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第三話 暴かれた横領、崩れ落ちる権威

部室の空気は淀んでいた。少なくとも、俺にはそう感じられた。

早朝、まだ誰も登校していない時間帯を見計らって、俺は部室に忍び込んだ。昨日仕掛けた超小型カメラを回収するためだ。

心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響いている。もし誰かに見つかれば、「部室荒らし」として俺自身が疑われるかもしれない。だが、このリスクを冒してでも手に入れなければならないものがあった。真実だ。


ロッカーの上に置いた埃まみれのダンボール箱。その隙間に忍ばせた黒い小さな箱を、俺は震える手で回収した。

バッテリーは切れていない。録画ランプも点灯していない。予定通りだ。

俺はそれを制服のポケットに深くねじ込むと、逃げるように部室を後にした。


その日の授業は、何一つ頭に入ってこなかった。

黒板の文字がただの記号の羅列に見え、先生の声は遠い国の言葉のように響く。俺の意識は、ポケットの中にある冷たい電子機器に集中していた。

この中に、俺の人生を左右する映像が入っている。

もし何も映っていなければ、俺の疑心暗鬼だったということで終わる。いや、終わらせてほしいと願う弱い自分もいた。結奈が俺を裏切っているなんて、やはり信じたくない。村上先生がそこまでの悪党だなんて、信じたくない。

だが、あのタバコの匂いと、先生の高級時計、そして二人の不自然な態度は、残酷な事実を予感させていた。


放課後の部活は「体調不良」を理由に見学した。

村上先生は「無理するなよ、大事な時期だからな」と、気遣わしげな声をかけてきたが、その瞳の奥には何の感情もなかった。結奈は俺と目を合わせようともせず、忙しそうにドリンクを作っていた。

俺は体育館の隅で、二人の動きを目で追うことしかできなかった。まるで、処刑台に上がる前の囚人のような気分で。


帰宅後、俺は自分の部屋に鍵をかけ、震える手でパソコンを開いた。

SDカードをスロットに差し込む。画面にフォルダが表示される。

動画ファイルがいくつか生成されていた。タイムスタンプを確認する。昨日の放課後、俺が部活を終えて帰った後の時間帯だ。


「……頼む、何も映ってないでくれ」


祈るような気持ちで、再生ボタンをクリックした。


画面には、無人の部室が映し出されている。固定カメラ特有の少し歪んだ映像。

しばらくすると、ドアが開き、村上先生が入ってきた。

彼は周囲を警戒するように見回した後、慣れた手つきでロッカーを開けた。そこは部費や雑費を保管している棚だ。

村上は封筒を取り出し、中身を確認する。そして、数枚の千円札を抜き取り、自分の財布に入れた。

あまりにも自然な動作だった。罪悪感の欠片も見られない。日常茶飯事なのだろう。

俺の心臓が早鐘を打ち始める。

横領だ。間違いなく、こいつは部費を盗んでいる。


だが、地獄はこれからだった。


数分後、再びドアが開き、結奈が入ってきた。

画面の中の彼女は、怯えたように肩を縮こませている。


『先生……もう、やめてください。今日は帰るって言ったのに』

『冷たいこと言うなよ。お前の大好きな翔のためだぞ?』


パソコンのスピーカーから流れる、ノイズ混じりの音声。俺の脳髄を直接殴りつけるような衝撃が走る。

翔のため。

やはり、その言葉が使われていた。


『翔の使い込みを俺が揉み消してやったこと、忘れたわけじゃないよな?』

『忘れてません……でも、もう十分じゃないですか。私、もう耐えられない……』

『十分かどうかは俺が決める。それとも何か? 今から警察に行って、翔が横領しましたって自首させてもいいんだぞ?』

『っ! それだけは……!』


画面の中で、村上が結奈に近づく。結奈は後ずさりし、背中がロッカーにぶつかる。

村上の手が結奈の頬を撫で、そのまま首筋へと這っていく。


『翔には感謝しろよ。あいつが無能で、だらしないお陰で、お前はこうして俺に可愛がってもらえるんだからな』

『……っ、うぅ……』

『泣くなよ。興醒めする。……ほら、こっちを向け』


映像はそこで途切れていたわけではない。

だが、俺は停止ボタンを押した。

もう十分だった。これ以上見たら、俺は発狂してパソコンを破壊してしまうかもしれない。

胃液が逆流してくる。俺はゴミ箱を抱え、嘔吐した。

中身なんて何も出ない。ただ、胃が裏返るような不快感と、全身を駆け巡る悪寒だけがあった。


俺のせいだ。

俺が遠征費を紛失した(と思い込まされていた)せいで、結奈はあんな男に脅され、体を差し出していた。

だが、同時に激しい怒りが湧き上がってくる。

なぜ相談しなかった? なぜ俺を信じなかった?

