#6 えっ、公費って……都道府県単位でもあるんですか?
愛美は保険証のコピーを数枚、ふたりの前に並べた。
「じゃあ今から、実際に電子カルテに登録されてる内容と照らし合わせて、誤りがないか確認してみましょう」
紬と沙耶はそれぞれ、パソコンの画面と紙の保険証を交互に見比べながらチェックを始めた。
だけど、名前、生年月日、記号・番号、保険者番号、負担割合……。どれも似たような数字や漢字ばかりで、すぐに目がチカチカしてくる。
(これ、全部ちゃんと見てるの……?)
紬は思わずため息をこぼしそうになるのを堪えた。
正直、見るだけで目が滑る。注意してるつもりでも、うっかり見落としそうだ。
そんなときだった。
「……愛美さん、この患者さん、保険証は普通の国保で、28歳なのに、負担割合が“1割”になってます。これって……?」
沙耶が眉をひそめながら、カルテの画面を見つめている。
紬は、一瞬沙耶の質問の意図が理解できず、手元のノートを見返した。
そこには、「6~69歳:原則3割」との記載。本来なら3割負担になるはずだ。
「それね、東京都の“ひとり親家庭医療証”が使われてるの。地方独自の公費制度よ」
「えっ、公費って……都道府県単位でもあるんですか? 教科書では国の公費しか……」
「うん。地方自治体が独自に作ってる医療費助成制度もいっぱいあるの。対象者も、制度の名前も、内容もバラバラだから、現場で覚えていくしかないのよね」
愛美さんの話によると、この制度は、東京都が行っている医療費助成制度の一つらしい。たとえば、母子家庭や父子家庭の子どもや親が、一定の所得未満の場合に、医療費の自己負担が軽くなる。
だから、たとえ28歳でも、制度の対象になっていれば負担割合が“1割”になることもあるんだとか。
——そう説明しながら、愛美は手元の医療証にもう一度、ちらりと視線を落とした。
そこに印字された生年月日と住所の横に、小さな文字で印刷された番号と、対象者情報。
《28歳・女性・ひとり親》——たったそれだけの情報なのに、その文字列がやけに愛美の胸に残った。
(……この人、28歳か。私と、ほんの2つしか違わない年齢。それなのに、結婚して、出産して、いろんなことを経験して、今は母親として子どもを育てている)
(私は——30歳。医療事務歴はもうすぐ10年。仕事の知識も、経験も、それなりにある。でも……プライベートでは、誰かと深く関わったことなんて、ない。付き合ったことも、一度もない)
(「年齢不詳」とか、「小学生みたい」とか、冗談っぽく言われるたびに笑ってみせるけど、本当はそれがずっとコンプレックスだった。みんなが“ちゃんと大人”になっていく中で、自分だけが取り残されていくような……そんな気がするときがある)
(……28歳で“母親”かあ。立派だなと思う。でも、それと同じくらい、自分が情けなく思えてくる)
(私がこうして新人教育に力を入れてるのも……もしかしたら、どこかで「誰かを育てたい」って思ってるからなのかもしれない。母親にはなれなかったけど……それに似た何かを、知らないうちに求めてるのかな)
患者の人生を想像して胸を打たれたのか、それとも、自分の何かと比べてしまったのか。その境界線はよくわからなかったけれど、ほんの一瞬だけ、保険証の文字が滲んで見えた。
けれど、紬と沙耶の問いかけにハッと意識を戻し、すぐにいつもの笑顔を取り戻す。
気持ちを切り替えるように、愛美は小さく息を吐いた。
「ごめんね、私がちゃんと集中しないといけないよね。じゃあ続きをやろうか」
プリントを机に置き、優しくペンを走らせる彼女の手元に、迷いの影は見えなかった。
沙耶は目を見開いて、ノートに「※地方の公費=教科書に載ってない」と書き加えていた。真面目な彼女が、ほんの少しだけ戸惑っているように見えた。
(……“ひとり親家庭医療証”。そんなの、聞いたこともなかった)
愛美は、医療証のコピーを指差しながら、さらに付け加えた。
「ひとり親だけじゃなくて、他にもいろんな公費制度があるのよ。たとえば——乳幼児医療、障害者医療、重度心身障害者医療、高齢者の介護関連とか」
「……そんなにいっぱいあるんですか?」
「うん。医療費って、本当に大きな負担になるからね。経済的に弱い立場にある人や、継続的な治療が必要な人をサポートするために、国や自治体が“自己負担を軽くする仕組み”を作ってるの」
「へえ」
「それが公費。簡単に言うとね、“この人は全部自分で払うのは大変だよね”って国や自治体が判断して、医療費の一部を肩代わりしてくれる仕組みのこと」
沙耶が驚いたように目を丸くしていると、愛美は少し間を置いてから、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「そういえば、コロナのときも、特別な公費制度があったのよ」
「えっ、コロナですか?」
