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第一話 消えた封筒と悪魔の囁き

ダム、ダム、ダム、シュッ。


体育館に、バスケットボールが床を叩く重い音と、ネットを揺らす乾いた音が交互に響く。俺、相沢翔あいざわ かけるは、滴り落ちる汗を腕で拭うこともせず、ひたすらにスリーポイントラインの外側からシュートを打ち続けていた。

放課後の体育館は、他の部員たちが帰り支度を始めているため、徐々に喧騒が遠ざかっていく。西日が高い窓から差し込み、舞い上がる埃を金粉のように照らし出していた。


「翔、まだやるの? もう完全下校時刻だよ」


ボール拾いをしてくれていたマネージャーの牧野結奈まきの ゆいなが、心配そうに声をかけてくる。彼女の手には、俺専用のドリンクボトルとタオルが握られている。

結奈は高校入学時からの付き合いで、マネージャーとして入部してきた彼女の献身的な姿に惹かれ、一年生の冬から付き合い始めた。少し茶色がかったボブカットがよく似合う、小動物のように愛らしい彼女は、俺にとって唯一の安らぎであり、最大の理解者だ。


「あと十本。いや、五本入れたら上がるよ」

「もう、翔は本当にバスケ馬鹿なんだから。でも、そういうところが好きだけどね」


結奈はふわりと微笑むと、転がってきたボールを拾い上げ、俺に向かってチェストパスを放った。

俺がここまでバスケに打ち込むのには理由がある。

俺の家は母子家庭だ。親父は俺が小さい頃に蒸発し、母さんは昼夜を問わずパートを掛け持ちして俺を育ててくれた。決して裕福ではない。いや、正直に言えば貧しい部類に入るだろう。

今の私立高校に入れたのも、特待生制度のおかげで学費が免除されているからだ。そして、俺が目指しているのは大学へのスポーツ推薦。強豪大学に進み、プロになって母さんを楽にさせてやりたい。それが俺の全てだった。


「よし、ラスト!」


手首のスナップを効かせ、放物線を描いたボールは、リングに触れることなく吸い込まれた。心地よい疲労感と共に、俺はその場に座り込む。


「お疲れ様、翔くん」


すかさず結奈がタオルを渡してくれる。汗を拭きながら見上げた彼女の瞳には、俺への真っ直ぐな信頼と愛情が宿っていた。この視線に応えるためにも、俺は絶対に夢を叶えなきゃならない。


「ありがとう、結奈。……あ、そうだ。例のもの、確認しないとな」

「うん、部室の金庫だよね。大丈夫だよ、私が鍵閉めたし」


俺たちは片付けを済ませると、部室棟へと向かった。

今週末には、遠征合宿が控えている。県外の強豪校との練習試合が組まれた重要な遠征だ。部員一人あたり一万円の徴収。部員数は十五名。合計十五万円の大金が、昨日のうちに集金されていた。

顧問の村上先生からは、「お前はキャプテン代理なんだから、責任を持って管理しろ」と厳命されていた。本来ならすぐに先生に渡すべきだったが、昨日は先生が早退していたため、部室にある簡易金庫(といっても、暗証番号式の小さな手提げ金庫だが)に入れて保管していたのだ。


