#22 無理して働かせる病院には、お金をあげない
地域連携室は、外来受付から少し離れた静かな場所にあった。
「失礼しまーす」と愛美がスイングドアを開けると、そこには数人の職員が電話をかけたり、大量の書類を整理したりしていた。
鳴り止まない電話の音、吐き出されるFAXの紙の擦れる音。
その中心で、電話をしながらキーボードを叩いている男性が、ひときわ目立っていた。
派手なネクタイをしているわけでも、鋭い眼光を放っているわけでもない。
清潔感はあるが、街ですれ違っても三歩歩けば忘れてしまいそうな、あまりにも普通の佇まい。
「水瀬くーん、ちょっといいかな?」
「あ、愛美さん! お疲れさまです!」
奥のデスクから慌てて立ち上がったのは、一見するとどこにでもいそうな、至って普通な雰囲気の男性だった。短く整えられた髪に、少しお疲れ気味の目元。
手には使い古されたバインダーと、大量の付箋が貼られた紹介状のコピーが握られている。
首から下げた職員証には『地域連携室 水瀬』と記されている。
「ごめんね、忙しいときに。新人の二人の顔合わせに来たの」
「いえいえ! ちょうど今、一件調整が終わったところなので……」
水瀬はそう言いながら、デスクの隅にあった、毒々しい色の液体が半分ほど残ったエナジードリンクの缶を、さりげなく(しかし完全に見える形で)書類の山に隠した。
「新人の日下さんと木崎さん。これから関わるから、今のうちに挨拶しておこうと思って」
「は、はい! 日下紬です! よろしくお願いします!」
「木崎沙耶です……よろしくお願いします」
二人が頭を下げると、水瀬は慌てて立ち上がり、手元の資料を整理しようとして逆にバラ撒きそうになった。
「あ、初めまして。水瀬と言います。医事課の皆さんが窓口で『紹介状ありますか?』って聞いてる裏で、必死にFAXと電話を捌いてるのが僕らです」
水瀬は、人当たりの良そうな、けれどどこか卑屈なまでの低姿勢で二人に頭を下げた。
紬はその拍子に、彼のデスクの端に置かれた空き缶の山を見逃さなかった。
(……あの量、全部一人で飲んだのかな)
「水瀬くんはね、地域のクリニックの先生方から『水瀬さんに頼めばなんとかしてくれる』って絶大な信頼を置かれてる、連携室のエースなんだよ」
「よ、よしてくださいよ愛美さん! 僕はただ、断るタイミングを逃してるだけですから……」
水瀬は顔を赤くして、手元のメモ用紙を無意味に弄んだ。
その視線が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ吸い寄せられるように愛美の横顔に向き、すぐに弾かれたように足元へ落ちる。
「連携室って、外来受付とはまた違う大変さがあるんですか?」
沙耶が純粋な興味で尋ねると、水瀬は苦笑いしながらエナドリの缶をチラッと見た。
「そうだね……。受付は患者さんの気持ちを受け止める場所だけど、ここは医師の“わがまま”を受け止める場所かな。 『この患者さん、どうしても今日検査して!』って無理を言うクリニックの先生と、『もう枠がいっぱいだよ』って渋るうちの先生の間で、ひたすらペコペコするのが僕の仕事なんだ」
「……大変そうです」
沙耶が同情を込めて言うと、水瀬は「あはは……」と力なく笑った。
「まあ、でも、紹介状は『バトン』だから。僕たちがそのバトンを落としたら、患者さんが走れなくなっちゃう。だから、少しくらい無理を言われても、受けちゃうんだよね。それに、僕も前職はクリニックだったから、紹介する側の苦労もわかるからね」
水瀬はそう言って、愛美のほうをチラリと見た。
「うん、いつも助かってるよ。水瀬くんがいないと、うちの外来はパンクしちゃうもん」
愛美が屈託のない笑顔で返すと、水瀬は昇天しそうなほど嬉しそうな、それでいて「自分なんかがそんな言葉をもらっていいのか」と困惑したような、でも優しそうな笑顔を浮かべた。
その手には、受話器と、半分開いたままのファイルが握られている。