「翔のため」という言葉に酔い、自分一人で背負い込み、結果として俺を一番傷つける方法を選んだ彼女への怒り。

そして何より、俺を陥れ、俺の大切な人を玩具のように弄んだ村上への、殺意に近い憎悪。


涙は出なかった。

感情が一周して、氷のように冷え切っていた。

俺はパソコンの画面を閉じ、深く息を吐いた。

復讐だ。

ただ殴るだけじゃ生ぬるい。社会的に、人間的に、完全に抹殺してやる。

俺はスマホを取り出し、ある番号を検索した。

警察署。

そして、以前部活のOB会で知り合った、地元新聞の記者をしている先輩の連絡先も。


翌日の放課後。

体育館には、いつも通りの熱気が満ちていた。

ボールが弾む音、シューズが床を擦る音、部員たちの掛け声。

何も知らない彼らは、週末の遠征に向けて最後の調整に余念がない。

俺もその中に混じり、淡々とメニューをこなしていた。

村上先生は腕組みをして、偉そうにコート脇に立っている。時折、怒声を飛ばして指導者ぶっているが、その目はどこか上の空だ。おそらく、今日の練習後にまた結奈を呼び出す算段でもしているのだろう。

結奈はベンチでタオルの準備をしている。顔色は昨日よりもさらに悪い。死人のように生気がない。


「集合!」


練習の終わり際、キャプテンが声をかけた。

部員たちが村上先生の前に整列する。俺もその列に加わった。

村上先生が口を開こうとした、その時だった。


「失礼します」


体育館の入り口から、低い男の声が響いた。

全員の視線が一斉にそちらへ向く。

そこに立っていたのは、スーツ姿の男が二人と、制服警官が二人。

異様な光景に、部員たちがざわめき始める。


「な、なんだ? 何かあったのか?」

「警察……?」


村上先生の表情が強張るのが見えた。

彼は作り笑いを浮かべ、警察官たちの方へ歩み寄った。


「あー、お疲れ様です。バスケットボール部顧問の村上ですが、何か御用でしょうか? 今は練習中なんですが」

「村上健吾さんですね?」


スーツ姿の刑事らしき男が、警察手帳を提示しながら事務的に尋ねる。


「はい、そうですが」

「署までご同行願えますか。業務上横領、および青少年保護育成条例違反の容疑で、事情をお伺いしたい」


体育館の空気が凍りついた。

部員たちは言葉を失い、目を見開いて村上先生と警察官を交互に見ている。

村上先生の顔から、サーッと血の気が引いていく。


「は……? 何を言っているんですか? 横領? 条例違反? 冗談はやめてください。生徒の前ですよ」

「冗談でこんなところまで来ませんよ。証拠は挙がっています」

「証拠だと!? 馬鹿な! 誰がそんなデタラメを!」


村上先生が声を荒げた。その顔は焦りで歪んでいる。

俺は列から一歩前に出た。


「俺です、先生」


俺の声は、自分でも驚くほど静かで、よく通った。

村上先生がギョッとして俺を見る。


「あ、相沢……? お前、何を言って……」

「デタラメじゃありません。全部、映ってましたよ。部室のカメラに」


俺はポケットからスマホを取り出し、画面を村上に見えるように掲げた。

そこには、昨日俺がパソコンで確認した動画の静止画が表示されている。村上が封筒から金を抜く瞬間。そして、結奈に覆いかぶさろうとする瞬間。


「なっ……!?」


村上は絶句し、後ずさりした。

その反応が、何よりの雄弁な自白だった。

部員たちが「えっ、マジかよ」「嘘だろ……」と囁き合う声が聞こえる。


「お前……盗撮したのか!? それは犯罪だぞ!」


村上は逆上し、俺に掴みかかろうとした。

だが、その手はすぐに警官によって取り押さえられた。


「暴れないでください! 公務執行妨害も追加しますよ!」

「離せ! これは罠だ! この生徒が仕組んだんだ! 俺はハメられたんだ!」


村上は無様に叫びながら、床に押さえつけられた。

その姿は、かつての威厳ある指導者のものではなく、ただの哀れな犯罪者でしかなかった。

俺は冷ややかな目で見下ろす。


「罠? 遠征費を盗んで俺のせいにし、『立て替えてやる』と嘘をついて彼女を脅したのは、どこの誰ですか?」


俺の言葉に、周囲の部員たちが息を呑む音が聞こえた。

「相沢の遠征費紛失って、先生がやったのか?」「しかも、彼女って……マネージャーの?」

視線が一斉にベンチの方へ向く。


そこには、腰を抜かして座り込んでいる結奈の姿があった。

彼女は両手で口を覆い、目からは大粒の涙が溢れ出している。

その姿は、被害者のようでありながら、共犯者のようにも見えた。


「相沢……違うの、私は……」


結奈が震える声で何かを言おうとしたが、言葉にならない。

俺は彼女を一瞥もしなかった。今はまだ、彼女と向き合う時ではない。まずはこの男を処理するのが先だ。


「連行します」


刑事が手錠を取り出し、村上の手首にかけた。

