第27章:秘め事
演奏が終わり帰りの車内の事、宮下はなるかの次なる計画を知る。
目の前で繰り広げられるそのあまりに生々しい狂気と、死の足音がすぐ背中まで迫ってくるような絶望の気配。そこに絶妙なタイミングで重なるあの人のサックスの、冷たく乾いた低音。
そのすべてに脳を直接掴まれたように見入っていた私は、手元のグラスで冷たい水滴を滴らせている大好きなビールのことなんてすっかり忘れていた。気がつけば瞬きすらも忘れて、ただ、乾いた喉を鳴らすこともできずに舞台の上の空気に釘付けになっていたのだった。
高級クラブの重い扉を抜け、秋の冷えた夜の空気が心地よい恵比寿の路地裏を歩いて私たちはまたあの車に戻った。エンジンが静かに唸り始め、暖房のぬくもりがじわりと足を包み込む。
車が静かな車道を滑り出してから、ハンドルに片手を置いた先生が横顔で私に尋ねた。
「どうだった? 今日の小小さんの演目は」
「うんっ、すごく楽しかった! 私、落語を生で見るのなんて初めてだったけど……あんなに生々しいものなんだね。なんか、息が詰まるかと思った」
「だろ? 小小さんのあの小気味いい語りは、聴いてるこっちが知らぬ間に引きずり込まれちゃうよな。早く真打ちに昇格してほしいもんだよ、ほんと」
「それに、せんせのサックスも……なんか、すっごく不気味に、でも綺麗に溶け込んでたよ」
私の言葉に、先生はちょっと照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「小小さんは本職の噺家だからさ、本来は俺のサックスみたいな余計な音なんてなくたって、言葉だけで十分すぎるほど世界を表現できる人なんだけどね。それでも『新しいことにチャレンジしたいんだ』っていうあの人の心意気が、俺はたまらなく好きなんだよな」
助手席の窓の向こうで、東京のネオンが溶けるように流れていく。
この世の中には、私がまだ一度も見たことのない、眩しくて、少しヒリヒリするような世界が山ほどある。自分一人じゃ絶対に足を踏み入れなかった場所、興味すらなかったもの、そもそも存在すら知らなかったもの。
一度は自分の足元が崩れて、すべての光を失ったみたいになっていた私に、あの人は今、私が一度も見たことのない違う色の光を、惜しみなく、次から次へと見せようとしてくれている。
その確信がふと胸の奥に落ちてきた瞬間、さっきまで感じていた冷たい夜の空気なんてどこかへ吹き飛んで、私の胸の中は、熱いスープを飲み干したときみたいに、じーんと切なく熱くなった。
「ねえ、せんせ? 今度さ、修学旅行あるじゃん? 私、現地での自由行動のとき、先生と一緒にまわりたい!」
秋風の匂いが鼻腔を満たす暗闇の中で、私は我慢できなくなって、ずいぶん無茶苦茶な我儘を口走った。
「えっ……!? おいおい、そんなことしたら他の生徒にバレるだろ……!」
先生は盛大に眉をひそめ、運転席のヘッドレストに後頭部をぶつける勢いでとてつもなく困り果てた表情を浮かべた。当然の反応だ。四十歳の講師と十九歳の生徒が、修学旅行の現地で密かに合流してデートなんて、学校という巨大な監獄のなかでは一発レッドカードの破滅的スキャンダルなのだから。
「大丈夫だって! 私、絶対うまくやるから!」
「ほんとかよ……笑。絶対って言葉がいちばん信用できないんだけど」
「ほら! 私、学校に友達いないし、グループとか入ってないでしょ? だから私が一人で行動してても、周りは『あいつは浮いてるから一人なんだな』って思うだけで、誰も不思議がらないもん!」
言い訳のくせにあまりにも筋が通りすぎていて、自分でも少し哀しくなるその事実を、私は堂々と武器にした。
先生は困ったように左の眉頭を人差し指の腹でポリポリと掻き、やれやれといったふうにため息を吐いた。
「……俺は、なるかと二人で動く分には別に構わないけどさ、周りの目がどう見ても不自然だろ」
「いいの! そんなのどうでもいい! 先生と一緒にいられるなら、私、なんだってできるもん!」
「……まったく。まあ、そこまで言うなら、なるかがうまくやるのを前提に……考えてみるか」
私の粘り勝ちだった。 ふふんと胸を張った私は、冷たい夜風のなかで、またあの人の腕に自分の腕をぎゅっと絡ませた。世界のルールなんて、私たちのこの密やかな共犯関係の前では、薄っぺらい紙きれみたいなものだった。