水瀬が説明を続けている間も、背後では数人の女性スタッフが、まるで機械のような手つきで紹介状の束を処理していた。 封筒をハサミで切り、中身を検品し、高速スキャナーに通していく。モニターには次々と患者の基本情報と、紹介元クリニックの医師が書いた生々しい所見が映し出されては、電子カルテの海へと送り込まれていった。
「……あ、あの、水瀬さん。今、お忙しいですか?」
紬が遠慮がちに尋ねると、水瀬は一瞬だけ背後のデスクに積まれた書類の山に視線をやり、すぐにまた二人に向き直った。
「いえ、大丈夫ですよ。……あ、ちょうど今、近くのクリニックさんから『どうしても今日中に診てほしい』って患者さんの調整をしてたところで。ちょっと、断りきれなくて……」
「今日中……? もう外来、終わる時間ですよね?」
沙耶が驚いて聞くと、水瀬は苦笑いしながら頬をかいた。
「そうなんです。でも、先生が『水瀬さんなら何とかしてくれるよね』って仰るから、つい……。今、内科の先生に平謝りしながら枠をこじ開けてもらったところです」
(……この人、いい人すぎて苦労してるタイプだ)
紬と沙耶の思考が、見事に一致した。
「水瀬くんはね、地域連携室の『防波堤』……というか、むしろ『砂浜』かな」
愛美がくすくす笑いながら付け加える。
「波を全部、優しく受け止めちゃうの。クリニックの先生からも、うちの医師からも、『水瀬さんに言えばなんとかなる』って思われてる、ある意味ですごい人なんだよ」
「……褒められてる気がしませんよ」
水瀬は力なく笑い、手元の受話器をそっと置いた。
「でも、お二人もこれから受付に立つと、僕のところに電話することが増えると思います。『紹介状があるって言ってるけど、予約リストに名前がない!』とか、『急患の紹介が来たけどどうすればいい?』とか……」
水瀬は少し真剣な目になって二人を見た。
「ここで詰まると、患者さんを紹介してくれたクリニックにも迷惑がかかりまず。だから、紹介状に関することで困ったことがあったらすぐに連絡してください。たとえ僕がいっぱいいっぱいでも、何とかしますから」
その「何とかします」には、根性論というよりは、断りきれない悲しき性分のような響きがあった。
「……あ、そうそう。他の病院からうちに救急搬送されてくる“転院搬送”っていうのもあるんだ」
水瀬がバインダーを片手に、ホワイトボードの余白に矢印を描く。
「例えば、小さい病院で手に負えなくなった急患を、うちみたいな設備の整った病院に救急車で移送すること。これも僕らの大事な……」
その時、デスクの電話が鋭く鳴り響いた。 水瀬は反射的に受話器を取る。
「はい、連携室・水瀬です。……ええ、〇〇病院さん? はい、紹介ですね。疾患は……えっ、絞扼性イレウス!? 分かりました。すぐに外科に確認します。そのまま切らずにお待ちください!」
水瀬の顔から余裕が消えた。彼はすぐさま内線を回し、外科の当直医を呼び出す。
「先生、お疲れ様です、連携室・水瀬です! 〇〇病院から緊急手術目的での転院搬送の依頼です。70歳女性、絞扼性イレウス確定! 腹部CTで造影不良あり、“Closed Loop”とCRP上昇、門脈ガスも……はい、はい! ショックバイタルではないですが、緊急手術の可能性があります。……受け入れ、お願いします!」
受話器を肩に挟みながら、水瀬はマウスを激しく操作して、ベッドとオペ室の空き状況を確認する。数秒の沈黙の後、水瀬の顔に緊張混じりの安堵が走った。
「了解です! ……〇〇病院さん、お待たせしました。当院外科で受け入れ可能です。救急搬送の準備をお願いします。紹介状とデータは先行してFAXで……はい、お願いします!」
電話を切った水瀬は、大きく一つ、深呼吸をした。
「……日下さん、木崎さん。今のが“転院搬送”の現場だよ」
沙耶は圧倒されて言葉が出ない。紬が震える声で尋ねた。
「あの……さっきの、なんとか性イレウスって……?」
「簡単に言うと、腸が何らかの原因でねじれたり、締め付けられたりして、血が通わなくなる状態のこと。普通の腸閉塞と違って、“絞扼性”は一刻を争うんだ」
水瀬は自分の腕をもう片方の手で強く握りしめた。
「こうやって血流が止まると、腸が数時間で壊死する」
紬は思わず自分の腹を押さえた。
言葉は短かったのに、想像してしまった光景は重かった。
