サイドストーリー 聖女のつもりが、ただの愚者だった
放課後の体育館には、独特の匂いがある。ワックスの匂い、汗の匂い、そして青春の匂い。私はその匂いが大好きだった。
なぜなら、そこにはいつも彼、相沢翔くんがいたからだ。
シュートを打つ時の真剣な横顔、ゴールが決まった時の少年のような笑顔、汗を拭う無造作な仕草。そのすべてが私の世界を彩る光だった。
私は彼のためなら何でもできた。マネージャーとして洗濯や掃除をすることはもちろん、彼が辛い時には励まし、彼が喜ぶなら自分の時間を犠牲にすることさえ、至上の喜びだった。
私の愛は完璧だと思っていた。
彼を支える「良きパートナー」であり、彼の夢を守る「守護者」であると、本気で信じていたのだ。
あの日、悪魔が私の耳元で囁くまでは。
***
「翔くんが……遠征費をなくした?」
あの日、部室で村上先生からその言葉を聞いた瞬間、私の心臓は早鐘を打った。
翔くんは真っ青な顔で立ち尽くし、先生に頭を下げていた。
十五万円。
翔くんのお家が裕福でないことは知っていた。お母さんが一人で苦労して育ててくれていることも。そんな彼にとって、この金額がどれほど重いか、そして「横領」の疑いをかけられることがどれほど致命的か、私には痛いほどわかった。
「退学……退部……」
先生の口から出た不吉な単語が、私の頭の中で反響する。
ダメ。絶対にダメ。
翔くんからバスケを奪ったら、彼はどうなってしまうの? 彼の輝きが失われてしまう。彼の夢が断たれてしまう。
私がなんとかしなきゃ。私が彼を守らなきゃ。
思考回路がショートしそうなほど混乱していた私の耳に、先生の声が滑り込んできた。
「俺が立て替えてやってもいい」
それは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように思えた。
先生は翔くんを一旦外に出し、私と二人きりになった部室で、その糸の「代償」を求めた。
「タダというわけにはいかない。……言っている意味、わかるよな?」
先生の視線が、いやらしく私の体を舐め回した。
吐き気がした。生理的な嫌悪感で鳥肌が立った。
普段は熱血教師を装っているこの男の裏の顔。その醜悪さに震えた。
断りたい。今すぐ逃げ出して、翔くんに言いつけたい。
でも、そうしたら翔くんはどうなる?
「警察に通報する」と先生は言った。翔くんは犯罪者扱いされ、学校を追われる。
そんなの、耐えられない。
(私が……私が我慢すればいいの?)
その考えが頭をもたげた瞬間、奇妙な感覚が私を包み込んだ。
恐怖と同時に湧き上がる、歪んだ高揚感。
愛する人のために、我が身を犠牲にする。それはまるで、悲劇のヒロインのような、崇高な行為に思えたのだ。
私の体なんて、翔くんの未来に比べれば安いものだ。
この穢れは、愛の証だ。
「……わかりました」
私は頷いた。
その瞬間、私は「聖女」になったつもりだった。
実際には、ただの「都合のいい女」に成り下がっただけだということに、気づきもしないで。
***
初めて村上先生のマンションに行った夜のことは、今でも悪夢として蘇る。
高級そうなオートロックのエントランス。冷たいエレベーター。そして、先生の部屋の独特な匂い。
タバコと、安っぽい芳香剤が混ざったような、胸が悪くなる匂い。
「よく来たな、牧野。……翔のため、だったか?」
先生はニタニタと笑いながら私を招き入れた。
その笑顔を見るたびに、私の中の何かが削り取られていく気がした。
行為そのものは、ただただ屈辱的で、苦痛でしかなかった。
先生の肌が触れるたび、翔くんの清潔な笑顔が脳裏に浮かび、涙が溢れてきた。
でも、私は必死に自分に言い聞かせた。
(これは翔くんのため。これで翔くんは救われたの。私は彼を守ったの)
その呪文だけが、私の心を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
事が終わった後、先生は満足げにタバコを吹かしながら言った。
「翔には感謝しろよ。あいつのドジのおかげで、お前も女になれたんだからな」
悔しかった。惨めだった。
シャワーで体を洗い流しても、こびりついた汚れが落ちない気がした。
帰り道、夜風に当たりながら、私は泣きながら帰った。
でも、翌日、部活で翔くんの笑顔を見た時、不思議な安心感に包まれたのだ。
「ああ、この笑顔を守ったのは私なんだ」と。
誰にも言えない秘密を抱えることで、私は翔くんと特別な絆で結ばれたような錯覚に陥っていた。
彼が何も知らずに笑っていられるのは、私が泥を被っているから。
そう思うことで、私は自分を保っていた。いや、自分に酔っていたのだと思う。
それからというもの、私の日常は狂っていった。
先生は味を占めたのか、頻繁に私を呼び出すようになった。
「まだ足りない」「利子がつく」
そんな理不尽な理由をつけて。
私は断れなかった。一度関係を持ってしまった以上、それがバレるのが怖かったし、何より「翔くんのため」という大義名分を失うのが怖かった。
次第に、感覚が麻痺していった。
先生の部屋に行くことが、日常の一部になりつつあった。
翔くんに嘘をつくことへの罪悪感も、薄れていった。
「用事があるから」と言って彼を振り切る時、心のどこかで優越感さえ感じていたかもしれない。
(翔くんは何も知らない。私がどれだけ彼のために犠牲になっているか、可哀想な彼には知る由もない)
そんな、歪んだ見下しが芽生えていた。
私は彼を「守るべき対象」として見ていたけれど、同時に「無力な存在」として軽んじていたのかもしれない。だからこそ、彼に相談するという選択肢が、私の頭の中から完全に消え去っていたのだ。
翔くんが最近、私を見る目が変わってきたことに気づいたのは、一週間ほど経ってからだった。
以前のような真っ直ぐな愛情のこもった瞳ではない。
どこか探るような、冷ややかな視線。
部活中、私が先生の近くにいると、翔くんの視線が突き刺さるのを感じた。
(バレた……?)