部室に入ると、独特の制汗スプレーと汗の匂いが鼻をつく。俺はロッカーの奥に隠すように置いていた金庫を取り出した。


「これがあれば、みんなで遠征に行けるね。翔くんが活躍するところ、楽しみだなあ」


結奈が隣で無邪気に笑う。俺はダイヤルを回し、ガチャリという音と共に蓋を開けた。

中には、茶封筒が入っているはずだった。部員たちの名前が書かれたチェックリストと共に、分厚い札束が入った封筒が。


しかし。


「……え?」


俺の口から、間の抜けた声が漏れた。

ない。

金庫の中は、空っぽだった。


「翔くん? どうしたの?」

「な、ない……。封筒が、ないんだ」

「えっ、嘘でしょ? だって、昨日の帰り、翔くんが入れるところ私見てたよ? 鍵だって……」


結奈が慌てて金庫の中を覗き込む。だが、何度見ても、箱の底の冷たい金属が見えるだけだ。

心臓が早鐘を打ち始める。冷や汗が一気に噴き出した。

十五万円。

俺の家にとっては、数ヶ月分の食費に相当する大金だ。もし紛失したとなれば、ただでは済まない。


「どこだ、どこにやった……? カバンの中か? いや、絶対に入れたはずだ」


俺は半狂乱で部室中を探し回った。ロッカーの中、ベンチの下、自分のカバンの中身を全て床にぶちまけて確認する。だが、茶封筒はどこにもない。

思考が真っ白に染まっていく。

スポーツ推薦の話はどうなる? 親に弁償なんて頼めるわけがない。母さんは今の生活で手一杯なんだ。十五万円なんて請求されたら、母さんは過労で倒れてしまうかもしれない。


「どうしよう、結奈……。俺、どうしたら……」


震える声で呟いたその時、部室のドアが乱暴に開かれた。


「おい、いつまで残ってるんだ。さっさと帰らんと施錠できんだろ」


入ってきたのは、顧問の村上健吾むらかみ けんごだった。

三十代前半で、生徒からは「熱血教師」として慕われているが、俺は以前からこの男の目に得体の知れない爬虫類のような冷たさを感じていた。だが、バスケ部の顧問としては有能で、俺の推薦の口利きもこの男が握っている。


「む、村上先生……」

「ん? なんだ相沢、顔色が悪いぞ。……まさか、何かあったのか?」


村上の鋭い視線が、床に散乱した俺の荷物と、空っぽの金庫に向けられる。その瞬間、村上の目が怪しく細められたのを俺は見逃さなかった。だが、今の俺にそれを深く考える余裕はない。


「先生、すみません! 遠征費が……遠征費がなくなったんです!」

「なんだと!?」


村上の怒声が狭い部室に響き渡る。俺は反射的に直立不動の姿勢を取った。


「昨日のうちに集めた十五万円、ここに入れておいたはずなんです。でも、今開けたら……」

「ふざけるな! 十五万円だぞ!? お前、その金がどういう意味を持つかわかってるのか!」


村上が俺の胸ぐらを掴み、壁に押し付ける。背中に走る衝撃よりも、村上の吐く言葉の鋭利さが俺を抉った。


「管理責任はお前にある。鍵の管理もお前だ。部室の鍵を持っているのは俺とお前だけだが、俺が盗るわけがないだろう? つまり、お前が盗ったか、お前の管理が杜撰だったせいで誰かに盗まれたか、そのどちらかだ」

「ち、違います! 俺は盗ってません! 鍵だって肌身離さず……」

「言い訳はいい! 事実は『金がない』ということだけだ!」


村上は俺を突き放すと、わざとらしくため息をついて髪をかきむしった。


「これは大問題だぞ。警察沙汰になれば、部の活動は停止。当然、今度の遠征は中止だ。それだけじゃない。管理責任者であるお前は、停学か、最悪の場合は退学処分もあり得る」


退学。その二文字が、俺の頭上で死刑宣告のように響く。


「そ、そんな……。俺、大学の推薦が……」

「推薦? 馬鹿言え。横領疑惑のある生徒を推薦する大学なんてあるわけないだろう。お前のバスケ人生はここで終わりだ」


目の前が真っ暗になった。

母さんの顔が浮かぶ。「翔、頑張ってね」と言って送り出してくれた朝の笑顔が、ひび割れて崩れ落ちていく。俺の不注意で、母さんの期待も、俺の夢も、全てが終わる。


「先生、お願いします! 何とか……何とかしてください! お金は、俺がなんとかして弁償しますから!」


俺はプライドも何もかも捨てて、村上の足元に頭を下げた。今すぐ十五万円を用意する当てなんてない。バイトも禁止されている俺に返せる額ではない。それでも、警察沙汰や退部だけは避けたかった。