「そうなると、もう元には戻らない。黒くなった腸を切り取って、生きている腸同士を繋ぐしかないんだ」
静かな声だったが、その一言に手術室の緊張が詰まっている気がした。
「……そんなに、急ぐんですね」
沙耶が小さく呟く。
「うん。だからさっきみたいな電話が来ると、みんな一斉に動く。紹介元の病院、救急隊、外科医、手術室、病棟……。誰か一人でも止まると、バトンが落ちる」
背後でFAXがまた吐き出された。ガガガッ、という機械音が部屋に響く。
女性職員が紙を受け取り、慣れた手つきで封筒を開き、スキャナーに通す。
画面の中に、患者の情報がと流れ込んでいく。
「僕ら連携室は、その最初の受け取り役なんだ」
水瀬はデスクのモニターを指さした。
そこには、たった今スキャンされた紹介状のデータが表示されている。
「……私たちが窓口で事務作業をしている間に、裏ではこんな……“命のやり取り”がされてるんですね」
「そう。だから、連携室と受付の情報共有は命がけなんだ。搬送車が着いたとき、受付で『えっ、聞いてません』なんてことになったら、その数分が致命傷になるからね」
水瀬はそう言って、再び愛美のほうを見た。
「こういうクリニックから『救急車で行かせるから受けてくれ』って電話が来たら、症状を聞いて、ベッドの空きを確認して、担当医に確認をとって受け入れる」
「……でもね、今みたいに『はい、受けます!』って即答できるケースばかりじゃないんだ。今の日本、特にこの地域でも“医師の働き方改革”っていう大きな波が来てますからね」
「昔は、ようやく手術が終わっても、外科医に休みはなかったんだ。そのまま翌日の朝の回診に出て、外来診察をこなす……。そんな『超人』的な働き方で、日本の外科医療はギリギリ持ち堪えてきたんです」
一瞬、部屋が静まり返る。
「例えば、この患者さんの手術でも、腐った腸から漏れ出た毒素が腹膜に回っていたら、お腹の中を大量の生理食塩水で何度も何度も洗浄しなきゃいけない。執刀する外科医は、深夜だろうと明け方だろうと、強いライトの下で、数ミリ単位の血管を処理し、命のバトンを繋ぎ止めるために何時間も神経を削るんです」
水瀬の言葉には、事務職でありながら、その過酷な光景を何度も間近で見てきたような重みがあった。
「……だから、今回の改定なんです」
愛美が、静かに、けれど力強く言葉を繋いだ。
「そんな外科医たちの献身という名の無理に、ようやく国がちゃんとした対価を払おうと決めた。それが新設された、“外科医療確保特別加算”。これが、今の水瀬くんの話にあった命を削る現場を守るための新しい武器なの」
紬は思わず手元のメモ帳を見下ろした。
(……外科医療、確保、特別……加算?)
単語が多すぎて、頭の中で渋滞している。
「……あの」
沙耶が遠慮がちに手を挙げた。
「それって、つまり……手術が大変だから、その分お金を多く払うってことですか?」
愛美と水瀬は顔を見合わせ、同時に少し笑った。
「うーん、惜しいかな」
水瀬が椅子を少し引き寄せ、モニターを指差す。
「今までも、手術そのものにはちゃんと点数がついてたんだ。でもこれは少し違う」
「違う……?」
紬が首をかしげる。
「これはね、“手術をいつでもできる体制”に対して払われるお金なの」
水瀬の説明を補うように、愛美がホワイトボードにさらさらと図を描いた。
昼の病院と、夜の病院。その横に、ぽつんと描かれた手術室。
「例えばさっきの絞扼性イレウス。もし深夜2時に搬送されてきたらどうなると思う?」
紬は一瞬考えて、答えた。
「……外科の先生を呼び出して、すぐ手術……ですか?」
「そう。でもね」
水瀬が少しだけ苦笑した。
「その先生、もしかしたら昼間ずっと手術してたかもしれないんだ」
「え……」
「昔は普通にあったんですよ」
水瀬は淡々と続ける。
「朝から夕方まで手術して、そのまま夜に緊急手術。終わる頃には朝4時。それでも朝の回診に出て、そのまま外来」
沙耶が思わず声を上げた。
「それ……寝てないですよね?」
「ほぼ寝てませんね」
水瀬はあっさり言った。
紬の背中に、ぞくっとしたものが走った。
(それって……人間の働き方なの?)