不安がよぎる。でも、すぐに打ち消した。
まさか。翔くんが気づくはずがない。彼は純粋で、人を疑うことを知らない人だから。
きっと、最近忙しくて構ってあげられていないから、寂しがっているだけだ。
そう自分に都合よく解釈した。
ある日、ファミレスで翔くんに「タバコの匂いがする」と言われた時は、心臓が止まるかと思った。
先生と同じ銘柄の、強いメンソールの匂い。
私は必死で誤魔化した。
「誰かの煙がついただけ」
苦しい言い訳だった。翔くんは納得していないようだった。
でも、私は逃げた。
本当のことを言えば、全てが崩れ去る。私の「聖女」としての仮面が剥がれ落ち、ただの「汚れた女」としての正体が露見してしまう。
それだけは避けたかった。
私はまだ、悲劇のヒロインでいたかったのだ。
***
終わりの時は、唐突に、そして残酷な形で訪れた。
いつものように体育館で練習の準備をしていた時だった。
スーツ姿の男たちと、制服警官が入ってきた。
「村上健吾さんですね?」
「業務上横領、および青少年保護育成条例違反の容疑で……」
その言葉を聞いた瞬間、私は腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
横領?
どういうこと? 翔くんがなくしたんじゃなかったの?
混乱する私の耳に、翔くんの声が響いた。
「俺です、先生」
「全部、映ってましたよ。部室のカメラに」
翔くんが掲げたスマホの画面。そこには、先生が部費を盗む姿と、私が先生に脅されている姿が映っていたらしい。
私は目の前が真っ白になった。
翔くんは知っていたのだ。
私が先生と寝ていたことを。
そして、先生が犯人だったことを。
先生がみっともなく喚きながら連行されていく。
部員たちがざわめく。
私はただ、震えることしかできなかった。
「翔くんのため」だと思ってやってきたことが、全て無意味だった?
いや、無意味どころか、翔くん自身の手によって暴かれた?
どうして? どうして言ってくれなかったの?
「翔、くん……」
私は縋るように彼の名前を呼んだ。
きっと彼はわかってくれるはずだ。私が脅されていたことを。彼のために体を張っていたことを。
「怖かったね」「辛かったね」と抱きしめてくれるはずだ。
だって、私たちは愛し合っているのだから。
彼は私の、優しい王子様なのだから。
しかし、私を見下ろす翔くんの目は、今まで見たこともないほど冷たかった。
ゴミを見るような目。いや、それ以下の、生理的な嫌悪を含んだ目。
「話は後だ。今は泣くな」
「その言葉(翔くんのため)、二度と口にするな」
突き放された言葉の鋭さに、私の心は切り刻まれた。
彼は知っていたのだ。私の「献身」が、彼にとってはただの「裏切り」でしかなかったことを。
私はその時初めて、自分の犯した罪の重さに気づき始めた。
私は彼を守ったつもりで、彼のプライドを、彼の心を、一番残酷な方法で踏みにじっていたのだと。
その夜は一睡もできなかった。
ネットニュースには事件のことが溢れていた。私の名前も特定され、あることないこと書かれていた。
「顧問とズブズブ」「彼氏を裏切ったビッチ」
画面をスクロールする指が震える。
違う。私は違う。そんなつもりじゃなかった。
私はただ、彼を愛していただけなのに。
翌日、翔くんから呼び出しがあった。
屋上。
私は僅かな希望を抱いて向かった。
ちゃんと説明すれば、わかってくれるかもしれない。
私がどれだけ彼を想っていたか、どれだけ苦しかったか。
彼ならきっと、許してくれる。
そう信じていた。信じたかった。
夕暮れの屋上で、翔くんは私を待っていた。
逆光で表情が見えにくいけれど、その佇まいは凛としていて、私の知っている「守られるべき翔くん」ではなかった。
「翔くん……」
私は精一杯の言葉を紡いだ。
村上先生に騙されていたこと。脅されていたこと。翔くんの夢を守りたかったこと。
涙ながらに訴えた。
これですべてが氷解するはずだ。彼は私の犠牲を知り、感謝し、共に泣いてくれるはずだ。
けれど。
「お前は俺に確認したか?」
