第四話 汚れた愛への決別、そして断罪
翌朝の学校は、まるで巨大な蜂の巣をつついたかのような騒乱の渦中にあった。
登校すると、校門前には数台の報道陣の車が停まっており、カメラを構えた大人たちが教師たちに追い払われている光景が目に入った。
昨夜のニュースで、「県内の公立高校教諭、部費横領と淫行の疑いで逮捕」と大々的に報じられたのだ。実名こそ伏せられていたものの、ネット上ではすでに学校名どころか、村上のフルネーム、そして「被害に遭った女子生徒」として結奈の名前まで特定され、拡散されていた。
教室に入ると、ざわめきが一瞬にして止み、静寂が訪れた。
クラスメイトたちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
そこに含まれているのは、同情、好奇心、そして憐憫。
「あいつが、あの相沢か」「彼女が顧問と……」「可哀想に」
そんなヒソヒソ話が聞こえてくるようだったが、俺は一切気にせず、自分の席に着いた。以前の俺なら、恥ずかしさや屈辱で逃げ出していたかもしれない。だが、今の俺の心は、凍てついた湖面のように静まり返っていた。
ホームルームの時間になり、担任が沈痛な面持ちで現れた。
「えー、皆さんもニュースで知っていると思いますが……」
歯切れの悪い説明。今後の対応については追って連絡するとのこと。そして、生徒指導部からの呼び出しがある生徒は速やかに移動するように、という指示。
俺の名前は呼ばれなかった。当然だ。俺は被害者であり、告発者なのだから。
だが、結奈の席は空だった。彼女は今日、欠席していた。
午前中の授業は自習ばかりになった。教師たちも対応に追われているのだろう。
俺は窓の外を流れる雲をぼんやりと眺めながら、これからのことを考えていた。
村上は終わった。社会的にも、人間的にも。
警察の調べで、俺が提出した動画以外にも、過去数年にわたる横領の証拠が次々と見つかっているらしい。OB会費や修繕積立金にまで手をつけていたという噂も聞いた。
そして、結奈とのことだ。
彼女とは、まだ終わっていない。
昨日、体育館で泣き崩れる彼女を置いて立ち去ったが、きちんと言葉で終わらせなければならない。そうしなければ、俺の中でこの事件は本当の意味で幕を閉じない気がした。
昼休み。俺のスマホが震えた。
メッセージアプリの通知。表示された名前は『結奈』。
指が止まる。開くべきか、無視すべきか。
数秒の逡巡の後、俺は通知をタップした。
『翔くん、ごめんなさい。昨日は取り乱してしまって、ちゃんとお話できませんでした。今日、放課後に学校の屋上に来てくれませんか? 全部、ちゃんと説明したいの。お願い』
文面からは、必死さが滲み出ていた。
説明。
今さら何を説明するというのか。「仕方なかった」「愛ゆえの行動だった」と言い訳を並べるつもりだろうか。
だが、これは好機でもあった。
俺も彼女に伝えなければならない言葉がある。
俺は短く『わかった』とだけ返信し、スマホをポケットにしまった。
***
放課後のチャイムが鳴ると同時に、俺は教室を出た。
部活は当面の間、活動停止だ。体育館からは、いつものボールの音も掛け声も聞こえてこない。不気味なほどの静けさが校内を包んでいる。
階段を上り、屋上へと続く重い鉄の扉を開ける。
錆びついた蝶番が、キィ、と悲鳴のような音を立てた。
屋上には、秋の乾いた風が吹き抜けていた。
フェンスの向こうには、夕焼けに染まり始めた街並みが広がっている。
その手前に、一人の少女が立っていた。
牧野結奈。
制服姿の彼女は、昨日のやつれ方よりもさらに酷く見えた。髪は少し乱れ、目は腫れぼったく、肌は透き通るように白い。
俺の足音に気づき、彼女が振り返る。
「翔、くん……」
弱々しい声。
俺は彼女から数メートル離れた場所で足を止めた。
近づきたくなかった。物理的な距離だけでなく、心の距離を明確にしたかったからだ。
「来てくれたんだね。……ありがとう」