「弁償? 母子家庭のお前の家にか? 母親に泣きつくのか? 十五万円なんて大金、すぐに用意できるわけがないだろう」


村上の言葉は残酷なほど的確だった。図星を突かれ、俺は言葉を失う。


「……はぁ。困った奴だ。才能だけは評価していたんだがな」


村上はしばらく沈黙した後、チラリと横に立っていた結奈を見た。結奈は顔面蒼白で、震えながら俺たちのやり取りを見守っていた。


「……よし。相沢、お前は一旦外に出て頭を冷やしてこい。少し考える」

「えっ……」

「聞こえんのか。牧野、お前はここに残れ。マネージャーとして、当時の状況を詳しく聞きたい」


村上の意図が読めなかったが、今の俺に逆らう権利はない。「はい……」と力なく返事をし、俺は重い足取りで部室を出た。

廊下の冷たい空気が、火照った頬を撫でる。俺は壁にもたれかかり、ズルズルと座り込んだ。

自分が情けなくて、悔しくて、涙が滲んでくる。なんでこんなことになったんだ。俺がもっと注意していれば。いや、そもそも誰が盗んだんだ? 外部の人間か?

思考が堂々巡りを繰り返す中、閉ざされた部室のドアの向こうで、何かが話し合われている気配だけがした。


***


部室の中。

村上は、外に出て行った翔の足音が遠ざかるのを確認すると、施錠し、ゆっくりと結奈の方へ向き直った。先程までの激昂した様子は消え失せ、ねっとりとした視線が結奈の身体を舐めるように這う。


「さて、牧野。状況は理解しているな?」

「は、はい……。でも、翔くんは絶対に盗んだりしません! 私、ずっと見てました!」


結奈は必死に訴える。その純粋さが、村上の歪んだ欲望を刺激した。

実は、金を盗んだのは村上自身だった。昨日の夜、見回りと称して部室に入り、翔が隠した金庫を合鍵で開け、中身を抜き取ったのだ。村上はギャンブルで膨らんだ借金の返済に追われていた。部費の横領はこれが初めてではない。だが、今回は額が大きい。バレた時のリスクを考え、翔に罪を被せるシナリオを描いたのだ。

そして、もう一つの目的。

目の前にいる、健気で美しい教え子を手に入れること。


「俺もそう信じたいよ。だが、世間はそうは見ない。金庫の番号を知っていて、鍵を持っていたのは相沢だ。警察が来れば、指紋なり何なり調べられて、結局は彼が疑われる。貧乏人は金に汚い、とな」

「そんなっ……!」

「彼が警察に連行される姿、見たいか? 母親が泣き崩れる姿を、お前は見たいのか?」


村上は一歩ずつ結奈に近づいていく。結奈は後ずさりし、背中がロッカーに当たった。


「嫌です……。翔くんの夢を、壊したくない……」

「そうだろうな。あいつは才能がある。このまま潰すのは惜しい。……そこでだ」


村上は結奈の耳元に顔を寄せ、悪魔の囁きを落とした。


「俺が立て替えてやってもいい」

「え……?」

「今回の十五万円、俺がポケットマネーで補填して、『金庫の隙間に落ちていた』とでも報告すれば、全て丸く収まる。相沢のミスも帳消しだ。遠征も行けるし、推薦の話も消えない」


