#23 症状が落ち着いたら、適切な場所へスムーズにお返しすることも、病院の大事な役割
「あと、もう一個大事なのが、ここでの治療が終わった患者さんを、次のリハビリ病院や介護施設に繋ぐ仕事。さっきの会議はこれがきっかけ。2026年度の診療報酬改定で、“下り搬送”に関わる評価がかなり手厚くなったからね」
「下り搬送……?」
聞き慣れない言葉に、紬は首を傾げた。
愛美が補足するように二人のほうを向いた。
「今回の改定でね、大きな病院から地域のクリニックへ患者さんを運ぶ……つまり“下り”の搬送に対する評価が見直されたの。今までは救急車で大きな病院に運ばれてくる“上り”がメインだったけど、これからは“症状が落ち着いたら、適切な場所へスムーズにお返しする”ことも、病院の大事な役割として認められたってこと」
さっきの絞扼性イレウスの搬送は、地域のクリニックから大きな病院へ運ばれてくる“上り”で、今回の改定からは逆の“下り”も重要になる。
「そう。治療が終わって状態が落ち着いた患者さんに、地元の病院やリハビリ施設へ“卒業”してもらうことだよ」
水瀬はホワイトボードに、今度は大きな病院から小さな病院へ向かう矢印を描き足した。
「……卒業ですか」
「でもね、これが意外と難しいんだ」
水瀬が、少し乾いた音を立ててエナジードリンクの残りを飲み干した。
「患者さんやご家族からすれば、“せっかく大きな病院に入院できたんだから、ずっとここにいたい”って思うのが人情でしょ? でも、ここみたいな急性期の病院のベッドは、常にある程度は空けておかないといけない。さっきみたいな一刻を争う急患が、いつ運ばれてくるか分からないからね」
「だから、バトンを繋ぐんですね。今度は、逆方向に」
沙耶の言葉に、水瀬は深く頷いた。
「その通り。でも、ただ“出ていってください”じゃ、あんまりでしょ? だから国は、今回の改定で“特定機能病院等紹介患者受入加算”の中にある、下り搬送に関わる評価をぐっと上げたんだ」
紬はホワイトボードに書かれた文字を指でなぞった。
「とくていきのうびょういん……とう……しょうかいかんじゃ……。名前、長すぎませんか?」
「あはは、確かにね。でもこれ、めちゃくちゃ重要な『ご褒美』なんだよ」
愛美がペンで「加算」の文字を囲んだ。
「国は、私たちみたいな大病院に“難しい手術や治療に専念してね”って言ってるの。その代わり、状態が安定した患者さんを地域の病院にちゃんと引き継いだら、その実績に対して点数をあげますよ、っていうルールなの」
「……あ! さっきの“メッセージ”ですね!」
紬がポンと手を打った。
「正解。国は“大きな病院を長期入院の場所にしないで常に回転させてね”っていうメッセージを、この点数に込めてるんだ。特に2026年度の改定では、救急車で運ばれてきたような重症患者さんを、治療後にスムーズに地域の病院へ繋げた時の評価が、めちゃくちゃ手厚くなったの」
水瀬がモニターを見つめながら、少し真剣な顔になった。
「僕ら連携室の仕事は、入院した初日から始まるんだ。『この患者さんは、手術が終わったらどこのリハビリ病院が最適か』『ご家族のサポート体制はどうなっているか』……それを、患者さんが病室で寝ている間に、裏で全部調整する」
「……入院した初日から、もう“出口”を探しているんですか?」
沙耶が驚いたように聞くと、水瀬は悲しげな、でも誇らしげな笑顔を見せた。
「冷たいようだけど、それが一番、患者さんのためになるんだ。リハビリは早いほうがいいし、住み慣れた地域に戻るほうが回復も早い。それに……」
水瀬は、さっき緊急手術の依頼があったモニターを指差した。
「誰かが“卒業”してくれないと、次の“絞扼性イレウス”の患者さんを受け入れるベッドがなくなっちゃうからね」
“下り搬送”の重要性を語る水瀬の言葉に、愛美が深く頷きながら補足を入れた。
「だからね、うちの病院も今回の改定に合わせて、組織の形そのものをアップデートするんだよ」
「今までは独立していた“MSW”さんたちを、正式にこの連携室の所属に統合したの」
「それに、入院の手続きや説明を専門に行う“入退院サポート”の担当スタッフも大幅に増やしたんだよ」
「……でも、あの、あっちのデスク、誰もいないみたいですけど」
紬がふと、壁際に並んだ一際大きなデスクの島を指差した。そこには“メディカルソーシャルワーカー(MSW)”というプレートが置かれているが、椅子はすべて引かれデスクの上には手付かずの付箋だけが残されていた。
「ああ、今は全員、現場に出払ってるよ」
愛美がホワイトボードの連携室の図に、新しく“MSW”という文字を書き加えた。
「MSW、つまりメディカルソーシャルワーカー。一言で言うと“病気以外の困りごと”を解決するプロフェッショナルのことだよ」
「病気以外の……困りごと?」
紬が小首をかしげると、水瀬が空になったエナジードリンクの缶をカサリと置いて、補足した。