「話ってなんだ。手短に頼む」
俺の冷淡な口調に、結奈はビクリと肩を震わせた。
彼女は両手を胸の前で組み、祈るようなポーズをとる。それは彼女の癖だった。俺に甘える時や、おねだりをする時に見せる、あざとくも可愛い仕草。だが、今の俺にはそれが、自分をか弱い被害者に見せるための演技にしか見えなかった。
「翔くん、昨日はごめんなさい。私、怖くて……パニックになっちゃって」
「ああ、見てたよ。泣き崩れてたな」
「……信じて。私、本当に翔くんのためを思ってやったの」
出た。「翔くんのため」。
俺は鼻で笑った。
「またそれか。具体的に、どういう理屈で俺のためになるんだ?」
「だって……村上先生が、翔くんが遠征費をなくしたって……このままだと退部になるって言ったから。私、翔くんからバスケを奪いたくなかった。翔くんの夢、応援したかったから……」
結奈の目から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
「だから、先生にお願いしたの。何とかしてくれませんかって。そしたら、先生が立て替えてくれるって……その代わりに……」
「体を要求された。で、お前はそれに応じた」
「断ったら、翔くんが退学になるって脅されたの! 私、どうすればよかったの? 翔くんを守るには、それしかなかったの!」
結奈の声が悲痛な叫びとなって屋上に響く。
確かに、一見すれば彼女は被害者だ。教師という権力者に脅され、恋人を人質に取られて、やむなく従った悲劇のヒロイン。
だが、そのシナリオには致命的な欠陥がある。
「結奈。お前、俺に確認したか?」
「え……?」
「村上が『翔がなくした』と言った時、お前は俺に事実確認をしたか? 『本当にお金をなくしたの?』って、俺に聞いたか?」
「そ、それは……先生が、翔くんには言うなって……」
「言われたから黙ってたのか? 俺のことが大事なら、俺の将来がかかってるなら、まずは俺本人に確かめるのが筋じゃないのか?」
俺は一歩、彼女に近づいた。結奈が後ずさりする。
「お前は確認しなかった。俺の言葉よりも、あの詐欺師の言葉を信じたんだ。『翔ならやりかねない』『翔はドジだから』って、心のどこかで俺を見下してたんだろ?」
「ち、違う! そんなこと思ってない!」
「思ってなきゃ確認するはずだ! 『私の翔くんがそんな大事なものをなくすわけない』って疑うはずだ! なのにお前は、村上の嘘を鵜呑みにして、勝手に悲劇のヒロインになりきって、俺に相談もせず体を差し出した!」
俺の怒号に、結奈は言葉を失った。
「しかも、相手は誰だ? 俺をハメた張本人だぞ。俺が金をなくしたんじゃない。村上が盗んだんだ。お前は、俺の金を盗んで俺を苦しめた犯人に、俺を救うためと称して抱かれていたんだよ。……これ以上の滑稽な話があるか?」
俺の言葉は、鋭利な刃物のように彼女の心を抉ったはずだ。
結奈の顔色が、白を通り越して土色になっていく。
「でも……知らなかったの……先生が盗んだなんて、知らなかったの……」
「知らなかったで済む話じゃない。結果として、お前はあいつの共犯者になったんだ。あいつの欲望を満たし、あいつの増長を助け、俺を騙し続けた」
俺はさらに畳み掛ける。
「気づいてたんだろ? 最近の村上の羽振りの良さに。あの高級時計に。あいつの放つ違和感に。お前なら気づかないはずがない。でも、お前は目を逸らした。『これは翔くんのためだから』という美しい嘘で自分を塗り固めて、真実を見ようとしなかった」
「やめて……やめてよ……」
結奈が耳を塞いで首を振る。
「私だって辛かったの! 毎日毎日、先生の家に行って……汚いことされて……気持ち悪くて、死にたかった! それでも、翔くんが部活を続けられるならって耐えてたの! なのに、どうしてそんなに責めるの!? 私こそ被害者なのに!」
逆ギレにも似た反論。
俺は冷めた目で彼女を見下ろした。
