エピローグ 青空と、消え去った雨雲
季節は巡り、校庭の桜の蕾がほころび始める三月。
柔らかな春の日差しが、卒業証書の筒に反射して煌めいている。
俺、相沢翔は、少し大きめの制服に身を包み、母校の正門を見上げていた。今日、俺はこの高校を卒業する。
「翔! 卒業おめでとう!」
背後から明るい声が掛かる。振り返ると、バスケ部の仲間たちが笑顔で手を振っていた。
あの日、あの事件でバラバラになりかけたチームは、皮肉にもあの騒動を乗り越えることで結束を強めた。俺の潔白が証明され、村上という毒が排除されたことで、部活は本来の健全な姿を取り戻したのだ。
結果として、冬の大会では県ベスト4まで勝ち進むことができた。
そして俺の手元には、第一志望だった関東の強豪大学からの「スポーツ推薦入学決定通知書」がある。
「ありがとう。みんなも、元気でな」
俺は笑顔で応えた。
心からの笑顔だ。半年前、絶望の淵に立たされていた自分が嘘のようだ。
村上健吾と牧野結奈。
俺の人生を狂わせかけた二人の名前は、今や俺の中で遠い過去の記憶となりつつある。だが、彼らがどうなったか、そして俺がどう乗り越えたか、その結末だけは記録として留めておく必要があるだろう。
***
まず、元顧問の村上健吾について。
彼の破滅は、それはもう徹底的で、無様で、清々しいほどだった。
俺が提出した隠しカメラの映像は、警察にとって決定的な証拠となった。さらに、警察の捜査によって、彼の余罪がボロボロと出てきたのだ。
遠征費の横領だけではない。部費、OB会費、さらには学校の備品購入費の水増し請求。彼がギャンブルで作った借金を埋めるために着服した総額は、数百万円に上っていた。
そして、未成年の女子生徒に対する淫行と脅迫。
「生徒を守るためだった」という彼の苦しい言い訳は、法廷では何一つ認められなかった。むしろ、「教育者の立場を悪用した卑劣極まりない犯行」として、裁判官の心証を最悪なものにしたらしい。
新聞やテレビのニュースでも大きく取り上げられた。
『部費横領の教師、教え子を脅迫し淫行』
その見出しは、彼の社会的地位を完全に抹殺した。懲戒免職はもちろんのこと、教員免許の剥奪、学校側と保護者からの損害賠償請求。
借金まみれの彼に支払い能力などあるはずもなく、実家は土地を売って賠償金の一部を工面したそうだが、それでも足りずに自己破産したという噂を聞いた。
今は刑務所の中にいる。
執行猶予なしの実刑判決。
かつて生徒たちの前で偉そうに説教を垂れていた男は今、塀の中で番号で呼ばれ、惨めな毎日を送っているはずだ。
俺の金を盗み、俺の女を奪い、俺を見下していた男の末路としては、妥当……いや、それでもまだ生ぬるいかもしれないが、少なくとも俺の視界からは永遠に消えてくれた。
次に、牧野結奈について。
彼女の運命もまた、悲惨なものだった。
事件発覚後、彼女は学校に来られなくなった。
当然だ。村上と共にニュースになり、ネット上では特定され、学校内でも「顧問と寝て彼氏をハメた女」というレッテルを貼られたのだから。
彼女は「停学処分」を受けた後、しばらくして復学しようとしたらしい。
だが、学校の空気は彼女を許さなかった。
直接的なイジメがあったわけではない。ただ、誰も彼女と口を利こうとしなかった。彼女が教室に入ると空気が凍り、彼女が触れたものを皆が避ける。
「腫れ物」扱いだ。
かつてバスケ部のマネージャーとして皆に愛され、笑顔を振りまいていた彼女の居場所は、もうどこにもなかった。
俺は、彼女とは一切連絡を取らなかった。
LINEはブロックし、着信拒否もし、手紙が下駄箱に入っていても読まずに捨てた。
冷たいと思われるかもしれない。だが、俺にとって彼女はもう「加害者」でしかなかった。
「翔くんのため」という言葉を盾に、俺の尊厳を踏みにじった彼女を、受け入れる余地など1ミリも残っていなかったのだ。
風の噂では、彼女は精神的にかなり参ってしまい、心療内科に通っているという。
激痩せし、髪もボサボサになり、かつての可憐な面影は見る影もないそうだ。
だが、俺の心は痛まなかった。
それは彼女が自分で選んだ道の結果だ。
俺に相談せず、安易な自己犠牲に酔いしれた代償だ。
因果応報。その四文字が、これほどしっくりくる結末もないだろう。
***
「相沢、ちょっといいか?」
卒業式が終わり、教室を出ようとした時、担任に呼び止められた。
少し緊張したが、先生の表情は穏やかだった。
「お前には、本当に辛い思いをさせたな。学校として、改めて謝罪したい」
「いえ、もう済んだことですから。推薦の件でも、先生にはお世話になりましたし」
「そう言ってもらえると救われるよ。……ああ、そうだ。実は、牧野が……」
担任が言い淀む。その名前が出た瞬間、俺の眉がピクリと動いた。
「牧野が、最後にどうしてもお前に会って謝りたいと言っているんだが……どうする? 断っても構わんぞ」
俺は少し考えた。
会う必要はない。会って何を話すというのか。
だが、これで最後だ。この高校生活に完全に区切りをつけるために、最後の「儀式」として終わらせるのも悪くないかもしれない。
「……わかりました。手短に済むなら」
俺が承諾すると、先生は複雑そうな顔で頷き、空き教室を指差した。
教室の扉を開ける。
そこには、一人の女子生徒がポツンと立っていた。
牧野結奈。
数ヶ月ぶりに見る彼女の姿に、俺は息を呑んだ。
