第二話 歪んだ献身、腐った果実
「ナイスシュート、相沢!」
チームメイトの声と共に、俺の放ったボールがネットを揺らした。遠征費の紛失事件から一週間。俺は憑き物が落ちたように、あるいは何かに追われるように練習に没頭していた。
あの日、村上先生が「ポケットマネーで立て替える」と申し出てくれたおかげで、俺の首は繋がった。部活動停止も、推薦取り消しも、全ては悪夢だったかのように消え去った。
俺は村上先生に心から感謝し、絶対にこの恩を返そうと誓った。結果で示すしかない。この遠征でスカウトの目に留まり、強豪大学への推薦を勝ち取ること。それが今の俺にできる唯一の誠意だと思っていた。
「集合!」
キャプテンの声で部員たちが整列する。村上先生がゆっくりと歩み出てきた。
以前のようなピリピリとした威圧感は鳴りを潜め、最近の先生はどこか機嫌が良さそうに見える。肌艶が良く、余裕すら感じさせるその態度は、俺のトラブルを解決してくれた「大人の余裕」なのだろうと、俺は好意的に解釈していた。
「今週末はいよいよ遠征だ。各自、コンディションの調整を怠るなよ。特に三年生は最後のチャンスだと思え」
先生の訓示を聞きながら、俺は視線を横に向けた。そこには、スコアブックを抱えた結奈が立っている。
だが、目が合わない。
以前なら、練習の合間や集合の時に視線が合うと、彼女は小さく手を振ったり、ニコリと微笑んでくれたりしたものだ。しかし、ここ数日、結奈は俺と目を合わせようとしない。常に伏し目がちで、どこか上の空だ。
顔色も優れない。目の下には薄っすらと隈ができているように見える。
「おい、相沢。何よそ見してるんだ」
「す、すみません!」
村上先生に名前を呼ばれ、俺は慌てて姿勢を正した。先生はニヤリと笑っている。
「彼女のことが心配なのは分かるが、部活中は集中しろ。……牧野も、しっかりサポートしてやれよ。お前には『特別』に期待してるんだからな」
「……はい」
結奈がビクリと肩を震わせ、蚊の鳴くような声で返事をした。その様子に、俺は微かな違和感を覚える。
「特別に期待している」。教師が生徒にかける言葉として不自然ではないが、その時の村上先生の言い方には、どこか粘着質な響きが含まれていた気がした。そして、それに対する結奈の反応も、激励を受けたマネージャーのそれではなく、まるで叱責を恐れる小動物のようだったからだ。
練習が終わり、片付けの時間になる。俺はモップ掛けをしながら、結奈に近づくタイミングを伺っていた。
最近、彼女は練習が終わるとすぐに帰ってしまう。「家事の手伝いがあるから」「親戚の家に行かなきゃいけないから」と、何かと理由をつけて。
今日も彼女は足早に部室棟を出ていこうとしていた。
「結奈!」
俺はモップを壁に立てかけ、小走りで彼女を追いかけた。下駄箱の前でようやく追いつく。
「あ、翔くん……」
「最近、すぐ帰っちゃうから話す時間なくてさ。少しだけ、話せないか?」
俺がそう言うと、結奈は困ったように眉を下げ、視線を泳がせた。
「ごめんね、翔くん。今日もちょっと用事があって……」
「用事って、毎日? もしかして、家のことで何かあったのか? 俺でよかったら相談に乗るよ」
俺は心配して彼女の肩に手を置こうとした。
その瞬間。
「っ!」
結奈が過剰なほど大きく身を引いた。まるで、汚いものに触れられるのを拒むかのように、あるいは、触れられることに恐怖しているかのように。
俺の手は空を切り、気まずい空気が流れる。
「……あ、ご、ごめん。静電気かと思って……」
結奈は顔面蒼白で、震える声で言い訳をした。だが、今の拒絶反応は静電気などではない。明らかに俺の接触を拒んだものだ。
「結奈、俺、何かしたか? 嫌われるようなこと……」
「違うの! 違うの、翔くんは何も悪くないの!」
結奈は必死に首を振った。その目には涙が溜まっている。
「ただ、私が……私がちょっと疲れてるだけだから。ごめんね、本当にごめんね」