結奈の瞳に希望の光が宿る。


「本当ですか!? お願いします、先生! 翔くんを助けてください!」

「ああ、助けてやるよ。……ただし」


村上はニヤリと唇を歪めた。


「タダというわけにはいかない。十五万円だぞ? 俺にとっても安くない金だ。それ相応の『誠意』を見せてもらわないとな」

「せ、誠意……? 私、バイトして少しずつなら返せます! 親に頼んで……」

「馬鹿か。金の話じゃない。そんなことを親に言えば、結局相沢のミスがバレるだろうが」


村上は結奈の肩に手を置き、その指をゆっくりと鎖骨の方へ滑らせた。結奈がビクリと身を震わせる。


「俺は独り身でね。家に帰っても寂しいんだ。……言っている意味、わかるよな?」


結奈は息を呑んだ。村上の目にあるどす黒い欲望の意味を理解し、顔から血の気が引いていく。


「そ、そんな……先生……」

「嫌ならいい。今すぐ警察に通報するだけだ。相沢の人生は終わり。母親も村八分だろうな」


村上はポケットからスマホを取り出し、画面をタップする素振りを見せる。


「待って!」


結奈が悲鳴のような声を上げた。


「待って……通報しないで……」

「なら、どうする? お前が相沢を救うんだ。あいつのために、お前が犠牲になる。……美しい話じゃないか」


村上の言葉が、毒のように結奈の心に染み込んでいく。

翔くんのため。

その言葉だけが、混乱する彼女の頭の中でリフレインしていた。翔の笑顔、バスケをしている時の真剣な眼差し、そして先程の絶望に染まった顔。

私が我慢すれば、彼は助かる。私が汚れるだけで、彼の夢は守られる。


「……わかり、ました」


結奈は蚊の鳴くような声で答えた。目からは一筋の涙が零れ落ちる。


「聞こえんな。やるのか、やらないのか」

「やります……。だから、翔くんを、助けて……」


村上は満足げに頷くと、結奈の頭を乱暴に撫でた。


「いい子だ。交渉成立だな。……今夜、九時に俺のマンションに来い。場所はここだ」


村上はメモを渡すと、ニタリと笑った。


「相沢には『上手く誤魔化せた』とだけ伝えておけ。余計なことを言ったら、即座に通報するからな」


***


十分ほど経っただろうか。部室のドアが開き、結奈が出てきた。

俺は慌てて駆け寄る。


「結奈! どうだった? 先生は?」


結奈は少し俯いていたが、顔を上げると、いつものように……いや、いつもよりも少し儚げな笑顔を見せた。


「翔くん、よかったね。先生が……なんとかしてくれるって」

「えっ、本当か!?」

「うん。今回は先生が個人的に立て替えて、見なかったことにしてくれるって。だから、誰にも言っちゃダメだよ?」


俺は全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。助かった。首の皮一枚で繋がった。


「よかった……本当によかった……。村上先生に感謝しなきゃな。一生頭が上がらないよ」


俺は安堵のあまり、結奈の様子がおかしいことに気づけなかった。彼女の手が微かに震えていることも、その瞳の奥に深い絶望と、悲壮な決意が宿っていることも。


「そうだね……。翔くんは、バスケ頑張ってね。絶対に、プロになってね」

「ああ、もちろんだ! 今回の分も、絶対に活躍して返すから!」


俺は結奈の手を握りしめた。彼女の手は氷のように冷たかった。


「……ごめんね、翔くん。私、今日はもう帰るね。家で用事があるの」

「あ、ああ。送っていこうか?」

「ううん、大丈夫。一人で考え事したいから……。また明日ね」


結奈は俺の手をそっと解くと、逃げるように走り去っていった。

その後ろ姿が、どこか二度と戻らない場所へ向かっているように見えて、俺の胸に得体の知れない不安が過ぎった。だが、俺はそれを「事件のショックだろう」と都合よく解釈し、再び部室へと戻った。


その夜。

俺が家で、母さんにバレないよう必死に平気な振りをしていた頃。

結奈は、震える足で高級マンションのエントランスをくぐっていた。

ポケットの中には村上から渡されたメモ。そして心の中には、「翔くんのため」という呪いのような言葉だけを抱きしめて。

インターホンを押すと、すぐに解錠のブザーが鳴る。重厚なオートロックの扉が開く音は、まるで彼女の人生を狂わせる地獄の釜の蓋が開く音のようだった。


エレベーターが最上階へと昇っていく。

俺を守るという名目のもと、最悪の裏切りが始まろうとしていることを、俺はまだ何も知らずに、安物のベッドで寝息を立てていた。

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