あまりにも変わっていたからだ。
肌は病的に白く、頬はこけ、目の下には濃い隈がある。制服はブカブカで、まるで骸骨が服を着ているようだった。
かつて俺が好きだった、太陽のように明るい笑顔の少女は、もうそこにはいなかった。
「……翔くん」
彼女が顔を上げる。その瞳は濁り、光を失っていた。
俺の姿を認めると、彼女の目からボロボロと涙が溢れ出した。
「来てくれたんだ……。ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
彼女はその場に土下座した。床に額を擦り付け、嗚咽を漏らす。
「私、バカだった。翔くんのこと、傷つけて……。毎日毎日、後悔してるの。あの時、翔くんに相談していればって……。死んでお詫びしようと何度も思ったけど、怖くて死ねなくて……」
彼女の懺悔は続いた。
村上に騙されていたこと。脅されていた時の恐怖。そして、俺に拒絶された後の孤独な地獄の日々。
それは確かに同情を誘う話だったかもしれない。
だが、俺の心は驚くほど凪いでいた。
怒りも、悲しみも、憎しみさえも湧いてこない。
ただ、目の前で泣いている他人がいる。それだけの感覚だった。
「愛の反対は無関心」。誰かが言った言葉を思い出す。ああ、俺はもう、彼女に対して何の感情も持っていないんだな、と自覚した。
「結奈」
俺が名前を呼ぶと、彼女はビクリと震え、顔を上げた。
期待したのだろうか。俺が許してくれると。かつてのように「大丈夫だよ」と頭を撫でてくれると。
「顔を上げてくれ」
「翔くん……許して、くれるの……?」
縋るような目。
俺は静かに首を横に振った。
「許すとか、許さないとか、そういう話じゃないんだ」
「え……?」
「俺の中で、お前はもう『過去の人』なんだよ。思い出のアルバムの、黒く塗りつぶされたページだ。もう二度と開くこともないし、書き直すこともない」
結奈の表情が凍りつく。
「お前がどれだけ後悔しても、俺が受けた傷は消えない。でも、俺はその傷もひっくるめて、もう前に進んでるんだ。大学も決まった。バスケも続けてる。新しい目標もある」
俺は窓の外を指差した。青い空が広がっている。
「俺の世界にお前はもういない。だから、謝罪もいらない。後悔するなら、一人で勝手にしてくれ。俺を巻き込まないでくれ」
冷酷な言葉。
だが、これが俺の偽らざる本音だった。
中途半端な情けは、お互いのためにならない。
「……そっか。そうだよね……」
結奈は力なく笑った。それは、諦めと絶望が入り混じった、壊れた人形のような笑みだった。
「私、来週引っ越すの。遠くの親戚の家に預けられることになったから。転校して、そこでやり直すつもり」
「そうか。元気でな」
俺は淡々と告げた。
「元気で」という言葉に、深い意味はない。ただの社交辞令だ。
彼女がどこに行こうと、どう生きようと、俺にはもう関係のないことだから。
「さようなら、翔くん。……大好きだったよ」
彼女の最後の言葉を聞き届けることなく、俺は教室を出た。
背後で、再び泣き崩れる気配がしたが、俺は一度も振り返らなかった。
鉄の扉が閉まる音と共に、俺と彼女の縁は完全に切れた。
廊下を歩く。
窓から差し込む春の風が、頬を撫でる。
重荷を下ろしたような、不思議な軽さが体中に満ちていた。
終わった。本当に、全てが終わったんだ。
昇降口を出ると、母さんが待っていた。
パートを抜けて、卒業式に来てくれたのだ。女手一つで俺を育ててくれた、世界で一番尊敬する人。
「翔! 終わった?」
「うん。待たせてごめん」
「いいのよ。……あれ、なんか顔つきが変わった? スッキリした顔してる」
母さんは鋭い。俺の変化をすぐに見抜いたようだ。
「ああ。ちょっと、忘れ物を捨ててきたから」
「忘れ物? ゴミ箱に?」
「そんなとこ。もう必要ないものだから」
俺は笑った。母さんもつられて笑う。
「さあ、帰ろうか。今夜はご馳走よ! 翔の好きなハンバーグ、たくさん作るからね」
「やった! 母さんのハンバーグ、世界一だからな」
俺たちは並んで歩き出した。
校門を出て、坂道を下っていく。
目の前には、どこまでも続く青空と、無限の可能性が広がっている。
大学に行けば、レベルの高いバスケが待っている。
新しい仲間、新しいライバル、そしてもしかしたら、新しい恋との出会いもあるかもしれない。
今度は、俺のことを本当に信じてくれる人と出会いたい。
「あなたのため」なんて言葉で自分に酔うのではなく、隣で一緒に笑い、一緒に泣き、言葉を交わして支え合えるような、そんな関係を築きたい。
ふと、ポケットの中のスマホを取り出す。
待ち受け画面は、バスケ部の仲間たちと撮った集合写真だ。
俺は真ん中で、ボールを抱えて笑っている。
その笑顔に、陰りはない。
俺は一度だけ振り返り、校舎を見上げた。
屋上のフェンス、教室の窓、体育館。
辛い記憶も染み付いた場所だが、それ以上に俺を強くしてくれた場所でもある。
「ありがとう。そして、さようなら」
心の中でそう呟き、俺は前を向いた。
一歩、また一歩。
アスファルトを踏みしめる足音は力強い。
俺の人生は、まだ始まったばかりだ。
横領教師も、裏切った彼女もいない、清々しい未来へ向かって。
俺は大きく息を吸い込み、春の風を胸いっぱいに満たした。
最高に気分がいい。
ざまぁみろ、過去の俺を苦しめた全てのものたちよ。
俺は今、こんなにも幸せだ。