「うん。ちょうど数年前、まだコロナが“新型コロナウイルス感染症”って呼ばれてた頃ね。あの頃は、感染症法に基づいて“公費負担”で検査費用、入院費がまかなわれていたの。自己負担はゼロで」
「ゼロって……全額ですか?」
「いや、検査と入院費だけ。指定医療機関でのPCR検査や入院費、重症化リスクのある人の治療薬なんかが、国の負担になってたのよ。ただし、時期によって制度が何度も変わってて。たとえば、発熱外来の診療は公費の対象外になったり、自己負担が一部復活したり……」
「へえ……そんなこと、知らなかったです。私たちが学生のときは、もう落ち着いてたので……」
「そうね。当時は制度の変更が頻繁で、現場も本当に混乱したの。公費で出る薬も日によって違ったりして、受付も薬局も、毎日のように確認作業だったわ」
愛美は、少し遠い目をしながら続けた。
「でもね、ああいう大きな感染症のとき、国が“公費で医療費をカバーする”っていう仕組みは、人の命を守るうえで本当に大事なのよ。お金がないから受診できない、っていう状況を防ぐためにね」
沙耶と紬は、黙って頷いた。
「公費って、病気や立場に関係なく、“必要な人に医療を届けるための橋渡し”なんだと思う。だから、制度の背景や意味も含めて、ちゃんと理解しておくことが大事なの」
「なるほど……」
「もちろん、制度によって対象者も内容も違うし、都道府県や市区町村ごとにバラバラ。だから、受付では“ただ医療証を預かる”だけじゃなくて、“それがどういう公費か”“患者さんの負担がどう変わるか”を理解しておかないといけないの」
そう言って愛美は、デスクの上の医療証をピックアップした。
「これなんかは“乳幼児医療証”。対象年齢によっては、全額公費でカバーされることもあるの。だから、保険証と医療証、どちらもきちんと確認するのが大事」
沙耶が、ふと手を止めて首をかしげた。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「うん、どうしたの?」
「さっきのコロナの公費の話なんですけど……私、その頃まだ中学生だったんです。その場合って、コロナの公費と、子どもの医療費助成って……両方使われてたんですか?」
その瞬間、愛美の手がぴたりと止まった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
「え、ちょっと待って。沙耶ちゃん……その頃、中学生だったの?」
「はい。確か2年生でした」
何でもないことのように答える沙耶を見て、愛美は一瞬だけ言葉を失った。
(中学生……? コロナ全盛期に……?)
頭の中で、当時の記憶が一気によみがえる。
毎日のように制度が変わり、貼り替えた掲示物。鳴り止まなかった電話。
中学生が社会人になるほどの時間が流れても。
彼氏ができるわけでもなく、身長も、体重も、体型も、変わらないまま。
同じ制服を着て、同じカウンターに立ち続けている。
時間だけが、愛美を置いて先に進んでいくような気がした。
(あの頃、私は……受付で必死に対応してた。その同じ時間を、この子は……学校に通ってたんだ)
胸の奥が、きゅっと詰まるような感覚。
「……ごめんね、ちょっとびっくりしちゃって」
そう前置きしてから、愛美はゆっくりと説明を始めた。
「結論から言うとね、同時に“両方を使う”っていう扱いはしないの。コロナの診療は、感染症法に基づく公費が最優先だったから、年齢に関係なく、それだけで自己負担はゼロになってたの」
「じゃあ……子どもの医療証は?」
「提示してもらうことはあったけど、会計上は使わないことが多かったかな。コロナの公費だけで完結するからね」
沙耶は、なるほど、と小さくうなずく。
「だから私、そのとき……お金のこと、まったく意識してなかったんですね」
「うん。それが、制度の狙いだったの。“年齢や立場に関係なく、必要な人が医療を受けられるようにする”ための公費だったから」
愛美はそう言いながら、沙耶の横顔をちらりと見た。
(中学生だった子が、今はここで、医療事務として真剣にノートを取ってるんだもんね……)
「……時間、経つの早いね」
ぽつりと漏れたその言葉に、沙耶はきょとんとした顔で首をかしげた。
「そうですか?」
「……ううん。こっちの話」
愛美は小さく笑って、もう一度医療証に視線を落とした。
興味深く眺めている紬と視線が重なる。
「……すごい。なんか、“医療事務”って、ただの入力作業だと思ってました」
「ふふ、意外と奥が深いでしょ?」
「……はい。本当に、そう思います」
(一枚のカードの裏に、いろんな人生と、支える仕組みがあるんだ)
紬は、しばらく保険証と医療証を交互に見つめていた。
教科書や参考書には載っていない、地域ごとの仕組み。
しかも、その内容は自治体によってバラバラで、患者さんによっても条件が違う。
(なるほど……こういうのを、現場で覚えていくしかないってことか)