「そう。医師は病気を治すのが仕事だけど、病気が治っても生活が戻らない患者さんはたくさんいるんだ。例えば、多額の医療費をどうやって払えばいいか。一人暮らしでリハビリが必要になったけど、家には階段しかない。介護保険の使い方がわからない……。そういう、お金・家・家族の悩みを、福祉の知識で解決するのが彼らの役目なんだ」
「病院の中にいる、福祉の専門家……なんですね」
沙耶が感心したように頷く。
「そう。だからね、彼らはデスクに座っている暇なんてないんだよ。病棟へ行って患者さんや家族の話を聞いたり、市役所や介護施設と電話で交渉したり、時には転院先の下見にまで行く。今この瞬間も、どこかの病室で“ちゃんと家に帰るための作戦会議”をやってるはずだよ」
水瀬は、誰もいないMSWのデスクを眺め、少しだけ寂しげに笑った。
紬は、空っぽの椅子を見つめた。
そこには、さっき聞いた命のバトンを、病院の外にある日常というゴールまで届けるために、今まさに戦っている人たちの気配が残っている気がした。
「今回の改定で求められているのは“多職種による、切れ目のない支援”なんだよね」
水瀬は空になったバインダーを叩く。
「僕ら連携室が受け入れの手続きをして、入院が決まった瞬間に入退院サポートの看護師が患者さんの不安を聞き取って、MSWさんが退院後の転院先や介護サービスの検討を始める。その一連の流れに医事課さんの診療報酬の知識を組み合わせて、病院全体の経営と患者さんの人生を同時に回していく」
「ふふ、現場はもっと泥臭いけどね」
愛美が楽しそうに笑う。
「でも、これだけ人を増やして組織を変えるのは、それだけ“特定機能病院等紹介患者受入加算”や“入退院支援”のハードルが上がっているからでもあるの。国は“ただ人を置くだけじゃダメ、ちゃんと結果を出してね”って言ってる。だから、私たち事務方も、これまで以上に専門的な知識が必要になってるんだよ」
「だから、水瀬さんのエナドリの量も増えたんですね……」
紬がゴミ箱の空き缶を見ながらボソッと呟くと、水瀬は「鋭いね……」と遠い目をした。
「もう、水瀬くん」
愛美が軽く腕を組んで、呆れたようにため息をつく。
「そんなのばっかり飲んでたらダメだよ。ちゃんとご飯食べてる?」
「え、あ、いや……その……一応は……」
急に話を振られて、水瀬の視線が泳ぐ。
「“一応”じゃダメ。倒れたらどうするの?」
ぴしっとした口調だったけれど、どこか心配の色が滲んでいる。
「水瀬くんが頼りなんだから」
「……っ」
その一言に、水瀬の肩がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ顔を上げて、何かを言いかけて、やめる。
代わりに、いつものように少し困ったような笑顔を浮かべた。
「……善処します」
「ちゃんと改善して」
「は、はい……」
怒られているはずなのに、水瀬の口元はどこか緩んでいた。
紬はその様子を見て、心の中で小さく確信する。
(たぶん今の一言で、エナドリ三本分くらい回復してる)
「……というわけで」
愛美はホワイトボードに、ひときわ太い、病院から地域へと戻っていく逆方向の矢印を書き加えた。
「今までは、クリニックから病院へ送ってもらう“上り”ばかり見ていればよかった。でもこれからは、この“下り”の矢印をどれだけ太く、スムーズに流せるかが、病院の価値を決めるの。私たちの仕事は、患者さんを抱え込むことじゃなくて、適切な場所へ繋ぐことなんだよ」
愛美はパチンとペンを置き、満足げに微笑んだ。その表情は、まさに新しい時代の医療を牽引する自信に満ちあふれている。
「……はい、よくわかりました。バトンの受け渡し、ですね」
沙耶が真剣な顔でメモを締めくくる横で、紬の視線は別の方向へ向いていた。
デスクの隅で、空になったエナジードリンクの缶を片付けながら、水瀬が愛美の背中に視線を送っている。 それは仕事のパートナーに向ける信頼というよりは、もっと熱を帯びた、けれど決して届くことのない切実な矢印に見えた。
(……上りとか、下りとか)
紬は、ホワイトボードの図と、水瀬の熱い視線と、それに一ミリも気づいていないであろう愛美の横顔を、交互に見比べた。
(……愛美さん。病院同士の連携の矢印にはあんなに敏感なのに、すぐ隣から飛んでくる熱量に溢れた矢印には、完全に無自覚なんだよなぁ)
水瀬が、愛美のさりげない「いつも助かってるよ」という一言だけで、エナジードリンク以上に赤くなっている。
(この連携がスムーズにいくのは、制度の力っていうより、水瀬さんの献身っていう名の一方通行のおかげな気がする……)
「紬ちゃん? どうしたの、ぼーっとして」
「あ、いえ……! 病院って、いろんな意味で調整が必要なところが多そうだな、と思いまして」
紬の言葉に、愛美は「そうでしょ? 医療事務は奥が深いのよ」と、どこまでも晴れやかに笑った。
窓の外では、夕闇が迫る中、一台の救急車がサイレンを鳴らしながら病院の入り口へと吸い込まれていく。
それを見送る水瀬の背中に、紬は心の中で点数のつかないエールをそっと送った。




