プロローグ
――そういえば、借りていたゲームを中学の頃の友人に返し忘れていた。
限りの無い蒼が上空に広がる、いかにも散歩日和な四月二十日。
ふと脳裏を過ったのは先月返しそびれたゲームの存在だ。
高校が離れてしまえば中学の友人と会う機会は極端に減ってしまう。毎日見ていた友人の顔を、四月に入ってからは一度も見ていない。
そのせいで返すことすら忘れていた物の存在に、今更気付いてしまった。
溜息を吐こうとするが、そもそも今の俺は吐けるほどの息が体内に殆ど無い。
口を開いたそこに流れ込んでくるものは水だ。それも、砂やら小さなゴミやら廃棄物を含んだ、決して綺麗とは言えない水。
それらは無理やり喉を通り、体内の水分量を強制的に増加させていく。
「――、――」
先程考えていたこととは裏腹に、さっきから俺の手足は懸命に動いている。
必死に何かを掴もうと、何かに縋ろうともがいているのだ。
だが悲しくも強く握った拳には何も残らない。
このままでは、ここが冷たいのか温かいのかすらわからなくなりそうだ。
それが心底嫌で、絶対に掴めない筈の液体を何度も何度も掴もうと足掻く。
だって、そうじゃないと俺は……
――俺は、どうなるんだっけ?
どうなるかを考える為に目を閉じようとするが、それも叶わない。
非常に目が痛いと感じる。プールに入った時のそれとよく似た痛みだ。
だが穏やかなプールとは違って永遠に流れ続ける水が、突き刺さる様に皮膚へと当たっては弾けていく。
弾けた水は、何事も――そう、俺さえも――無かったかのように横を通り過ぎて流れていく。
俺の口から出る泡がそろそろ尽きてきた。
体内の60%が水だと学校で習ったが、それならもう少し水は俺に優しくしてくれてもいいじゃないか。60%は君たちと同じ仲間なんだから。
自分の考えたことに思わず笑いが出るが、苦しさで上手く笑えない。
こんなことは前にもあった。だがそれは俺が経験したことではない。
俺じゃないどこかの誰かが、同じように笑おうとして苦しくて笑えなかった。そんなあまりにも悔しい記憶が蘇る。
走馬灯が己の記憶じゃなく誰かの記憶だなんて笑えるな、とまた笑いがこみ上げてくる。勿論笑えない。
……走馬灯?
あぁ、そうか。
――また、俺死ぬのか。
また? いやいや。それは語弊がある。
俺が死ぬのは初めてだ。
確かに記憶には死んだ記憶があるが、俺――伊藤拓真が死ぬのは初めてなんだ。
そこまで考えて、必死に動かしていた右手を懸命にまだ見える蒼へと伸ばしてみる。蒼は光を帯びもはや蒼なのか何なのかわからない色をしている。
そもそも蒼を見ようとすることすら難しいのだ。今俺はどちらを向いているのだろう?
周りを漂う水は外から見るよりもずっと荒々しい。
まるで母さんのようだ。外から見れば優しいくせに、中身は鬼。
伸ばしたはずの手は宙を彷徨い、体に力が入らなくなる。
どうやらこの汚水を飲みすぎたらしい。
いかにも身体に悪そうな色をしている。
外から見ればまだ綺麗なくせに。母さんも、水も、全部詐欺だ。
もはやどこを映していたのかわからない視界が、だんだんと霞んでいく。
身体は蒼からどんどんと引き離され、もう手も足も、口も、動かない。
せめて涙が出れば、この体内を侵食している汚水を出せるのに。
――死にたくない
まだ入学したばかりなんだ。
これから青い春を過ごすのに。楽しい高校生活を生きていくのに。
先輩が言っていた。高校生になったら彼女だってじゃんじゃかできる、と。
それが本当かどうかは知らない。だけど、本当なら最高じゃないか。
それなのに、どうして、またこんなくだらないところで死ななきゃならないのだ。
――悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい――
でももう、どうにもならない。
――瞼が閉じそうになるその時、ぼんやりと俺の視界に浮かんだのは誰かの姿。
その誰かは俺の両手を取る。女性の手だ。
女性の手の筈のそれはあまりにも傷が多い。
だが、どうしてだか俺はそれに違和感を感じない。
美しい銀色の髪の毛が目前の水中を漂う。
彼女が着用している服は、その綺麗に光を反射する銀髪に不釣り合いな、血に塗れた軍服。
こんな女性がまさか天使か――
俺を迎えに来たのか――
もっと可愛い子にしてほしかったんだけど――
神様は何考えてんだ――
彼女を霞む視界の中睨むが、俺はふと気付いてしまう。
彼女の顔は残念ながらぼやけている。
だが、俺は彼女を知っている。
彼女は笑っている。
そうだ、だって彼女は死ぬ直前も笑っていた。
それを俺は知っている。俺だけが知っている。
臭いなんてわからない筈なのに、鼻で感じたのは懐かしい硝煙と血の香り。
思わずこみ上げる笑み。あぁ、今度はうまく笑えた気がする。
悔しいよな。
こんなところで終われないよな。
知ってるよ、誰よりも知っている。
この視界に映るものは全て、俺の記憶の中にある『鏡の中の虚像』だ。
――だって、彼女は俺なんだから。
そうして俺はゆっくりと目を閉じる。
俺は今日、また死ぬ。いや違う。彼女は俺だが俺じゃない。
俺――『伊藤拓真』は、今日初めて死んだ。