「そ、そうか……。無理すんなよ」
「うん。……翔くん、遠征頑張ってね。応援してるから」
そう言い残すと、彼女は逃げるように校門へと走っていった。
残された俺は、言い知れぬ不安に包まれていた。
彼女が変わってしまった。あの日、遠征費の紛失事件があったあの日から、何かが確実に狂い始めている。
数日後。違和感は確信へと変わりつつあった。
部活の休憩中、俺はベンチでドリンクを飲んでいた。隣にはチームメイトの佐藤が座り、汗を拭いている。
「なぁ、最近村上先生、羽振りよくね?」
「え?」
佐藤の言葉に、俺は顔を上げた。視線の先には、パイプ椅子に座ってスマホをいじっている村上先生の姿がある。
「あ、時計か?」
「そうそう。あれ、多分ウブロだぜ? 新品なら百万近くするんじゃないか?」
佐藤が指差した先、先生の左手首には、重厚な輝きを放つ黒い腕時計が巻かれていた。以前は安物のスポーツウォッチをしていたはずだ。
「へぇ、すげぇな……」
俺は相槌を打ちながら、胸の奥で黒い疑念が渦巻くのを感じた。
百万の時計?
村上先生は独身だが、公立高校の教師の給料で、そう簡単に買えるものだろうか。しかも、先生はつい先日、俺のミスのために十五万円を立て替えてくれたばかりだ。「俺にとっても安くない金だ」と言っていたのを覚えている。
金がないと言っていた人間が、その直後に高級時計を身につけるだろうか?
「それにさ、なんか雰囲気変わったよな。前はもっと暑苦しかったのに、最近は妙にスカしてるっていうか……色気づいた?」
「……そうかもな」
俺は曖昧に答えたが、佐藤の指摘は的確だった。
最近の村上先生からは、妙な「男の臭い」がする。整髪料を変えたのか、それとも香水か。そして何より、その視線だ。
俺がふと視線を向けると、村上先生がじっと結奈を見つめていることに気づくことがある。指導者としての観察ではない。品定めするような、あるいは所有物を愛でるような、ねっとりとした視線。
そして結奈は、その視線に気づくと、怯えたように体を小さくするのだ。
その日の練習後、俺は勇気を出して、もう一度結奈を誘った。
「結奈、今日こそ少し付き合ってくれないか? 駅前のファミレスでいいから」
結奈は一瞬躊躇したが、俺の真剣な表情を見て、小さく頷いた。
俺たちは並んで学校を出た。夕闇が迫る通学路。以前なら手を繋いで歩いた道だが、今の俺たちの間には、見えない壁があるようだった。
ファミレスに入り、ドリンクバーのジュースを前に向かい合う。
結奈はストローをいじりながら、ずっと俯いている。
「結奈」
「……なに?」
「単刀直入に聞くけど、村上先生と何かあったのか?」
俺の言葉に、結奈の手がピタリと止まった。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「最近のお前、変だよ。俺を避けてるし、先生を見る目が怯えてる。あの日、先生と何か話したんだろ? 俺に隠してること、あるんじゃないか?」
俺はできるだけ優しく問いかけた。彼女を責めたいわけじゃない。ただ、不安を取り除きたかった。
結奈は唇を噛み締め、しばらく沈黙していたが、やがて顔を上げた。
その瞳には、悲壮な決意のような色が宿っていた。
「……何もないよ。本当に」
「嘘だ。目が泳いでる」
「嘘じゃないっ! 私、翔くんのために一生懸命マネージャーやってるつもりだよ? それなのに、そんなふうに疑われるなんて……ひどい」
結奈が声を荒げたことに、俺は驚いた。彼女がこんな風に感情を露わにすることは滅多になかったからだ。
しかし、彼女の言葉の端々に、奇妙な論理の飛躍を感じた。「翔くんのために」という言葉。それを盾に、何かを正当化しているような響き。
「ごめん、疑ってるわけじゃないんだ。ただ、心配で……」
「心配しないで。私は大丈夫だから。……全部、上手くいってるから」
上手くいってる? 何がだ?
