゥアナの母だった。
太子は両手を取ってキスをする正式な挨拶もそこそこに、トゥアナの母にささやいた。
「トゥアナがこっちに戻ってきますよ」
「あらそうなの?」
ラベル家の騒乱を知らない者はいないので、カデンス一族もひっそりと息を詰めて様子を伺っていた。だが太子がこうしてトゥアナの母のもとを訪れたのは騒乱鎮圧の目処がついたのだろうと周囲は推察する。
トゥアナの母はおっとりと言う。
「昨日はあなたの奥様が見えましたよ」
「あいつ!こんなところにまで押しかけてるの?」
「あなたのことを心配しているの。心配をかけてはいけませんよ」
ふくよかな太子夫人は、いつもの明るい元気な様子がなく、妙に真面目な顔をしてしばらく話し込んでいた。
太子は首まで赤くなり、かっとなった様子で思わず声が高くなった。
「心配なんてしなくていいんです。殺したって死なないようなやつなんだから。あの体つき見たでしょ?肉でぶよぶよ太っちゃって、階段から突き落としたってゴムまりみたいにぼよんぼよん跳ねて、何の怪我もしないですよ」
「またそんな…」
「それでね。ちょっとお話したいことがありまして」
太子はしばらく長いことこそここ話をしていた。
トゥアナの母は表情によしとも悪いとも表さず、唇をとがらせてしっかり話を聞いていた。
ふくよかな太子婦人が心配してカデンス家を訪れて話したことと、いま太子が言いたがっていることは同じだった。娘を持つ母親なら、もしその母親が野心を持っていれば、このチャンスをどう生かすかと思案したかもしれないが、あいにくトゥアナの母はそういう人ではなかった。
ひとしきり話が終わると夫人は「トゥアナはなんていってますの?」と聞いた。
太子は照れを隠すようにほっぺたをひっかいた。
「それがね、まだちょっとそこまでわからないんですよ。まだトゥアナと腹を割って話してないのでね。焦ることはないからゆっくりと話そうと思っているんですが、お母様はどう思われますか?正直、あなたがお怒りになっても仕方のない話だというのはわかっています」
トゥアナの母は答えずに、じっと太子の顔を見ている。
「評判に傷もつきます。でもそんな評判なんて僕がついてます。絶対に大丈夫!誰にも何も言わせません。ただねちょっと心配なのが相手がかなりの馬鹿なのでね、まあ身分の低い連中なんてそんなもんですが、でも悪くないやつなんですよ」
トゥアナの母の答えを待たずに、太子は肩をまわして周囲を見渡した。
「カデンスの屋敷はいつもいいなあ。空気が清々しい。ここに来るといつもほっとするんだ」
確かに気持ちのよい庭だった。すべてが整えられすぎず、そこかしこにある雑木林は自然に見えるが園丁が心を尽くしてつくりあげた芸術品だった。
太子は指差した。
「あそこ。入口アーチのところ、あのとき花が満開に咲いていた。あの子があそこに立ってこっちを見てて、天使のように可愛かった。もう本当にあの子以上の子なんて僕には見つからないんです。どうしても…どうしても」
「まあとりあえず、あの子が来たら話を聞いてみますわね」
「どうかお願いですお母さま!」
ガバッと太子は膝をついた。
「このままじゃ僕の人生、何なんだ?って感じなんです。ずっと兄上に追いかけ回されて命を狙われて、どろんこの畑に落っこちたり、ガサガサの藁の中に隠れてデブの尻にふんづけられたり、そして今じゃ、ぶたみたいな奥さんやひつじ頭のママンにガミガミ追い回される。みんな自分のことしか考えちゃいない。ぼくだって一度でいいから人間らしい思いをしてみたいんだ。それはあの元気で生意気な可愛いトゥアナにしかできないことなんです」
太子が去った後もトゥアナの母は唇を尖らせたままじっと考え込んでいた。
そんなふうに考えこみながら唇をとがらせているとキスしてしまいたくなると公爵はよく言っていた。
ラベル城の東の塔、久々に自室に戻ったトゥアナは、母親そっくりのしぐさで唇をとがらせて何かを考え込んでいた。
入り口に痩せた侍女のイルマが現れた。顔色を見ただけで何なのかわかる。トゥアナは投げやりにひらひら手を振って答えた。
「お通しして」
トゥアナの東の塔はソミュール伯との居住地区になっていたから、女人限定などという規律はない。
ベルガが遠慮がちに入ってきた。
「ごゆっくりですわ~、おほほ」
イルマは満面の笑みで扉をばたんと閉める。