カチャリという金属音が、体育館の静寂に響き渡る。それは、村上の教師人生が終わったことを告げる音だった。


「待ってくれ! 俺はやってない! 誤解だ! 校長を呼べ! 弁護士だ!」


村上は往生際悪く喚き散らしたが、警官たちに両脇を抱えられ、ズルズルと引きずられていく。

その醜悪な姿を見て、俺の胸の中にあった重い鉛のような塊が、少しだけ溶けていくのを感じた。

だが、まだだ。まだ完全に晴れたわけではない。


入り口付近には、いつの間にか校長や教頭も駆けつけていた。彼らは青ざめた顔で状況を見守っている。

そして、その後ろには、俺が呼んだ新聞記者の先輩が、こっそりとカメラを構えているのが見えた。

明日の朝刊、あるいはネットニュースで、この事件は大々的に報じられるだろう。

「部費を横領し、部員の彼女に手を出した教師」。

完璧な破滅だ。


村上がパトカーに乗せられるまで、体育館は異様な緊張感に包まれていた。

彼が連れ去られた後、残されたのは重苦しい沈黙だった。

キャプテンが恐る恐る俺に話しかけてきた。


「相沢……お前、大丈夫か? さっきの話、本当なのか?」

「ああ。全部本当だ。迷惑かけてごめん、キャプテン」

「いや、謝るのはお前じゃないだろ……。信じられねぇよ、先生がそんなことしてたなんて」


部員たちは動揺を隠せない様子で、口々に不安を口にしている。遠征はどうなるのか、部は存続できるのか。

そんな中、俺はゆっくりと結奈の方へ歩み寄った。

彼女は床に崩れ落ちたまま、肩を震わせて泣いていた。

俺の足音が近づくと、彼女はビクリと反応し、怯えたような目で俺を見上げた。


「翔、くん……」


その瞳には、救いを求めるような色が浮かんでいた。

まだ、自分が「被害者」として受け入れられると思っているのだろうか。

「怖かった」「助けてほしかった」と言えば、俺が抱きしめてくれるとでも思っているのだろうか。


「……話は後だ。今は泣くな」


俺は冷たく言い放った。

優しさなど微塵もない声だった。

結奈は息を呑み、さらに激しく泣きじゃくった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……翔くんのために……」


「翔くんのために」。

その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。

まだ言うか。その呪いの言葉を。

俺を地獄に突き落とすための免罪符を、まだ使う気か。


「その言葉、二度と口にするな」


俺は低い声で告げた。

周囲の部員たちが、俺のただならぬ雰囲気に気付き、距離を取る。

結奈は絶望に染まった顔で、首を横に振ることしかできなかった。


その日の部活は、当然ながらそこで解散となった。

警察の事情聴取が後日行われること、明日は臨時休校になるかもしれないことなどが教頭から告げられた。

俺は荷物をまとめ、誰とも口を利かずに体育館を出た。

外はすでに暗くなっていた。

冷たい夜風が、火照った体に心地よい。


「終わったな」


俺は一人呟いた。

村上は逮捕された。証拠は完璧だ。あいつはもう二度と教壇には立てないし、社会的に抹殺されるだろう。

ざまぁみろ、と思う反面、心の中には虚しさが広がっていた。

復讐は成功した。だが、失ったものは戻ってこない。

俺の純粋だった恋心も、部活への情熱も、村上と結奈によって汚されてしまった。


ポケットの中でスマホが震えた。

母さんからだ。『警察から電話があったわ。あんた、大丈夫なの!?』というメッセージ。

俺は『大丈夫。全部解決したから』とだけ返信した。

解決? いや、まだだ。

俺にはまだ、終わらせなければならないことがある。

結奈との関係だ。


あの泣き顔が脳裏に焼き付いている。

彼女はきっと、俺に許しを乞うだろう。「仕方なかった」と訴えるだろう。

だが、俺は知っている。

彼女が村上の家に行くことを選んだ時、俺に相談するという選択肢を捨てたことを。

俺の無実を信じて戦うことよりも、安易に体を売って解決することを選んだその精神性を。

それは「献身」ではない。「自己陶酔」だ。

そしてその自己陶酔が、俺を一番傷つける刃になったことを、彼女に理解させなければならない。


明日、彼女と最後の話をしよう。

そして、全てを終わらせるんだ。


俺は夜空を見上げた。

星は見えなかった。街の明かりにかき消されて。

だが、今の俺にはその暗闇の方が相応しい気がした。

一歩踏み出す足取りは、不思議と軽かった。

少なくとも、もう「村上の奴隷」ではないし、「寝取られ男」というピエロでもない。

俺は俺の意思で、この茶番劇に幕を下ろしたのだから。

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