俺がその言葉の意味を問いただそうとした時、ふと、ある匂いが鼻をかすめた。
店内の空調の風に乗って、結奈の方から漂ってきた匂い。
それは、甘ったるいシャンプーの香りに混じった、独特の苦味を含んだ匂いだった。
タバコの匂いだ。
しかも、ただのタバコじゃない。メンソールの強い、特徴的な銘柄。
俺の記憶の引き出しが、ガチャンと音を立てて開いた。
この匂いは、村上先生が吸っているタバコと同じだ。部室の前や、体育館裏の喫煙所で、先生とすれ違った時にいつも香る匂い。
なぜ、タバコを吸わない結奈から、この匂いがするんだ?
「結奈……お前、タバコの匂いがする」
「えっ!?」
結奈は弾かれたように自分の服の袖に鼻を近づけ、顔を青ざめさせた。
「そ、そんなことないよ! 多分、ファミレスの喫煙席の近くを通ったから……」
「ここは全席禁煙だぞ」
俺の指摘に、結奈は言葉を詰まらせた。
決定的な沈黙が流れる。
俺の脳内で、バラバラだったピースが不吉な形を成して組み合わさっていく。
高級時計。先生の視線。結奈の拒絶反応。そして、共有された匂い。
まさか。
いや、ありえない。そんな馬鹿なことがあるはずがない。
教師と生徒だぞ? しかも、彼女は俺の恋人で、村上先生はそれを知っている。
だが、もし。
もし、あの「遠征費の立て替え」に、裏の条件があったとしたら?
「……もう帰る」
結奈は逃げるように席を立った。
「待てよ、結奈!」
「ついて来ないで! 一人にして!」
彼女は伝票を掴むと、レジに小銭を叩きつけ、店を飛び出していった。
俺は呆然と見送ることしかできなかった。
残されたジュースの氷が、カランと虚しい音を立てて溶けていく。
その夜、俺は眠ることができなかった。
ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、最悪の想像を振り払おうとした。
だが、一度芽生えた疑念は、毒草のように根を張り、俺の思考を侵食していく。
俺はスマホを取り出し、暗い部屋の中で検索をかけた。
『ウブロ ビッグバン 価格』
画面に表示された数字を見て、俺は息を呑んだ。
百五十万円から二百万円。
中古でも百万は下らない。
やはり、ただの公立教師が気軽に買える値段ではない。借金があるという噂も耳にしたことがある。そんな男が、なぜ今、こんな高価なものを?
そして、ふと思い出した。
あの日、俺が紛失した遠征費は十五万円。
もし、村上先生が、他にも横領をしていたとしたら?
部費の管理は杜撰だ。遠征費だけでなく、部活動費、用具代、OB会費……。合わせればかなりの額になる。
もし、俺の「紛失」自体が仕組まれたものだとしたら?
俺が盗んだわけじゃない。俺は確かに金庫に入れた。鍵も持っていた。
だが、合鍵を持っている人間がもう一人いる。
顧問の村上だ。
背筋に氷水を浴びせられたような寒気が走った。
村上が金を盗んだ。そして、それを俺のせいにした。
さらに、「立て替えてやる」という甘い言葉で恩を売り、その対価として結奈に何かを要求したとしたら……?
もしそうなら、結奈が「翔くんのため」と言っていた意味が繋がってしまう。
彼女は、俺を守るために、あの男の要求を飲んだのか?
俺の身代わりになって?
「う、うわああああああああ!」
俺は枕に顔を押し付け、声にならない叫びを上げた。
吐き気がする。想像するだけで、内臓が裏返りそうだ。
俺がのほほんと「助かった」と安堵していた時、結奈はあの男に汚されていたのか?