「そもそも、手術って、そんな朝から夕方までかかるものなんですか?」
水瀬と愛美が、一瞬だけ顔を見合わせる。
「……かかるよ」
水瀬が静かに言った。
「例えば心臓血管外科の手術。大動脈解離とか、弁置換とかになると――」
水瀬は少し遠くを見るような目をした。
「8時間とか、10時間とか普通にある」
「えっ」
紬のペンが止まった。
「もちろん途中で交代することもあるけど、メインの執刀医は最初から最後まで立ちっぱなし。顕微鏡みたいな世界で、ミリ単位の血管を縫い続ける」
「それ、休憩とか……」
「ほぼないね、心臓止めてる時間があるからね。長く止めすぎると患者さんが危ない。だから基本、ノンストップ」
紬の頭の中に、白いライトの下で何時間も立ち続ける外科医の姿が浮かんだ。
沙耶がぽつりと呟いた。
「それ……どれだけ働いているんですか?」
水瀬は少し考えてから答えた。
「働き方改革が始まる前だと、外科医は年間2,000時間近い残業って言われてたね」
「に、2,000時間!?」
紬が思わず声を上げる。
「普通の会社員の残業上限が360時間だから……」
水瀬は苦笑した。
「まあ、桁が違うよね」
水瀬は少しだけ視線を落とし、続けた。
「しかも問題は、それだけじゃないんです」
「え?」
「外科って、そもそも医者の数が減ってるんですよ」
紬と沙耶は同時に顔を上げた。
「減ってる……?」
水瀬はホワイトボードの隅に、さらさらと円グラフのような図を描いた。
「医者の総数は昔より増えてるんです。でも、人気のある診療科と、そうじゃない診療科で、人数のバランスが崩れてきてる」
愛美が横から補足する。
「うん。これが“診療科偏在”って言われてるの」
「例えば、皮膚科とか眼科とかは比較的生活が安定しやすい。一方で外科や産科、小児科は、忙しいし、訴訟リスクも高いし、夜中に呼び出される」
水瀬が苦笑した。
「だから若い医師が、外科を選ばなくなってきてるんです」
紬の頭の中に、さっき聞いた言葉がよみがえる。
深夜の手術。朝まで続く執刀。そしてそのまま外来。
(……それ、誰がやりたいと思うんだろう)
「結果として、どうなるか」
水瀬はホワイトボードに大きく矢印を書いた。
“外科医が少ない→一人あたりの負担が増える→さらに外科医が減る”
「……悪循環ですね」
沙耶がぽつりと呟く。
愛美がホワイトボードに大きく丸を書いた。
「このままだと外科医がいなくなっちゃうから、国が考えたの。“24時間手術できる体制を維持している病院には、その体制自体にお金を払おう”って」
「体制……?」
「うん。例えば」
水瀬が指を折りながら数える。
「ちゃんと外科医を休ませていること。連続勤務時間を制限していること。手術のあとに休息を取らせていること」
「つまり、無理して働かせる病院には、お金をあげないということですか?」
沙耶がぽつりと呟くように尋ねると、二人は同時に、そして同じ角度でこちらを振り向いた。
「「そう、正解!」」
完璧に揃ったハモリに、紬は思わず後ずさった。
(……え、何このシンクロ率)
紬は、二人の話に圧倒されていた。専門用語の羅列。複雑な算定ルール。
普通なら眉間にシワが寄るような硬い話を、二人はまるで昨日の晩ごはんの話でもするかのように、互いの言葉を補完し合いながら紡いでいく。
「だから病院側も、外科医をちゃんと守らないといけなくなった。これが“外科医療確保特別加算”」
「……その体制を維持するために、連携室の動きも重要なんですよ」
水瀬がマウスを操作しながら言った。
「僕たちが紹介患者の情報を早く回せば、手術までの時間が短くなる。そうすると、手術室のスケジュールも回る」
「つまり、水瀬くんのFAX処理が速いほど、病院の経営も良くなるってこと」
「僕の胃痛と引き換えですけどね」
「そこは頑張りなさい」
(……水瀬さん、さっきまであんなに顔真っ赤にして挙動不審だったのに。仕事の話になった途端、愛美さんと呼吸が合いすぎじゃない?)
笑い合う二人を見て、紬は心の中で確信した。
「……あの、日下さん? どうかしました?」
水瀬が不思議そうに顔を覗き込んできたが、紬は引きつった笑顔で「いえ、勉強になります!」と答えるのが精一杯だった。