その問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
確認……していない。
先生の言葉を信じ、翔くんの言葉を聞こうともしなかった。
「お前は、俺の金を盗んで俺を苦しめた犯人に、俺を救うためと称して抱かれていたんだよ。……これ以上の滑稽な話があるか?」
滑稽。
私の必死の想いは、彼にとっては「滑稽」な喜劇でしかなかった。
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
先生が盗んだ金で、私は先生に抱かれ、それを「翔くんのため」と自分に酔っていた。
なんと愚かなんだろう。
なんと無様なのだろう。
「お前は俺の心を殺した」
「お前の言う『愛』は、ただの自己満足だ」
翔くんの言葉の一つ一つが、正論すぎて、反論の余地がなかった。
私は自分のことしか考えていなかったのだ。「彼を救う私」という役柄に酔いしれて、彼自身の意思や感情を無視していた。
彼が一番辛い時に、彼の隣で一緒に戦うのではなく、安易な道を選んで彼を裏切った。
それが私の罪だった。
「触るな」
「汚らわしいんだよ」
彼が吐き捨てたその言葉が、私の全てを終わらせた。
汚らわしい。
愛する人に、最も言われたくない言葉。
私はもう、彼にとって「恋人」でも「幼馴染」でもなく、ただの「汚物」になってしまったのだ。
彼が去っていく背中に向かって、私は叫んだ。
捨てないで、と。
でも、その扉は無情な音を立てて閉ざされた。
私は屋上に一人、取り残された。
秋の風が冷たく吹き抜ける。
私の体は、村上先生に触れられた記憶と、翔くんに拒絶された記憶で、どうしようもなく冷え切っていた。
***
それからの日々は、色のない灰色の世界だった。
学校に行っても、針のむしろだった。
誰かがヒソヒソと話す声が、すべて私の悪口に聞こえる。
「あれが顧問と寝てた女でしょ?」「彼氏をハメたんだって」「最低だよね」
友人だと思っていた子たちも、私から距離を置いた。当然だ。犯罪に関与した(と見なされた)女と仲良くしたい人なんていない。
翔くんとは、あれ以来一度も話していない。
LINEを送っても既読すらつかない。ブロックされたのだと知った時、スマホを握りしめて声を上げて泣いた。
廊下ですれ違っても、彼は私を空気のように無視する。
その瞳には、かつての温かさは微塵もなく、ただ冷徹な無関心があるだけだ。
彼は新しい生活を始めているようだった。
事件が解決し、彼の潔白が証明されたことで、大学の推薦も無事に決まったという噂を聞いた。
バスケ部でも中心選手として活躍し、笑顔を取り戻しているらしい。
私がいなくても、彼は輝いている。
いや、私がいないからこそ、彼は輝いているのだ。
私は彼の人生にとって、ただの「汚点」であり「障害」でしかなかった。
放課後の教室で、一人机に突っ伏していると、窓の外からバスケ部の掛け声が聞こえてくる。
懐かしいボールの音。
以前なら、私はあそこにいた。
ドリンクを作り、タオルを渡し、彼の隣で笑っていた。
でも、もう二度とあそこには戻れない。
あの輝かしい場所は、私には眩しすぎて、直視することさえできない。
ふと、自分の腕を見る。
村上先生に掴まれた時の痣はもう消えた。
でも、心に刻まれた「愚者」の烙印は、一生消えることはないだろう。
「翔くんのため」という呪文は、今や私自身を縛り付ける鎖となって、私を暗い底へと引きずり込んでいく。
「……バカだなぁ、私」
誰もいない教室で、乾いた呟きが漏れた。
もし、あの日。
村上先生の提案を断り、すぐに翔くんに相談していれば。
二人で悩み、二人で解決策を探していれば。
きっと今頃は、二人で笑い合っていたはずなのに。
簡単なことだったのだ。ただ彼を信じて、彼と向き合えばよかっただけなのに。
私は自ら「悲劇のヒロイン」を選び、そして本当に悲劇の中に堕ちてしまった。
外はもう暗い。
チャイムが鳴り響く。
私は重い体を起こし、鞄を手に取った。
誰も待っていない家へ帰る。
明日もまた、孤独と後悔に苛まれる一日が始まる。
それが、聖女を気取って愛を裏切った私に与えられた、当然の罰なのだから。