俺の知らないところで、俺を救うという歪んだ正義感に縛られて、あの薄汚い教師の慰み者にされているのか?
あの時計はなんだ? 横領した金で買ったのか? 俺たちが必死に集めた部費で、あの男は左腕を飾り、その同じ手で俺の彼女を触っているのか?
「許さない……絶対に許さない……!」
疑念は確信へ、そして激しい憎悪へと変わった。
まだ証拠はない。だが、状況証拠はあまりにも黒だ。
もし俺の想像が正しければ、村上は俺の金を盗み、俺の尊厳を奪い、俺の最愛の女性を蹂躙している。
そして結奈も……彼女が被害者だとしても、俺に相談せず、勝手に「悲劇のヒロイン」を演じて俺を裏切っていることに変わりはない。
「翔くんのため」? ふざけるな。そんな汚れた体で俺が喜ぶとでも思ったのか。
信頼していた二人に、後ろから刺された気分だった。
翌日。俺は普段通りに登校し、普段通りに部活に出た。
だが、その目はもう、ただの部員の目ではない。
獲物を狙う狩人の目だ。
部室の隅、誰からも死角になるロッカーの上に、俺はスマホを設置した。
使っていない古いスマホだ。録音アプリを起動し、黒いテープで目立たないように固定する。
村上先生は、着替えや休憩の時、よく一人で部室に残る。そして、結奈を呼び出すのもこの場所だ。
練習中、俺は今まで以上に声を出し、懸命にプレーした。村上先生に怪しまれないためだ。
「相沢、いい動きだぞ!」
村上の能天気な声が聞こえる。心の中で中指を立てる。
(笑っていられるのも今のうちだ。地獄に落としてやる)
そして、運命の瞬間は訪れた。
練習が終わり、全員が帰宅した後。俺は「忘れ物をした」と言って、一人で部室棟に戻った。
忍び足で部室に近づく。中から話し声が聞こえる。
男の粘着質な声と、女のすがるような声。
「先生、もう約束の時間過ぎてます……。今日は帰らせてください」
「なんだ、つれないな。昨日はあんなに感じてたくせに」
「やめてください……! 誰かに聞かれたら……」
「誰が聞くんだ? 相沢か? あいつは今頃、俺に感謝しながら家で寝てるさ。馬鹿な奴だよなぁ、自分の女が俺に抱かれてることも知らずに」
ドアの隙間から漏れる会話。俺は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んで血が滲むのを感じた。
間違いない。
こいつらは、俺を騙している。
俺の怒りは沸点を超え、逆に冷徹なほどに静まり返った。
今ここで乗り込めば、彼らを問い詰めることはできる。だが、それでは「痴話喧嘩」で終わらされる可能性がある。村上は教師だ。口がうまい。「相談に乗っていただけだ」と言い逃れするかもしれない。
確実に社会的に抹殺し、二度と立ち上がれないようにするためには、決定的な証拠が必要だ。
金だ。
横領の証拠。
そして、未成年に対する淫行の証拠。
俺は息を殺し、部室のドアからそっと離れた。
スマホは録音を続けているはずだ。
明日、この音声を確認し、さらなる罠を仕掛ける。
村上が再び金を盗む瞬間、あるいは結奈に手を出している決定的瞬間を、映像で押さえる。
俺は夜の校庭を歩きながら、夜空を見上げた。
月が綺麗だった。だが、今の俺にはその美しさすら不快だった。
「待ってろよ、村上。そして結奈」
俺の呟きは、夜風に吸い込まれて消えた。
純粋な愛も、夢への情熱も、もうここにはない。あるのは、ドス黒く冷たい復讐の炎だけだった。
数日後、俺はネット通販で購入した超小型カメラを手に、再び部室へと向かう。
舞台は整いつつあった。
破滅のカウントダウンが、静かに時を刻み始めていた。