そう、彼女は自分が一番可哀想だと思っている。俺の気持ちなんて、これっぽっちも考えていない。
「被害者? ああ、そうだな。お前は村上の被害者だ。それは認める」
「だったら……!」
「だが、俺はお前の被害者だ」
俺の言葉に、結奈が動きを止めた。
「え……?」
「お前は俺の心を殺した。信頼も、愛情も、全部ぶち壊した。俺がどんな気持ちで、お前からするあの男と同じタバコの匂いを嗅いでいたと思う? お前があの男と密室で何をしているか想像して、毎晩どれだけ苦しんだと思う?」
俺は胸に手を当てた。そこにあるのは、癒えることのない傷跡だ。
「俺は、お前が汚れたから怒ってるんじゃない。他の男と寝たから許せないんじゃない」
「……じゃあ、どうして?」
「お前が俺を信じなかったからだ。そして、俺を裏切る行為を『愛』だなんて美辞麗句で飾っているその精神性が、どうしようもなく気持ち悪いからだ」
結奈の瞳が大きく見開かれた。
彼女はようやく理解したのかもしれない。自分が何をしたのかを。
自分の「献身」が、俺にとっては「侮辱」でしかなかったことを。
「しょ、翔くん……ごめんなさい……私が、間違ってた……。許して……もう一度、やり直させて……」
結奈はその場に崩れ落ち、俺の足に縋り付こうとした。
俺は反射的に、一歩後ろに下がってそれを避けた。
彼女の手が空を切り、コンクリートの床を叩く。
「触るな」
俺の声は、絶対零度のように冷たかった。
「……え?」
「その手で触るな。村上に触られた体で、俺に触れるな」
残酷な言葉だとわかっていた。
でも、言わずにはいられなかった。生理的な嫌悪感が、理性を上回っていた。
「汚らわしいんだよ」
トドメの一撃。
結奈の表情が凍りついた。
まるで時間が止まったかのように、彼女は口を開けたまま動かなくなった。
涙すら止まっていた。あまりのショックに、感情の処理が追いつかないのだろう。
「お前の言う『愛』は、ただの自己満足だ。俺をダシにして、悲劇に酔ってただけだろ。そんな歪んだ愛、俺はいらない」
俺は彼女から視線を外した。
これ以上、彼女を見る必要はない。そこにあるのは、かつて愛した少女の抜け殻だけだ。
「さようなら、結奈。二度と俺の前に現れないでくれ」
俺は踵を返し、出口へと歩き出した。
背後から、何かが壊れたような絶叫が聞こえた。
「あああああぁぁぁぁぁーーっ!! 翔くん! 待って! お願い、捨てないでぇぇ!!」
悲鳴のような、慟哭のような叫び声。
だが、俺は一度も振り返らなかった。
鉄の扉を開け、中に入り、重い音を立てて閉める。
その瞬間、結奈の声は遮断された。
階段を降りる俺の足取りは、驚くほど軽かった。
胸の中にあった黒い澱が、綺麗さっぱり消え失せていた。
スカッとした、と言えば不謹慎かもしれない。
だが、確かな解放感があった。
俺を縛り付けていた鎖――村上という悪意と、結奈という偽善――その両方を、俺自身の手で断ち切ったのだ。
校舎を出ると、空は完全に夕闇に包まれていた。
一番星が光っている。
ふと、ポケットの中のスマホを取り出し、連絡先リストを開く。
『牧野結奈』の名前。
俺は迷わず「削除」と「ブロック」を選んだ。
これで本当に終わりだ。
「……腹減ったな」
独り言が漏れた。
そういえば、ここ数日まともに食事をしていなかった気がする。
俺は大きく伸びをした。
バスケ部はしばらく活動停止だろう。推薦の話もどうなるかわからない。
でも、不思議と不安はなかった。
俺にはまだ、自分の力で道を切り開く意思がある。
誰かの歪んだ助けなんていらない。自分の足で、自分の実力で、夢を掴み取ってやる。
「母さんに、今日は美味いものでも買って帰るか」
俺はコンビニの方へ向かって歩き始めた。
冷たい夜風が、俺の火照った頬を冷やしてくれる。
その風は、どこまでも澄んでいて、新しい季節の訪れを告げているようだった。
俺の人生は、ここからまた始まる。
嘘も裏切りもない、真っさらな場所から。




